堕ちた死神の行く末
人間の世界に興味があって気になって仕方ない新米の死神のお話です。
失敗した死神ウラルにルシファーはどう対処するのでしょう?
1人の死神少年の物語をどうぞお楽しみ下さいませ。
カクヨムにも掲載をさせてもらいました。
死神の少年ウラルは高いビルの屋上に居た。
柵の外側で足をぷらんと揺らしながら座り来るべき時を待ってその場にいた。なんとはなしに見ていたはずが、眼下に広がる景色に興味をそそられ瞬きすら忘れて見つめていた。
彼は待つべき時刻よりも早く所定の場所へ向かうのが常だった。
それは仕事に忠実だからとか真面目だからとかそう言う理由ではなかった。ただ、人間の世界を眺めることが好きだったから。
人は常に動き回り何かを考え地上という呪縛の上で日々を過ごし、一定の時間を過ごして天へと帰って行く。長いようであり短いようでもあるその一瞬を、流星のようにもがきながら生きていく。ウラルにはそれが不思議だった。
苦しみにより輝く魂や喜びによって輝きを増す魂を知っているけれど・・・。
(神の作り上げたこのシステムの真の目的とはなんだろう?)
彼らの営みはまるで時を織る様に、行きつ戻りつ互いに織りなす出会いと別れの積み重ね。織りあがるとき何が創造されるのか。
「汽水域・・・」
ふと、先輩の言葉を思い出して口にしてみる。
『この世は、天国と地獄の間にある汽水域のような場所なんだよ。人の心次第で天国にも地獄にもなる、不思議な所だ』
先程まであった夕日も落ちて、今では地平線に近い場所がわずかな光の面影を深い青色に留めている。建物や車の放つ沢山の灯に人々を重ね合わせ、彼らの心が万華鏡の様に瞬時に変わる様をウラルは思いだしていた。
その時、目の端に動く者を捉えてウラルははっとした。
陰はゆっくりと地面へ落下していった。ウラルも咄嗟に外壁を蹴って後を追った。
「・・・今、何と言った?」
低く押し殺した声は足元に振動を感じさせ、地を伝ってウラルの足から這い上がってくるように思われた。ウラルは身を縮ませ顔を上げる勇気も持てず足元に目を落とす。
「す・・すみませんッ! あの、その、迷わせるよりはと思って・・・」
「ああッ?!」
お怒りはごもっともです、申し訳ありません。すみませんでした。心の中で何度も繰り返してみても、喉を締められたように声が出てこない。
ウラルはひたすら上司と床の間で目を泳がせているばかりだった。
少年の姿のウラルを死神の黒い制服が小さく見せるのに、今では蟻のように小さく見えそうな程縮こまり立ち尽くしていた。そんなウラルの袖を握りしめ半分隠れながら少女が脇に立っている。
少女にチラリと視線を送っただけで、死神の司は忌々《いまいま》しそうにウラルへ二の句を継ごうと口を開きかけた。
「どうしたのです? 大きな声で。天国まで届きそうですよ」
そこへ現れたのは天使ルシファーだった。
天から降り注ぐ光の様に柔らかく穏やかな声に、ウラルは背筋を伸ばし直立不動の姿勢で顔を真っ直ぐ前に向けた。
ウラルの様子に隣に立つ少女も同じ姿勢でルシファーを見つめていた。それは敬愛からくるのか畏怖からくるのだろうか。
死神の司が道を空けるように脇に一歩下がり軽く頭を垂れる。
