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雫、あのね  作者: やきにく
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7.ペンデュラム・ハート


 六月半ば。


 季節は春から夏へ移ろうとしている。時折、気温を二十数度を超える気温が観測さるような晴れの日があるかと思えば、じめじめしていつまで続くのか分からないびちゃびちゃな雨が降ってくる。


 玲児は暗い空から降り注ぐ雨の中、遊漁町の街道を歩いていた。その足は、聖ジョージ病院に向かっていた。もちろん、咲良に会いに行くためだ。


 ……だが、玲児の心は大きく揺れていた。


 五月はゴールデンウィーク明けから忙しくなった。というのも、中間テストの対策をしなければいけないし、球技大会や企業見学のレポートを書かなければいけなかった。加えて、アルバイトとして運送会社の仕分けのアルバイトを始めた。


 だから、病院に行って彼女の様子を見る時間があまりなかったのだ。それでも、咲良に対して罪悪感があった。


 やむを得ない事情があるからとはいえ、咲良に遊漁町を案内してあげてからほぼ一か月が過ぎていた。せっかく友達になったのに、これまで一度くらいしか行ってやれずに申し訳がなかった。


 ましてや、彼女は記憶喪失だ。頼れる人は自分を含めても雫や医者、警察ぐらいだろう。たまには、顔も見せてあげたかった。


 ……だけど、それと同じくらい、雫に対しても罪悪感が芽生えていた。


 まるで自分が、浮気しているみたいだったから。


 もちろんそれはただのうぬぼれ。勝手にこっちが好意を抱いていることだというのはわかっている。口に出せば十中八九雫にからかわられることだろう。


 だが、先月の雫の誕生日――彼女が悩みを自分に吐露したとき、彼女は少なくとも、玲児に強い信頼を寄せていること知った。


――でも……レイといると、いつものように明るくなれるんだ。やっぱ、イジれるからかなぁ


 彼女の言葉が脳裏によみがえってくる。


 例え恋人ではなくても、彼女とは幼い時からの付き合いだ。彼女の信頼を裏切っているんじゃないか、という後ろめたい気持ちになる。


 これは自分のくだらない悪い妄想だ。振り回されてどうする? そんなことは既に分かっている。だけど頭のどこかでやましいと思っている自分がいる。


 こんないびつな気持ちを振り払うことも出来ず、気が付けば聖ジョージ病院の入口に玲児は立っていた。


 ああ、駄目だ。こんな顔して咲良に会ったら、きっと余計な心配をさせてしまうかもしれない。


 頬をひっぱたいて自分に活を入れると、玲児は病院の中に入った。


 面会するための軽い手続きを済ませて、咲良のいる病室へと向かった。


「やぁ……」


 玲児が声をかけると、咲良はありありとびっくりして顔を上げた。


「玲児さん……」


「調子はどうですか?」


 すると、咲良が人差し指を玲児に向けて、横に振った。すぐに玲児は、一か月前、彼女と別れ際に交わした約束を思い出した。

 約束、忘れちゃったんですか? 口には出さなかったけれど、そう言いたげなのは明々白々だ。


「あ……ごめん」


「分かればいいんです」


 ふふっ、と得意げに咲良が笑った。玲児は近付いて、咲良のそばにある椅子に座った。


「記憶とかは、なにか思い出せた?」


「いいえ、まだなにも……」


「警察とかは?」


「あれから警察の方々も協力してくれたのですが、手掛かりがつかめなくて……」


 玲児たちがいない間も、身内を名乗る人も現れないそうだ。たまに、怪しい男の人がやってきて宗教の勧誘をしてくる人がいるらしく、記憶喪失に付け込んで悪質な勧誘もする人も少なくないと話した。


 会話しながら、玲児は咲良の観察をしていると、あることに気付いた。

 以前、会った時と比べると咲良の顔が少し、痩せているように見えた。なんというか、骨まで透けて見えそうなほど、肌の青白さも増している気がする。おせじにも血色がいいとは言えず、何歳も老け込んだようだ。


