1.はじめまして、懐かしいアリス
「――っぷはぁ!」
いきなり水の中に落ちた私は、顔が空気に触れるなり全力で呼吸をした。
べったりと顔に張り付いてくる髪をかきあげ、瞼を瞬かせる。
なんでいきなり水の中に突き落とされ――いや、引きずり込まれた?
「大丈夫ですか、アリス」
「え、あ、はい」
柔らかな声と共に手が差し出され、私は思わずその手をとった。
手は私を水の中から引き上げ、そして私は――、驚愕した。
「あの……此処、どこでしょう?」
そこは明らかに、私の知っている風景ではなかったのだ。
どこだかは知らないが、何かの建物の一室らしい。床は文様のはいったタイルで、巨大な水盤が置いてある。どうやら私がひっぱりだされたのはあの水盤からのようだ。
……いやいやまさか。
あの水盤、いくら巨大といっても底が見える。どこかに繋がってるわけでもあるまいし、なんであそこから出なくちゃいけないのだ。
しかしその水盤以外に水は見当たらず、そして当然のように通学路なんて見つかりやしない。
……夢、というやつでしょうか。白昼夢?
だって、いやどう考えても、おかしすぎる。
私は普通に通学路を歩いて学校から帰っていたはずなのに、何故こんなところにいるの?
「此処は赤の国。我らが女王陛下が治められる王国です」
混乱する私に、手を引いてくれた青年が言った。
いかにも正装といった衣装をぴしりと着こなし、胸に金色の懐中時計をさげている。私を引っ張り上げてくれたせいか、左腕だけが水で濡れていて服と不釣合いだ。
「私たちがお前を呼んだのだ、アリス」
少し離れた位置から聞こえた声は、少女のものだった。
「久方ぶりだな、アリス。いや、はじめましてというべきなのか?」
声は少女。しかし口調はむしろ男性のものに近い。
私は声の主へと振り返り、そしてまた対応に困った。いかにもお姫様といった風情の、とても可愛らしい女の子がそこにいたのだ。
年は私と同じくらいだろうか。しかし気品とか威厳とか、私にはまだまだ十年先にも身についていなさそうなものを既に獲得しているようだった。
「貴女は……?」
戸惑いで満ちた私の問いに、少女は静かな声で応える。
「私はハートの女王。この国の統治者だ」
はーとの、じょおう。
自己紹介でむしろ混乱が増した。私はこの人を知らない。私の知り合いに、女王なんて人は絶対にいない。
「突然呼び出してすまなかった。条件も悪く、失敗してもやむなしと考えていたのだが。無事会えて嬉しく思う」
「えーっと……」
「お前がいれば国民の士気も高まろう。相変わらずオズとの小競り合い続きでな」
「あのぉ……」
「詳しい話は後ほど時計兎に説明させるが、なんなら別個に視察団を出しても良い」
「あの、私!」
声を強めて遮った私に、女王が「なんだ」とでも言うように小首を傾げてくる。
私はこれを機会にと、言った。
「あの、私、高梨ありすっていうんです!」
どうだ、とばかりの発言に、女王は眉を寄せた。
「それがどうした」
「いや、だからええっと……」
どうしたと言われても、困るわけですが。
「アリス違いじゃないかなー、と……」
何がなんだかよくわからないけれど、この人たちの言っている『アリス』はどう考えても私のことではないようなのだ。
だって私はこの女王さまとやらのことを知らないし、“呼ばれる”理由も無い。赤の国だのオズだの国民の士気だの、何がなんだかわからない。
「というか、夢。夢ですよね、これ。随分とリアルだけれど――」
下校途中に夢を見るなんて随分と危ない気がするけれど、でもそれ以外考えようが無い。
だって確かに少し前まで、私は通学路を歩いていたはずなのだから。
……まさか交通事故にでもあって昏睡状態とかだったりして……。
懐中時計の青年が、やれやれというように溜息をついた。
「陛下、今回のアリスは記憶を失われているようですね」
「仕方があるまい。魂の記憶は、継いでもなかなか目覚めはしないもの」
女王は言う。
「アリス、この世界は夢ではない。ただお前の日常と少し外れた域に存在する世界だ」
「そしてあちらの世界での呼び名が何であるかは関係ありません。わたしたちが“アリス”とお呼びするのは、アリスの魂を有しておられる方のことです」
女王と青年にの説明に、むしろ疑念が深まる。
世界? アリスの魂?
なんだか随分、嘘っぽいというか夢っぽい。
私の心中が表情にでもでていたのか、青年は困ったように溜息をついてから言った。
「まあ、こちらにおられればすぐに記憶も取り戻されるでしょう。アリス、此処は貴女の国なのですから」
「何を、言って……」
確か夢のなかで夢と気が付く夢は『覚醒夢』とかいったはずだ。
此処が本当に夢の世界なら、もしかして私が強く念じたら私の思うとおりになったりしないだろうか。
私が両手いっぱいのシフォンケーキを思い浮かべようとしたところで、冷たい声がそれを遮った。
「――お前はアリスではない」
それは、例えるならば氷のように冷え切った声だった。
切り付けた傷口の血をも凍らせてしまいそうな、銀鉄の刃。たった一言の台詞に、首筋に刃を突きつけられた気分になる。
「チェシャ猫、またそのようなことを」
懐中時計の青年が向けた言葉の先には、黒尽くめの青年が立っていた。
壁に背を当て、睨むようにこちらを見ている。いや、私を睨んでいる。
睨んでくる目は左目のみで、右目はというと眼帯に覆われていた。それなのにその眼光は十分鋭くて、私は思わず身を引いた。
「子供のような真似はおやめなさい。アリスが気に入らないからといって難癖をつけるのは――」
「そういった意図はない」
「だったら尚更のこと」
「ただ俺にはわかるだけだ。こいつはアリスではない」
何を馬鹿なことを、とでも言うように懐中時計の青年が眉を顰める。
しかし彼が何か言うよりも早く、女王が静かだが威厳のこもる声で断じた。
「……アリスを呼んで訪れた者が、アリス以外であったことが今まであろうか。何を疑う必要がある」
女王は他の者が何か言い差すよりも早くに踵を返す。部屋の向こうにある扉のほうへと歩みながら言った。
「アリスに一室をあてがえ。当面の世話役にはシンデレラを」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げる懐中時計の青年。そして黒装束の青年も表情に不機嫌を滲ませながらも、それに続く。
何が起きているのかわからない。
夢のなかだから、こんなに訳が分からないのだろうか。
これが全部夢だから、私の見ている夢だから――。
「この世界が夢などという考えは、すぐに消えるであろう」
扉の前で女王が振り返っていた。
その視線は真っ直ぐに、私を見つめている。
「此処はお前がいるべき世界。お前が最も力ある場所なのだから」
「でも、私……」
「お前はアリスだ」
私の意志をはじく、強い声だった。
そのきっぱりとした響きに、思わず言おうとしていたことを忘れてしまう。
「我らはお前を歓迎する。――アリス」
夢だと思い続ける意志を、忘れてしまいそうだった。