ルシファーは一瞬少女に目を向けたが、それ程関心なさげに死神の司へ話しかけた。
「死ぬべきでない者を連れて来てしまったのですね」
意外に楽しげに聞こえる声にウラルは少しほっとしたが、死神の司は顔色を変えた。
「申し訳ありません。自殺を選ばせないどころか、こんな事まで・・・」
「怒ったところで仕方のないこと。去った時は私でも戻せません」
さらりと言うルシファー。
「それはそうですが、ウラルは自殺の説得をする事すら忘れております。説得に失敗したのも3回目ですし・・・」
チラリとルシファーの目がこちらに向けられたことに驚いて、ウラルは目を左右に泳がせた。
「選にするには早かったのでしょうかね」
「あ、いえ。それは・・・」
死神の司は言葉を濁した。役職を与えるのはルシファー、はいと答えてしまっては天使の過ちを指摘するようなもの。
死神には二つの役職がある。
一つは導。
天寿を全うした者、或いは役目のある死を迎えた者を天界へ導く役職。
もう一つは選。
死と生の分岐点で生きる未来を選ぶよう説き伏せる役職であり、死を選んだ者は天へと導く役目を担っている。
導の上の役職が選だ。
天寿を全うした者は大抵素直についてくるので、駆け出しの死神に与えられる仕事だった。ウラルは下界に留まろうとする魂を二つ天へ連れて来ることが出来た事を見込まれて昇格が決まったのだった。死神の中では早い役職替えとなった。
「投身自殺を止めさせる事に失敗して慌てふためき、下で巻き添えになるわけでもない人間を助けようと車道へ突き飛ばしてしまうなど前代未聞」
再び死神の司の声に怒りが混ざり始める。
「困ったものですねぇ」
ルシファーの声は至ってのんきなものだった。
「ウラルは今回で3回立て続けの上、今回は説得すらせずしかもっ・・・!」
「3回続くと悪目立ちしてしまいますね、ウラルさん」
優しく微笑みかけるルシファーにウラルの緊張も和らぐ。
「ルシファー様。そんなにお優しくては困ります」
眉間にしわを寄せて話す死神の司とのんきそうなルシファーの会話は、まるでお坊ちゃまとそれに付き従う爺の様。
「あなたも確か・・・、選の時に8回失敗していませんでしたか?」
「そ、それは千年勤めている間の事で・・・」
死神の司の困った顔を面白がりルシファーが楽しげに笑った。世界に金色の花が咲いた様な、華やかな空気が辺りを包み込んだ。
彼らが立っているのは柱の立ち並ぶ広間かと思うほど幅広の廊下。
高く伸びる柱は何処まで続いているのか、光も届かず天井がそこにあるのか天界へ続いているのかさえ判別のつかない闇があった。そんな闇の多い廊下がルシファーの笑い声一つで明るくなった気がしたのだ。これが天使の力だろうか?とウラルはルシファーを見つめる。
「・・・綺麗」
ふいに少女がそう言った。少女は頭上に広がる闇を見上げていた。ウラルは少女と同じように見上げ、首をひねった。
(こんな闇の何処が綺麗なんだろう?)
「綺麗でしょう。あなたは天寿を全うしてあちらの入り口へ向かうべき人だから・・・分かるんですね」
ルシファーの言葉に心がザクッと音を立てて裂けた気がして、ウラルは自分の手を胸に当てそっと声の主に目を向けた。
「彼女は、天の川のような煌めきを見ているのですよ」
(天の川? 煌めき?)