 最初、こういうことを口にするのは彼女に悪いかなと黙っていたが、それでも心配してしまう気持ちが勝って、つい訊ねてしまった。


「なんか、やつれていないか? 大丈夫?」


「ええ、まぁ……少し、ストレスがあるのかもしれませんね」


 記憶を失ったことによるストレスか……。玲児は首の後ろに手を当てて考える仕草をした。


 彼女が記憶を失うことの辛さは、初めてここに来た時に聞いた。自分が誰なのかもわからず、もし親族が本当にやってきたらその人たちも悲しませてしまうかもしれない――常にそんなことを考えていたら、食事ものどを通っていないのかもしれない。


「それより、玲児さん。今日は雫さんと一緒じゃないんですね」


「え? あ、まぁあいつとは違う高校を通ってるから……」


「同じ高校じゃないんですか?」


 意外、という表情で咲良は目を真ん丸に見開いた。


「うん、俺は地元の公立だけど、あいつは市外にある私立に通っているんだ。雫のお父さんの研究を手伝ってやりたいからね」


「この間おっしゃっていましたね。お父様の研究のお手伝いをなさりたいと。そういうことだったのですね」


 なぁんだ、と咲良は残念そうに――あるいはちょっと安心したように肩をすくめた。


「雫さんは、玲児さんの恋人ですから、いつも一緒と思っていたのですが……」


「こっ……」


 恋人じゃない、と危うく気恥ずかしさのあまり大声で否定しそうになった。だけれども、ギリギリ自制心が働いて顔をトマトのように真っ赤にさせる程度にとどまった。


「……こいびと、ぢゃない」


「あら? 違うのですか?」


 また――今度はあからさまに小首を傾げてびっくりした仕草をして見せた。そしてなにか考えるように、人差し指を下唇に当てた。


「まだ、恋人じゃ……ない」


「目が泳いでますよ~?」


 咲良は目を細めて、人差し指をくるくるして見せた。

 ただでさえ雫にいつもイジられているのに、この上咲良にまでいじられなきゃならないのか。……別にいいんだけど。


 ……まさか、俺に秘密で、雫と密会しているんじゃないだろうか。そうでなければ、こんなふうにイジらないはずだ。


「雫とは……会ってるんですか?」


「敬語」


「え?」


「敬語になってますよ」


「あ、ご……ごめん」


 完全に、咲良のペースに飲まれてしまっている。駄目だこりゃ。なにやってるんだ俺。女の子に嘗められやすい性格なのかなぁ……?


 若干ネガティブになっていると、クスクスと玲児の様子を見ていた咲良が口元を抑えて笑い出した。嘲笑っているというより、ほほえましさを感じさせるものだった。


「ごめんなさいね、玲児さん。雫さんの真似ではないですけれども、なんだか無性にからかいたくなって」


「もう、慣れたよ」


 言葉とは裏腹に、玲児はきまり悪そうな顔をした。


「この間は本当にありがとうございました。ぜひまた、どこか誘ってくれませんか?」


「そうだなぁ……」


 ぶっちゃけた話、遊漁町で案内できそうなところは菩薩崎や米兵通りくらいしか案内できそうな場所しかない。内陸部だって、せいぜい自然公園があるくらいだ。


 そこで急に深海から浮かんできたかのように、あることを思いついた。これなら、咲良も喜んでくれるかもしれない。


「じゃあ、遊漁町のみなと祭りに行かない?」


「みなと祭り? 夏祭りのようなものですか?」


 玲児は頷いて説明した。


 みなと祭りとは、名の通り遊漁港で催される夏祭りの事だ。もともとは大昔に起きた震災や戦争の犠牲者を悼むための祭りだ。屋台も出るし、この祭りのために用意される灯篭流しがあるが、なんといっても遊漁町沖の海上で上がる花火が良い、と玲児はアピールした。


