I am here.
図書館に勤める僕。
ユウタ君は絵本を見ながら、お迎えを待っている。
ユウタくんのお母さんが亡くなったと、佐々木さんから聞いた。
体調不良から病気が分かり、その一年後には末期を迎えてしまったのだと。若い体には、病魔の進行は早く、あっという間に逝ってしまったと。
ユウタくんは今日もお迎えを待っている。色白で大きな目、いつも野球帽をかぶっている。毎週、火曜と金曜に近所の塾に通っているらしく、勉強が終わってから図書館でおうちの人が迎えに来るまで本を眺めているのが常だ。
僕は抱えた絵本を作者のアイウエオ順に棚に戻しながら、ユウタくんの小さな背中を見ていた。
時間はもう七時を回っている。秋の陽はとうに落ちた。図書館はサービス向上のために八時まで開いている。とはいえ、来館者は仕事帰りの大人ばかりで児童室にはユウタくんしかいない。
古参の司書・佐々木さんから聞いた話しでは、ユウタくんは母子家庭であったこと。高校生のお姉さんと中学生のお兄さんがいること、母方の祖父母と暮らしていること。
ユウタくんは子ども用の丸いテーブルで、赤く塗られた小さなイスに体をあずけて絵本をめくっていた。
珍しいな。いつもならミステリーや歴史ものを読んでいるのに。
僕は本を戻すふりして、彼の手元を覗いた。
小ぶりな版型の絵本だった。白っぽい表紙に抽象的な狼? そんなイラストが描かれてあって、タイトルは……『死』。
ぎくん、とした。
その絵本は僕も知っている。高名な詩人が文章を書いてることでも話題になったから。
ユウタくんは、真剣というよりは、ぼんやりと眺めるようにして頬杖をついてページをゆっくりとめくっていた。
僕は何か見てはいけないものを見たような気がして、彼から静かに離れた。
お葬式は、あちこちですすり泣く声がして……。
お姉さんとお兄さんは気丈に立って参列者に挨拶をしてたけど、いちばん下のユウタくんは、まだよく分かってないのかポカンとした顔をしていて、それがぎゃくに切なくて大人たちの涙を誘っていた。
ご葬儀の様子を佐々木さんから聞いて、僕も知った。
まだ若く、幼いきょうだいを残しての旅立ちだ。どれほど多くの人が涙を流しただろう。お母さんは看護師をしていたから、自分の病気も残りの時間がいくらあるのかも理解していたし、子どもたちへも伝えていたという。
人はいつか死ぬ。親のほうが先に死ぬ。それは自然の摂理かもしれないけれど。僕の両親は二人とも元気でいるけれど、大人になった今だって、もしもこの一年で父や母が亡くなるとしたら……考えただけで、胸が締め付けられる。
ましてや、小学校低学年のユウタくんにとっては。まだまだ母親が恋しい年齢だ。
もし、自分が同じように幼くて、なすすべもなく世界でいちばん大好きな人が日々弱っていくのを見ているしかないとしたら。
僕は唇をかんで目が熱くなっていくのをこらえた。
本を全部戻してカウンターへ入ると、佐々木さんがいた。
「ユウタくん、絵本読んでました。『死』って絵本」
「うん」
知ってる、と佐々木さんは小さくつけくわえた。
「なんていうか、かける言葉もなくて。自分、情けなくて」
佐々木さんは児童室のほうへ視線を向けた。
「いいのよ、ここは自分で考える場所だもの。自分の心と向き合って、ゆっくりゆっくりする所なんだから」
でも、と返事をした僕に、佐々木さんは僕に後に後ろを向けるようにと、いつものように指をすっと動かした。
「私たちは尋ねられたら答えたらいい。困っていたら話しかければいい。じゃなかったら、そのまま見守ればいいのよ」
そういいながら、僕のエプロンの紐を結びなおした。また縦結びになっていたんだろう。
余計なことは言わない、見ない。誰がどんな本を借りたかなんて、絶対に口にしてはいけない。それは、個人の自由を守る図書館の大切な役目だ。
たぶん佐々木さんはユウタくんがあの本を何度も手に取るのを見ていたんだろう。白髪が目立つ髪をひっつめにした佐々木さんが気付かないはずがない。
僕が子どもの時から働いているだけある。とてもかなわない。いまだエプロンの紐ひとつまともに結べない僕には。
僕も佐々木さんみたいに、どんと構えていられたらいいのに。
「でも、そんなふうに「何か力になってあげたい」って思う気持ちは大切にしておこうね。そのためには……」
振り返って僕は答えた。
「日々、勉強ですね」
司書の仕事は、本を知ること、利用者を知ること、その二つを結びつけること。
「分かってるじゃない」
佐々木さんは、にやりと笑った。
「ここは、止まり木。ちょっと疲れたら休める場所であればいいと思っているわ」
静かな海の底のような館内に、閉館十五分前のお知らせが流れた。
「おねがいします」
ユウタくんがカウンターに本を持ってきた。
星新一のショートショート集、岡田淳の「こそあどの森」シリーズ二冊。あの絵本は本棚に戻したらしい。
貸し出しの手続きをしていると、お迎えが来た。
今日はおじいちゃんだった。
ユウタくんは本を手縫いの鞄に入れた。おそらくはお母さんが書いたのだろう。鞄の内側にマジックで「うちむら ゆうた」と丁寧に書かれた文字があった。
ユウタくんは、おじいちゃんと手をつないだ。
そして、ちょっと振り返って手を振った。
僕と佐々木さんも手を振る。
「私たちの誰かがいて、ユウタくんが手を振ったら振りかえす。それだけしかできないかもしれないけどね」
佐々木さんはどこか悲しげに笑った。
「お医者さんになりたいんだって」
佐々木さんは立ち上がり、利用者のいなくなった児童室の整理にとりかかった。
僕は駆け込みのお客さんの貸し出し手続きをした。
さっきまでのんびりと居眠りしていたお客さんも帰り支度をしている。みんなそれぞれの場所に帰るのだ。
閉館五分前の放送。
みなさん、今日もご利用ありがとうございます。
また、いらしてください。疲れたら、休みたくなったら。
僕たちはここにいます。
ここに、います。
※参考資料
『死』 大月書店 谷川俊太郎/文