聞いたことのない単語にウラルは曖昧な笑顔を作ってルシファーを見つめた。
ルシファーがそっとウラルの顔に手をかざした後、また顔を上へ向けた。それに習ってウラルももう一度顔を上げる。
「あれは皆、魂の輝きです」
静寂に似たルシファーの声と初めて見る光景に、ウラルは目を見張った。
先程の闇が嘘のような眺め。
砂金の様に細かな光の帯が頭上にあった。長い廊下の上を光の川が流れている様は余りに美しく、ずっと眺めていると宙に浮いた感覚に呑まれてしまいそう。
時折、流れ星の様に魂の光が筋を引く。
「堕ちていきます。天へ上れず地獄へ向かう魂の涙」
ルシファーの顔を覗き見てウラルははっとした。
(なんて悲しげな瞳だろう)
金色に輝く長い髪に引けを取らず美しい瞳。ルシファのその琥珀色の輝きに、光るものを見た気がした。
永遠に似た束の間、皆でそうしていた。
「・・・さて」
ため息の様なルシファーの声に3対の目が彼へと向けられた。
「選として生を選ばせる事が出来ないこともあります。許しましょう」
ルシファーはウラルへそっと笑顔を向けた。
「でも、死ぬべきでない者を連れて来てしまうのは・・・」
微笑みを湛えたルシファーが一歩、ウラルへ近づいた。何故だかウラルは、思わず足を引いた。
「良くありませんね」
優しい笑顔を見せるルシファーは、さらに一歩近づいて来る。
「何か・・・」
ウラルの右頬にルシファーはそっと左手を添える。
死神の司がゴクリと唾を呑む音がした。
明るかった世界からすうっと光が失われていくのをウラルは感じた。ルシファーが微笑む前よりもずっと暗くなった様だった。
「罰を与えねば・・・なるまい?」
ルシファーの目が死神の司の立つ方へ微かに向けられた。それは一瞬のこと。
「は・・・はい。それは、そうです。・・・ですが」
ルシファーはウラルの瞳を見つめたまま死神の司の言葉を右手で制した。
心底ぞっとしながらも、ルシファーの瞳に見入られウラルは目をはずすことが出来なかった。
「堕ちてみるのも、いいかもしれませんね・・・」
すっとルシファーの瞳が細くなったその瞬間。
ウラルの体重を支えていた物が足下から消え失せていた。
咄嗟に背に隠していた黒い翼を打ち振った。だが、それは意味を成さなかった。
打ち振る翼は空気を捉えること叶わず。差し出した手は虚しく空を切った。
見る見るうちに視界に映る物が小さくなり空気にかすれ見えなくなっていった。やがて雲を切る音を耳にして、ウラルは焦った。
(落ちる! このまま落ち続け地面に叩きつけられるの!?)
成す統べもなく、ただいたずらに翼をばたつかせ続けることしか出来なかった。でも、無意味だと思ってもそうせずにはいられなかった。
少女は?
もがきながら辺りに目を配ってみたが、彼女の姿を捉えることは出来なかった。
体中を叩きつける空気を背に感じながら落ち続け、翼から羽がほろほろと剥がれ散っていくのをただ見つめるしか出来なかった。
(僕は、見放されたんだ・・・!)
ウラルは、自分の目から熱い水が溢れている事に気づいて驚いた。
これは涙と言うものではないか、人の目から頬を伝って落ちる水じゃないか? ウラルは我が身に起こっている変化が信じられない。
自然と両手が胸を押さえていた。
初めて感じる感覚だった。
胸の辺りがぎゅっと締め付けられて、ウラルは胸の辺りを握りしめて体を丸めた。広い空の中でくるくると回転しながらウラルは落ちて行った。
何も出来ず丸まりながら頭の中を考えが巡る。
飛べない死神。
死神?
翼が無いなら・・・それは人ではないのか?
僕は人になるんだろうか?
丸まったまま顔を上げて地上に目を向けた。大地に叩きつけられるまで、もう数十秒も時間は無さそうだった。
(飛び降りる死を選んだ人は何を思って落ちていくんだろう?)
胎児の様に丸まってその時を待った。
どれほどの衝撃を受けるのかじっと待っていたが、その時は訪れなかった。
どれ程の時間丸まったままで居たのかウラルには分からない。長く感じたその時間も、実はほんの短い間なのかもしれなかった。
「いつまでそうしているつもりだ?」
目を閉じ頭を抱えて丸まるウラルに誰かの声がかかる。聞き覚えがあると感じて恐る恐る顔を上げたウラルは声のする方へ顔を向けてみる。
少し離れた所に銀灰色の翼を持った黒髪の天使がいた。壁に寄りかかってこちらを見ながら立っている。
(天使だ!)