「すごいんだよ。俺と雫は毎年この祭りに行ってるんだけど、船着き場で見る花火なんて迫力あるんだぜ。こう、ドーンって音がお腹の外に響いてくる感じがしてさ」


「まぁ……。でも、それでは場所取りとか苦労するのでは?」


「そんなことないな。正直田舎だし、人も多く来るったって、たかが知れてるから、都会のように何日か前に来て場所をキープするとかはしてなかったよ」


「間近で見る花火……ぜひ、行ってみたいです!」


「じゃあ行こうよ。雫も花火好きだから、三人で一緒に」


「はい!」


 咲良は玲児の説明を聞いていて、青白い肌の下から喜びが顔に浮き出ているのが分かる。


 玲児は心の奥底でガッツポーズを取った。これでまた、咲良と出かけられる。

同時に、本当にいいのか、と玲児の行動を疑う自分がひっそりとつぶやいた。


 ふと、誕生日プレゼントを渡したときに雫が見せた、心の奥底から嬉しがっているような満面な笑み今の咲良の笑顔と重なった。


「あ……」


 咲良の顔を見ると、自然と心臓がキュッとなる。


「……不思議なんです」


 咲良は姿勢を少し正すと、視線を玲児から机に下げて言った。


「玲児さんといると、自然と心が落ち着きます。まるで、ずっと前から一緒にいたような、私の家族か親友か、そんな気がするんです」


 玲児は首を横に振って視線を逸らした。魂胆が丸見えだ。


「またまた、どうせまた俺をイジるつもりなんだろ?」


「本当ですよ?」


 視線を元に戻すと、咲良は口を結んで、玲児を見据えていた。やせ細って、今にも折れそうなほどに弱々しく儚げな印象に反して、その金色の瞳にはどんな屈強な若者にも負けない真摯な光が宿っていた。


「玲児さん」


 その力強いまなざしを向けたまま、咲良は言った。


「少しお顔を貸していただけませんか?」


「……」


 玲児は彼女の瞳の前では逆らうことが出来ず、そっと彼女に顔を近づけた。

 すると、咲良は右手を伸ばして、玲児の頬に触れた。肌も、光子の手のようにカサカサしていて、荒れている。おおよそ自分たちと近い年齢の少女の手とは思えない。だけど、女の子としてのたしなみか、ピンクベージュのネイルをしている。


 玲児の茶色の目と、咲良の金色の目が合う。


「あ、あの……咲良、さん」


「玲児さん……」


 今度は注意してこなかった。

 最初、玲児は月のように輝く金色の瞳に魅入られる……そう思っていた。だけど、実際は逆だった。咲良が、まるで玲児の目に魅入られているようだった。


「わたし、あなたのことを……もっと知りたいです」


 とにかく咲良は、女の子にここまで間合いを許したことがないため赤面している玲児に視線を集中させていた。


「……あなたは、一体どんな方なんでしょうか」


 タンスの裏を手で探るように自分の顔をまじまじと見つめて、何かを窺っている。


「お、俺は……ただの玲児だよ。篝火玲児だ」


 玲児はそう返すことしかできなかった。

 どんな方、ってなんだよ。俺はあくまで俺しかねーだろっ。そう返したいけれども、言葉が出てこない。


 だけど、咲良の痩せこけながらも繊細で、形の整った顔を見ていくうち、不思議な感覚になった。

彼女は知っているけれども、何かが決定的に違う……。この違和感はなんだ?


