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二話 イズメイル

 新米魔術師の名前はイズメイル。出身は自治州プリュクサで、家族はすでにおらず、州都フォティアの魔術師レグロスに二年ほど前に弟子入りし、フォティアでも評判の魔術師の卵だったということ。


 エウリアスが、かの子供について分かったのはその程度だった。登用試験を窓から覗いたあの日からすでに一週間が経とうとしていた。結局、かの子供は登用試験には無事合格したらしい。今は宮殿内の魔術師専用宿舎で生活しているようだった。会いたいと、ニクスールや侍従たちにせがんでもみたが、すげなく断られた。それならばせめて、とエウリアスは彼について様々な情報を集めようとしたが、詳しい話を聞かせてくれるものはいなかった。あえて隠そうという魂胆の者も少なからずいたことだろう。そのような些細な嫌がらせにも悲しいかな彼は慣れていた。だから、誰も教えてくれないのであれば、どうすればよいのかも、エウリアスはよく知っていた。

 誰も教えてくれない会わせてくれないのであれば、自分から会いに行って本人から教えてもらえばいいじゃないか。

 思い立ったが吉日。エウリアスの行動は早かった。


 その日の午後、一日の日課が終わり――授業を抜け出すことも考えたが、先日のニクスールの説教にはこりごりしていたのでしばらくはその気になれなかった――、空いた時間に彼は魔術師の宿舎に潜り込むことを画策した。皇子の仕立てのよい衣装を脱ぎ、下働きの子供から拝借した粗末な貫頭衣とサンダルを身につける。宮殿内での悪戯用にと常に隠し持っているそれはこういう時にも非常に役に立つ。着替えて整えられた髪をくしゃっと乱せば、どこからどう見ても下働きか庶民の子供だ。皇子には見えない。


 エウリアスは浮き立つ心を抑え、宿舎を目指して駆け出した。途中、本物の下働きと間違えられて捕まりそうになったが、うまく誤魔化し逃れる。

  魔術師の宿舎は、エウリアスが普段生活する居住区の北端に位置していた。彼が暮らす部屋は南端なので、正反対の場所になる。広い宮殿内ではその距離は決して近くはない。エウリアスが宿舎にたどり着いた頃には、まださほど気温の高くはない春とはいえ、首筋や額にじっとりと汗が滲んでいた。


 エウリアスは、植木の陰に身を潜めて、出入り口付近を観察する。モザイクで飾られた半円形の門を、黒い貫頭衣に身を包んだ魔術師数人が出たり入ったりを繰り返している。時折仲が良いとおぼしき魔術師同士が親しげに言葉を交わしたりしていた。だが、しばらく様子を窺っていても、あの小柄な可愛らしい魔術師は姿を現さない。深く考えずにここまでやって来たが、もしかしたら今はここにいないのではないだろうか、とふと思い立ち、エウリアスは頭を抱えた。それならば、はるばるやって来た意味がない。だが、まだいないと決まったわけではないのだ。もう少し様子を見てみよう。

  植木から少し顔を出してみる。その時だった。


「そこで何をしているの?」


  背後からかけられた澄んだ声に、エウリアスは弾かれるように振り返った。日差しに輝く白い髪、自分よりも背の低い小柄な体つきに、エメラルド色の瞳の嵌め込まれた美しい顔立ち――。エウリアスの幻覚か、それとも実際にそうであったのか。その子供の周囲に、火の粉の麟粉を散らす炎の蝶と青い氷の鳥が輝きながら舞っているのが一瞬見えたような気がした。


「イズメイル!」


 エウリアスは喜色を浮かべて目の前の子供を指差し叫んだ。彼は眉をひそめ、不快そうな顔をするが、それには構わずエウリアスは立ち上がり、イズメイルににっかりと笑いかける。


「俺、お前に会いたかったんだ。この前ちらっとお前を見かけて気になっていてな。ここにいてよかったよ」

「……誰?」


  困惑するイズメイルの顔を、エウリアスはまじまじと見つめた。華奢な体つきと可憐な顔立ち。滑らかな肌は健康的な小麦色で、目尻が僅かに吊り上がった涼やかな目元が勝ち気な印象を与える。口許は品よく整い、白金の編み込んだ髪が日光に透かされてきらきらと光っているのが美しい。やはり近くで見ても男には見えなかった。


「……お前、本当は女だろう? お前みたいな男、見たことないぞ」


  エウリアスはイズメイルの頭の上から爪先までを眺め回して言う。その言葉に悪意はなかった。ただ、思ったことを素直に口にしただけだった。だが、それが失言だったと判明するのに、そう時間はかからなかった。

 イズメイルは呆然と目を見開き、瞬く間に頬を紅潮させた。エメラルド色の瞳には怒りの炎が燃え上がり、彼の周りで暴風が吹き荒れる。驚くような早さで構えられた拳を、迷いなく頬に叩き付けられたエウリアスは、もんどりうって地面に転がった。


「誰が女だって? もういっぺん言ってみろ! 今度は鼻の骨をへし折ってやる!」


 怒りも露な彼の声を遠くで聞きながら、エウリアスは目の前を飛び交う星を眺めていた。

 怒らせてしまったようだった。本来ならば謝るべきなのだろう。だが、なぜ自分が、所詮は庶民にすぎない子供に問答無用で殴られ、打ち倒されなければならないのか。じわじわと怒りが沸き上がる。