数メートルの距離はあったがウラルはこんなに間近で天使を見るのは初めてだった。
死者を迎えに行くときには既に天使は側にはいない。
自殺しようとする者の側にもいなかった。そもそも天使が側に付いていられるなら自殺などさせはしない。天使を遠ざける何事かが起きてその状況に至ってしまうものだから・・・。
それに・・・。
天使と死神は基本的に住む世界が違い、互いを見ようと意識しなければ見えるものでもなかった。
天使は床に転がったままのウラルを疎ましそうに見下ろしていたが、数秒目を合わせただけで目線をはずした。
端正な顔立ちだが冷たい印象の天使は20代位の男の姿をしている。
ゆっくり体を起こしたウラルは彼が目を向ける先を目で追って立ち上がり、はっとした。彼が見つめていたのはあの少女だった。ウラルが天へ連れ帰ってしまった少女。
病院のベッドに横たわる小さなその姿にウラルの胸がまたきゅっと痛みを伝える。ウラルは右手を胸にあてそっと見つめた。少女の頬は桜色に染まり、幸せな夢を見ているように思えた。
(あぁ・・・良かった・・・)
また熱い水がウラルの頬を伝って落ちた。
ベッドに横たわる少女と、傍らで眠りに落ちる女性の姿があった。彼女の顔に疲れた様子が見て取れるが、寝顔は穏やかで幸せそうに見えた。
ウラルは泣き顔と笑顔の混ざった表情で天使に振り返った。・・・が、すぐに苦しそうな顔になってほろほろと涙をこぼす。
(そうだ・・・あの時の声だ!)
聞き覚えのある声のはずだ。
(あの子を押し退けたあの時、僕に掛けられた制止の声を覚えてる。あれは彼の声だったんだ)
彼がこの子の天使だとすぐに分かった。この子の側に付き添い助言し、少女のより良い人生のために傍らにいたのだ。
ウラルはまた後悔の念が湧いて来るのを感じて胸を掴む。
僕はなんて事をしたんだろう。
彼からこの子を奪ったんだ。
僕は彼に何と謝ればいいんだろう。
次々と自分を責める言葉が浮かぶ。
今更ながら考えの拙さに気づき、ウラルは言葉を探して溢れる涙を止めることすら忘れていた。天に連れ帰ればいいと軽く考えていた事を今更ながらに後悔した。
「やめてくれ。何も聞きたくない」
歩み寄ろうとするウラルに天使は両手を向けて目を閉じた。苦悶の表情だった。
ウラルは激しく首を横に振った。
(ルシファー様は謝罪の機会を与えてくれたのだ)
ウラルはそう思った。
(どんなに拒まれても僕は彼の羽先に触れる許可を乞わなくては!)
ウラルは天使の前に片膝をつく。
「止めろと言っているだろう!」
天使は少女と母親が目を覚ますとでも言いたげに、声を落としてそう言った。
「でも・・・!」
「謝罪なんて聞きたくない」
「でも、僕は謝らなくちゃ・・・!」
「いい加減にしろ」
天使はウラルの頭に手をかけて顔を伏せさせた。
(そんな顔で見るなよ・・・)
天使は心の中で唸る。
眉間にしわ寄せて天を見上げ、うんざりした顔で「ルシファー」と呟いた。
天使のため息のような声を耳にしてウラルは俯いたまま目をきょろきょろとさせた。ルシファーへ敬称無しの呼びかけなど死神の世界では有り得ない。天使なら許されるというのだろうか? むくむくと疑問が浮かび始める。
ウラルの頭に乗せた手から彼の意識が流れてくるのを感じて天使は困惑する。
「・・・まったく。ルシファーの言う通りのやつだな、お前はッ」
天使ルシファーを知っている事に驚き、当然かと納得する。知っている事よりも自分にについて何か会話があった事にウラルは驚いた。いったい何が話されたのか。
(この天使様はルシファー様へ直に抗議をしたのかな? それとも、ルシファー様直々に彼へ謝罪が? 直々に?!)