 もう少しで、それを突き止められる気がする――。


 突然、締まっていた病室のドアからノック音が聞こえた。二人は我に返ると、磁石が反発するようにそれぞれ顔を離した。


 そして、病室のドアがガラリと開けられると、


「こんにちわー、咲良さーん」


 雫が間延びした声と供に、病室に入ってきた。


「ど、どうも、雫さん」


「や、やぁ、雫」


 玲児も咲良も、それぞれ顔から火が出そうな表情で雫を迎え入れた。胸がバクンバクンと身体中を飛び跳ねている。


「あ、レイも来てたんだ。でもなんで二人して顔真っ赤にしてるの?」


 雫はかくんと小首を傾げながら口元に指をあてて考える仕草をとると、納得のいく答えに至ったかのように黙って頷いた。


「お見舞いに来てくださったのですね、嬉しいです」


 その場を取り繕うように咲良が切り出した。青白い肌のせいで、頬の赤みが一層目立って見える。


「うん。でもレイも来てたのは意外かなー。ひょっとして、いつも会ってたりしてるー?」


「い、いや、たまたまだよ」


「ほんとかなー?」


「だから違うって!」


「知ってるー? 人ってね、心に思ってることを指摘されると、強い言葉で否定しようとするんだってー」


 じーっと、雫が玲児を見つめてくる。咲良の次は雫かよ。いい加減にしてくれと叫びそうになった時、雫の背後にスーツを着た男が現れた。


「ここでいいのかい、雫」


「おじさん!」


 瀧川真の登場に、玲児はすっとんきょうな声を出して後退した。


「やあ、玲児くん」


「おじさん、どうしてここに?」


「あたしが連れてきたんだよー。忘れたの?」


 そうだった。確か、彼女が持っていた防護服を調べるために、真おじさんを呼ぶことを咲良に話していたっけ。


「あなたが雫さんのお父様ですね。咲良です」


「雫と玲児くんから色々聞いているよ。苦労しているようだね」


 咲良は上半身を起こしたまま、真おじさんと会釈を交わした。

 すると、真おじさんは咲良の顔を見て「うん?」と、さっき雫がしたように太い首を傾げた。動作もタイミングも親子そっくりだ。


「君は……どこかで会ったかな?」


「え?」


 真おじさんの言葉に、咲良はきょとんとする。


「ああいや、気のせいかもしれない。失礼なことを言ってしまったね」


 真おじさんの顔に柔らかな笑みが戻る。だが、その視線は何かを探っているようだった。


「君が記憶喪失になっている咲良さんか。私は瀧川真です。どうぞヨロシク」


「あ、テレビで何度か拝見しています。すごい研究をなさっているのですね」


「いやいや、わたしはあくまで、身近な人たちにもっと便利で楽な暮らしをさせてあげたくて頑張っているだけだよ」


 咲良と真おじさんは気が合うのか、自然と会話が弾んでいった。真じさんが記憶喪失の事を尋ねると、遠慮なくすらすらと自分の置かれた状況を説明してくれた。



 真おじさんは一通り咲良の話を聞いたところで、防護服の話に移った。


「じゃあ、さっそく本題に入ろう。咲良さんの防護服はどこにあるかな?」


「あ、そこにあります」


 咲良はベッドから立ち上がると、棚を開けた。中には玲児が溺れていた咲良を助けた際に彼女が着ていた防護服がたたまれて入っていた。


「ふむふむこれが……。少し、見せてもらうよ」


 真おじさんは防護服を広げて、時折スマートフォンの画面をにらみながら、あちこち観察したり触ってみた。見た目は耐火スーツに似た、ただの防護服だけれども、真おじさんはどこか意味深に顔をしかめている。


「おや、ここに縫い目みたいなところがあるね? ひょっとして破れたのを直したのかな?」


 玲児はいつもの真おじさんが見せない変わった表情に珍しさを感じていた。雫も、真おじさんの様子に興味津々だ。


 しばらくの間、黙ってその様子を見守っていると、真おじさんは困惑したようにスマートフォンの画面を見て口元を手で抑えながら言った。


「……どういうことだろう」


「どうしたの?」


 真おじさんは画面から目を離すと、全員を一瞥するように説明を始めた。


「今、私の携帯には『SAKURA』社の防護服のデータが表示されているんだけどね……」


 咲良の持っている防護服は、そのデータに該当するものがひとつも無いというのだ。


 玲児たちは真おじさんから渡されたスマートフォンの画面に表示されている防護服の一覧を見せてもらった。パッと見ると宇宙服と見間違えそうな防護服や、雨具のような防護服が掲載されている中、確かに咲良が着ていた防護服はこの中にひとつも無かった。だが、企業のロゴも確認してみると、咲良の防護服にあるものと一致していた。


「これは確かに……不可解ですね」


 ロゴは同じなのに、その商品を取り扱っていないなんて。


「ブランドものじゃないけど……どこかの会社が企業の名前を借りて作った偽物とかかもしれないな」


 そうとは限らないよ、と真おじさんは玲児の仮説を否定した。


「もしかしたら製造が終わった古いものかもしれないね」


 だとすると、直接会社に問い合わせなければいけない。どうしたものかと考えると、それを読み取ったように雫が口を開いた。


「あの、よければこの防護服、お貸しします」


 えっ?