 ばねのように跳ね起きたエウリアスは、虫けらでも見るような一瞥を寄越して立ち去ろうとしていたイズメイルの肩を掴み、振り向いた彼の顔面に拳を振りかぶった。ふいを突かれたイズメイルは、先ほどの自分と同じく地面に転がる。その様子は、少なからずエウリアスの溜飲を下げさせた。だが、相手もそう簡単に引き下がる手合いではなかったようで、鼻血を垂らしながら再び向かって来たイズメイルは、手負いの獅子の形相でエウリアスに飛び掛かる。


 そこからは乱闘だった。お互い揉み合いながら見境なく拳を繰り出す。もはや自分の拳が相手のどこに当たっているのかも分からないし、自分を殴る手が相手のものなのか自分のものなのかも分からない。自分がイズメイルの髪を掴んで地面に顔を押し付ければ、相手は脛を蹴り付けてくる。

 やがて、騒ぎを聞き付けたであろう魔術師数人が宿舎から出て来て、二人を引き剥がそうと間に入った。


「イズメイル、止めなさい!」

「離してください! こいつが悪いんだ。こいつが僕を女だと言ったんだ!」

「とりあえず落ち着くんだ」


 そうこうしているうちに、ニクスールが宿舎を目指して走ってくる。彼は、中庭で乱闘騒ぎを起こしているのが、自分の主であるエウリアス皇子だと分かるやいやな、悲鳴を上げた。


「エウリアス殿下! 何をなさっておいでですか! おい、その無礼な子供を早く殿下から引き離せ! 誰か、衛兵を!」


 ニクスールの叫び声に顔を青ざめさせたのは、魔術師たちだった。よく見れば、確かに下男のような格好をしてはいるが、イズメイルと取っ組み合っている少年はここヴルグラル帝国の末の皇子エウリアスで間違いなかった。

 魔術師たちは興奮して暴れる新入りの少年を、無理矢理引き剥がした。腕と足を掴み、ようやく皇子から離れたその身体を地面に転がすと、なおも暴れる手足を無理矢理押さえ付け、彼が殴り、引っ掻き、傷付けた相手が誰なのかを言い聞かせる。


「邪魔をするな! これは俺とそいつの問題でお前らは関係ないだろう!」


  喧嘩相手と引き離されたエウリアスが憤慨しながら大声を上げる。

 地面にうつ伏せに押さえ付けられたイズメイルは、愕然とエウリアスを見上げていた。自分が殴った相手が皇子だとは信じがたい、信じたくない、とでも言いたげなその眼差しが、妙にエウリアスを苛立たせた。


「おいお前、そいつを放せ。まだ決着が付いていない」


 エウリアスはイズメイルを押さえ込む若い魔術師に向かって言う。彼は断固拒否するが、エウリアスにはそれが面白くない。


「この俺がそいつを放せって言ってるんだ。皇子の言うことが聞けないのか!?」

「いい加減になさいませ!」


 ニクスールが彼をぴしゃりと黙らせる。衛兵たちが足音も賑やかに駆けつけたのはその時だった。彼らには宮廷魔術師長セレスティウスが同行していた。

 やって来た衛兵は、力強いその腕で瞬く間にイズメイルを立ち上がらせ、後ろ手に拘束する。彼が暴れる素振りを見せると、静観していたセレスティウスがゆっくりと少年に歩み寄り、その頭に軽く触れた。イズメイルは短い悲鳴を上げて目を見開くと、そのまま糸が切れたように気を失い、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。

 エウリアスには何が起こったのか分からなかった。呆然と彼を見上げると、白い顎髭も豊かな老齢の魔術師は、穏やかな口調で彼に語りかける。


「どうも興奮しているようでしたので、少し眠らせる魔術をかけたまでです。なに、心配はいりませぬ。死んではおりませんからな。まあ、貴方様に怪我を負わせたとあれば死を賜らないとは言い切れませんがな」


  そう言って笑うセレスティウスの姿に、エウリアスはふいに不安を募らせる。自分はただ、この少年のことを知りたかっただけだ。結果的に乱闘になってしまったが、まさか、そのせいでこの美しい魔術師の少年が死んでしまうかもしれないだなんて、予想だにしていなかった。


「こいつは、死罪なのか……?」

「知らなかったとはいえ、皇族に手を出しあまつさえ怪我までさせたとあれば、縛り首か、よくて追放でしょう」

「俺はそんな事望んでない!」


  エウリアスが叫ぶと、ニクスールが冷たい眼差しを向けてくる。貴方が招いたことだと、その目は雄弁に語っていた。心臓を鷲掴みにされるような痛みと罪悪感が押し寄せる。

 イズメイルは拘束され、衛兵の肩に担がれて運ばれてゆくところだった。小僧を地下牢に放り込んでおけ、この件は宰相と陛下に報告しろ、と隊長が指示を出している。


「そいつは俺が許すから、お咎めなしにしろ」


  そう言うと、ニクスールは呆れたようにため息をつき、頭を振る。


「まずは貴方の手当てをしなければ。お気づきですか? 全身傷だらけですよ」


 エウリアスは自分の全身を改めて俯瞰した。生成の貫頭衣はぼろぼろで、引っ掻き傷と青あざが身体を彩っている。顔を見ることはできないが、頬や目元がヒリヒリと痛む。

 指摘されて初めて自分の怪我に気づくと、急に痛みが身に染みて思わず顔をしかめた。エウリアスは、ニクスールと侍従たちに支えられながら来た道を戻り始める。イズメイルが連行されて行った道を振り返るが、すでに彼らは姿を消していた。宿舎はようやく落ち着きを取り戻し、心配そうな面差しの魔術師たち数人を残して、平常に戻ろうとしている。

 イズメイルはどうなるのだろう。エウリアスには、彼の処遇が気になって仕方がなかった。



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