ルシファーに頭を下げさせてしまったのかと畏れおののき、ウラルは血の気が引くのを感じた。
(天使はルシファー様に直に会えるものか? この方はいったい・・・)
顔を上げようとしたが天使の手はまだウラルの後頭部を押さえつけたままだった。
「許しを乞いはもういい、止めてくれ」
その言葉にぴたりと動きを止めるウラル。
「何も言うな。いいか?」
天使の言葉に怒りはなく、むしろ許しを感じさせる声音だった。ウラルは躊躇ししばらくの間があって、こくりと頷いた。
本当かと見つめる気配が掌から伝わる。ほんの少しの間の後天使の手がそっと除けられた。
ウラルがゆっくり顔を上げると、天使は初めて見た時と同じ立ち姿で壁にもたれていた。それは、一時たりとも少女から目を離したくないと言わんばかりの気配を感じさせた。
ウラルは怖ず怖ずと天使の横に並び、天使に習って少女へと目を向ける。
微かな寝息の他に音はなく静かに時が流れた。
ウラルが天使を見上げると、天使が少女へと顔の向きを戻したのが分かった。
「驚かせてしまいましたね。怒ってますか? ザイオン」
天使ザイオンはルシファーの言葉を思い出していた。
守護対象が天へ上れば必然的に天使も地上を離れる。あの時、少女を失いザイオンは天と地獄の狭間の水面に立っていた。
突発的な出来事を整理し、まず初めに何をすべきかと考え始めた直後にルシファーは現れたのだった。
「元気そうでなによりです」
ザイオンにかけられたルシファーの声は深く優しかった。
微笑むルシファーの金色の髪が光を受けて輝きを増しザイオンは目を細めた。眩しさを隠すように軽く会釈をする。
「彼女は戻しましょう。 シナリオに無かったことが起こってしまいましたが、今回のことは大きく影響はしませんよ」
「シナリオ?」
「大した事ではありません。ちょっとした影響はありましたけどね」
(また何を企んでいるのだ!?)
ザイオンが警戒する。そして鋭く言葉を返した。
「影響があるかないかではなく、死神が間違いを犯したことが問題なのでは?」
ルシファーは花でも愛でるような微笑みをザイオンに向ける。
「彼女を守れなかった守護天使の過失については、どうでしょうねぇ?」
水面の遙か彼方を見やりながら、甘い声で囁くようにルシファーはそう言った。
「・・・あの子はまるで人の子のよう」
直ぐに「あの子」が誰を指すのか思い当たった。ザイオンは一瞬しかウラルを目に捉えることは出来なかったが、ルシファーの指す「あの子」の小さな背を思い出した。
「好奇心旺盛で知りたがり」
そう言ってくすりとルシファーは笑う。
「あの子を側に置いてはくれませんか?」
何を言い出すのかとザイオンは目を白黒させた。
「死神との契約・・・と言うことですか? そんな事しなくても・・・」
そんな事をしなくても死を迎えれば死神とバトンタッチだ。
しかし、ルシファーは掌をひらひらと振った。
「ザイオン。天使になって少しは柔らかくなったと思っていたのに笑顔も見せてくれないし、物事を難しく捉えようとする所は変わりませんねぇ」
ルシファーが困った子だとでも言うような表情でザイオンを見つめる。
「ただ側に置いておくだけでいいのです」
ザイオンは眉間にしわを寄せてルシファーを見つめ返した。
「そうですねぇ・・・あの子の夏休みだと思って連れ歩いてください」
呆れて首を振るザイオンにルシファーも楽しげに首を振る。
「断れると思うの?」
少女のような笑顔でザイオンの瞳を覗き込む。こんな時のルシファーはまるで悪戯な小悪魔だ。
「何もさせなくていい。何も教えなくていい。簡単でしょ?」
何を企んでいるのか分からず、ザイオンは断る理由を探しあぐねる。
「人の側にいる・・・と言うことは、天使になるという事ですか? それならばミカエル様とはお話を?」
「・・・それは本人次第だ」
「本人次第・・・?」
一瞬、真顔を見せたルシファーは直ぐに微笑みを浮かべた。
「何色の羽が生えてくるか楽しみですね」
ザイオンの表情が険しくなる。
(私にした事と同じ様な事をまた!)
腹立たしさと悲しさがザイオンの中に大波を起こす。
「おやおや、本当に天使らしくなって」
ルシファーが嬉しそうな顔をする。
「人に近づきすぎて人の様な感情を持つなんて、本当に天使は面白い」
楽しそうな表情とは裏腹に冷淡な気配を放って彼はそう言った。
物思いを止めたザイオンは自分の肩にも届かぬ背丈のウラルを見下ろす。そして、その背に目をやって切ない表情を浮かべる。
殆どの羽が抜け落ちて棒切れの様になった翼が痛々しかった。
役目もなくただ地上にいるだけの日々をこの子はどう過ごしていくのだろうと、小さな存在の行く末を思わないわけにはいかなかった。
何もしなくていいと言われたところで何も教えないわけにもいかない。何よりウラルの知りたがりは止め処も無さそうだ。
「天使か死神かなんて些細な違いです」
ルシファーが遠くに目を向けて言ったことが思い出される。
彼の踏み出した一歩が水面にさざ波をたてた。
「天使が上で死神が下? 名前に神がつくから死神が上? 馬鹿げた話です」
ゆっくりとザイオンの回りを歩きながら話を続けるルシファー。
「この世界に形を成した瞬間にどちらかの属性を持つだけのこと」
ザイオンの脇で立ち止まったルシファーが、ザイオンの銀灰色の翼に触れた。愛おしそうに撫でて一枚の羽をグイと引き抜く。
「くっ…!」
ザイオンはそれ以上の声を立てぬようぐっと堪えてルシファーを鋭く見つめたが、ルシファーは意にも介さず楽しげに笑い指先でクルクルと羽を回している。
「それは死神の育ちやすい大地に死神の種が芽吹いた様なものだろう? 時々、その大地に天使の種が芽吹くことがある。天使か死神かに関わらず誰の中にも幾つかの芽吹きがある、どの才能が延びるかは本人次第」
ザイオンから引き抜いた銀灰色の羽を空にかざし、細かな光を放つ様を楽しげに眺めながらルシファーはそう言ってさらに続けた。
「せっかく芽吹いた物をその大地に相応しくないという理由で引き抜くのは・・・私は好きではない」
ザイオンの耳に唇を寄せて、愛の言葉を語るようにルシファーが囁く。くすくすと笑い羽で自分の頬を撫でながら、ルシファーは天を仰いだ。
「かと言って、手厚く育てようとも思わないがね」
一瞬、天に鋭い眼光を投げてルシファーは目をそらした。
「枯れるならそれまでのこと。枯れずにある程度育った苗ならばそれに合った大地に移してみたくもなる。合わぬ土地で育ったのだ、合った土地ならどれほど立派に育つものか・・・知りたくはないか? 私は知りたい」
ルシファーが手にした羽をザイオンの翼に撫でつけると、羽は何事もなくザイオンの翼に馴染んで彼の一部に戻った。
「あわぬ世界で育つ苗を可哀想に思ったのですか?」
「可哀想? 可哀想だって?」
目をくるりとさせて肩をすぼめ、ルシファーはまたザイオンの回りを歩き出した。
右手の人差し指を立ててクルクルと回し何かをたぐり寄せるような仕草。彼が言葉を選ぶときによくそうしていた・・・とザイオンは遠い時間が引き寄せられる思いで見つめた。
「コップがコップとして使われなければ可哀想か? 花瓶として花を生けられたら? 筆洗いの水入れに使われたら悲しいか? コップとして生まれたのに使われず棚の中に飾られたままは可哀想だろうか?」
ザイオンはただ黙って聞いていた。
「可哀想、悲しい。コップは何も思いはしない。・・・・・・思うのは人だ、お前は人に寄り添う事が似合っているね。だが、死神だった自分を可哀想だとか悲しいなどと思った事も無いのではないか?」
そっとザイオンの肩にルシファーの手が触れた。
「死神は人に添いはしない。未練のある魂を地上から剥ぎ取り、分岐点の魂を説得はしても魂が死を選べば連れ帰るだけ。もし、あのまま地上で過ごしていたら・・・などと思ったりはしない」
ザイオンは目を落とした。その瞳は地上ではなくかつての自分自身を映していた。
「あの子は・・・ウラルは、お前によく似ているよ、ザイオン」
「・・・だから、堕とすのですか?」
「堕ちたらどうだというのだ?」
眉間にしわを寄せるザイオンの翼が微かに震えた。
「彼に問うたのですか? 答えを聞きましたか? 指南は?」
ザイオンのさまよう言の葉をルシファーは黙って受ける。
「光白色の羽は生えませんでしたが、あなたの銀灰色の翼も美しくて好きですよ」
「彼は天使になりたいと言ったんですか?」
「天に流れる魂の川をウラルは見ることが出来ない、あの煌めきを彼は知らない。あれを見られないのは悲しく思いますよ。ウラルは地上の人々を気にして思いを馳せ、とうとう選の仕事を忘れてしまった」
「・・・!」
ザイオンは目を見張った。
ルシファーは遠くを見つめながらそっとザイオンに言葉を掛ける。
「後悔してるか? 死神がよければ直ぐにでも戻せるが?」
ザイオンは黙った。
「彼が根を上げて死神に戻りたいと泣き喚くようなら、私は拒むつもりはないよ」
(拒むつもりはない・・・か)
ルシファーの言った事は本当だろうか・・・と思いながら言葉を心でなぞり、寝息をたてる少女の穏やかな顔をザイオンは愛おしく眺めた。
(私が天に戻りたいと願ったならルシファーは戻しただろうか?)
絶望や悲しさ、そして羽の生まれ変わる苦しさと喜び。
様々な苦闘が思い起こされた。
しかし、何よりも忘れがたいのは柔らかな光の玉を初めて授かったときのあの極上の幸せ。
この命のために我が命を落としても構わぬと思う強い感情。これ程の強い思いを死神の時に味わったことがあっただろうか? いや無い・・・と思いいたる。
(堕とされた後、私はルシファーに助けを求めなかった・・・)
どんなに苦しくても人の側に居られることが嬉しかったのだ。彼らの行く末を見つめ共に荒波を受けて体験することが楽しいと感じるのだ。
羽の生える痛みも自分らしくなっているのだという喜びになっていた。人に寄り添い彼らの見る物を見、心の移りゆく様を見つめ感じ語りかけ、人によって天使の姿へと成長できた。
「天使様、彼女の顔をもっとよく見てみたいのですが・・・側に近づいてもいいですか?」
ウラルの願いにザイオンは黙って頷いた。
ザイオンはそっとベッドに近づく少年の背を見つめ、壊れそうな細い翼に一枚の羽を見止めた。それは真っ白な羽だった。
ルシファーの采配は間違ってはいなかったのだろう。例えそれが胸をえぐる冷たい槍のようであったとしても、黒い翼から変わった今の喜びは死神では得られぬ喜びとなってザイオンを輝かせていた。
「彼には君がついている。・・・君にハーフエンジェルがついていたように」
ルシファーが最後に言った言葉にザイオンはある天使を思い出していた。
ザイオンが堕ちた遠い日に、今のザイオンの様に疎ましそうに黙ったまま側にいてくれたあの天使を。白い翼と黒い翼を持った変わった天使だった。
(ああ・・・)
彼も・・・とザイオンは思った。
ルシファーに彼も堕とされたにちがいない。そして、後から堕ちてきた私を押しつけられた・・・。
独り立ちしてだいぶ経った頃に再会した時、彼の黒い方の翼には斑に白い羽が生えていた。
(彼にも誰かがついていただろうか?)
・・・と彼が地上へ降り立った当時に、彼の天使に心の拠り所があったのかどうかと思い切なくなる。そして、彼の様々な言葉を表情を思い出して初めて深い感謝の感情を胸に抱いた。
「天使様!?」
ウラルの声にザイオンの心がこの場に戻った。
「翼が・・・!」
彼の指し示す先はザイオンの背だった。
翼がどうしたのかと広げてみると世の明け切らぬ暗い病室が真昼の明るさを越えた輝きに包まれた。
「・・・ああ! 神様!! 天使様!」
天の輝きに照らされて、寝ていたはずの少女の母親が目を覚まし声を震わせて手を合わせていた。
「この子を救ってくださって、有り難うございます! ありがとうございます」
ザイオンは驚きすぐさま翼を閉じたが、母親はしばらく手を合わせたまま見えぬザイオンへ感謝し泣き続けていた。
ウラルはザイオンの側に駆け寄り、仄白く輝く翼に見ほれてつい手を伸ばしていた。そっと触れた翼はことのほか柔らかくウラルの心を優しく包む様だった。
「天使様、こんな・・・こんな優しい翼を僕は今まで見たことがありません」
「ザ・・・ザイオンでいい」
微かに頬を染めてザイオンはさっと翼を隠した。
そんな2人の姿を部屋の隅で静かに見つめていた者が、そっと明るい場所へ歩み出て声をかけた。
「恥ずかしがることはない、素晴らしい翼だよ」
輝く光白色の翼と銀灰色の翼を持った天使だった。
「アーク! 何故ここへ!?」
彼こそ先程までザイオンが思い出していた天使。堕ちたばかりのザイオンと時を共にしたハーフエンジェルだった。
「大変なことになったと彼女から聞いたものだからね」
その言葉とは逆に穏やかで幸福に包まれた表情で語るアークの背後から、女性の姿をした天使が顔を覗かせた。
「だが・・・素晴らしい瞬間に立ち会うことが出来たようだ」
そう言ってアークはザイオンを優しく抱きしめた。
冷たく寡黙だと思っていた天使の思いもよらぬ行動に驚き戸惑ったザイオンは、気恥ずかしさの矛先を別の天使へと投げる。
「しゅ・・・ 守護する者から離れたのか? 」
アークの背後で舌を出している彼女は母親の守護天使だった。
「ほんのちょっとよ」
彼女はそう言ってウインクするとウラルへ手を差し出した。
「よろしくね・・・うらる?」
ウラルは人をまねた挨拶にぎこちなく応じる。
「あまり仲良くしない方がいい。また戻るかもしれないぞ」
ザイオンはそっぽを向いて憎まれ口をきく。
「戻ったとしてもいずれ出会うこともあるでしょ? ねぇ~」
そんな他愛もない会話に微笑んで、そっとアークの姿は消えていた。
「ルシファー様」
じっと雲の切れ間から地上を見下ろすルシファーに死神の司が声をかけた。
「また死神の数が減りました」
言わずとも分かることを・・・と思いながらルシファーは嬉しそうに地上を見ていた。
「人の営みも見ていて飽きませんが、天界の営みもまた面白いものですね」
そう言ってルシファーの見上げる先に、灰色の翼の天使が舞い降りる姿が捉えられていた。
「人材は無限だ、私の囁きに応じて仲間が降り立つようですよ。司よ・・・この世の全てが巡り織りなす創造の産物を片目で見てはいけない。型にはめず色を付けず受け入れよ」
言葉を言い終える間もなくルシファーは光砂となり姿を消した。
「また天使から羽をむしり取るのですね・・・。悪趣味な・・・」
そう言いながら、司は黒い羽を一片落として後を追った。
□□□ 終わり □□□
最後まで読んでいただき有り難うございます。
ルシファーが地獄にいないのはどうなんだ?と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。物語上、天国と地獄の境で活動している設定となっています。
これが初投稿作品です。次作も目に触れる機会があれが嬉しく思います。