 全員の視線が咲良に集中した。


「いいのー、咲良?」


「今わたしが持っていても仕方ないですし……それにもし、これを調べてわたしが誰なのか分かることが出来るのなら、喜んでお貸しします」


「それなら、遠慮なく貸してもらうよ」


 咲良は防護服を綺麗にたたんで紙袋に入れると、まるで卒業証書を渡す校長先生よろしく丁寧に防護服を真おじさんへ差し出した。それを真おじさんは同じように丁寧に受け取ると、咲良の願いを聞き届けるように笑いかけた。


「ようし、明日すぐにでもこれを作った会社に問い合わせてみるよ。きっと手掛かりがあるはずだ」


「よろしくお願いします」



 防護服を調べるという主な目的も達成したこともあり、それからは他愛ない話をした後、咲良に別れを言って病院を後にした。


 雫たちは電車でやって来たらしく、三人そろっていつものように電車と徒歩で帰ることになった。


東遊漁町駅を降りて、真おじさんが口を開いた。


「いやぁでも、本当にいるもんなんだねぇ。なにもかも全部忘れちゃう記憶喪失の人なんてさ」


 普通、交通事故とかなら事故前後の記憶が無くなる話ならよく聞くんだけどね、と加えた。そういえば、咲良と出会った当初の玲児もそんなこと考えていたっけ。


「でも、おじさんも仕事で忙しいのに……俺が言うのもナンだけど、本当にいいんですか?」


「困ってるときはお互い様さ。君だって咲良さんにそう言ったんだろう?」


 玲児は黙りこくった、まったくだ、自分が真おじさんと同じ立場なら、きっと同じことをしていただろう。


「それにね……不思議なんだけれども、あの子を見ていると自然とほっとけなくてね。つい、手伝ってやりたくなったんだよ」


 なんだか雫と同じこと言ってら。やっぱり親子だ。


 だけどこの人の場合は、玲児にも向けている親心と同じようなモノだろうか。でも、隣の人がどんな人なのかもわからないこの社会で、初対面の人に手を差し伸べるような人は中々いない。こういう大人になりたいもんだなぁ。


「そういえばさー……」


 玲児が関心していると、おじさんの隣を並んで歩いている雫が前触れもなく話題を切り替えてきた。


「病室に入ったとき、二人ともなんかイイ雰囲気っぽかったけど、さっきなにしてたのー?」


「え、ええ?!」


 雫が歩きながら真おじさんから覗くように玲児を、目を細めながら見てくる。十中八九イジりに来ている目つきだ。


「なにもしてないけど……」


「ホントかなー?」


 じーっと、雫が凝視してくる。

 玲児は雫から目を逸らしながら、頭の中はあの時、咲良が玲児に顔を近づけてきたときのことでいっぱいだった。


――わたし、あなたのことを……もっと知りたいです


――でも……レイといると、いつものように明るくなれるんだ。やっぱ、イジれるからかなぁ


 ああ、駄目だ。二人の少女の顔と声が、同時に玲児へ突き付けてくる。どうして? どうして俺は二人のことで悩まなきゃいけないんだろう。


「おーい、レーイ!」


 雫の呼びかけで、やっと我に返ることが出来た。同時に、冷静さも取り戻したので、きちんと雫と目を合わせた。


「俺は……雫と七月に夏祭りに来ないかって話をしてただけだよ」


「……へー」


 どこか腑に落ちないような反応だ。まさか、自分だけはぶられているとでも思ったのだろうか? 玲児はすぐにフォローを入れた。


「君も来なよ。……ってか、咲良に三人で行くこと前提で話したし」


「いいのー?」


「いいじゃないか、三人で楽しんでおいで」


 真おじさんも玲児の意見に賛同する。


「んー……わかった」


 了承こそしているけれども、その声色は本当に行く気でいるのかあいまいさを感じさせた。例えるなら、光子に部屋を片付けなさいと注意された玲児が「いつかね」と適当に返したものと、似たようなものだ。


 玲児の住んでいるアパート付近に着くと、「今日はありがとうございました」とお礼を言って、玲児は雫たちとは違う道を歩こうと。

 そのまま家へ向かって歩く――と思いきや、なんと、雫がやってきて軽く肩を叩いてきた。。


「え? 雫?」


 どうしたのと言う前に、真おじさんが先にその台詞を言った。


「おや、どうしたんだい?」


「ん、ちょっと玲児と大事な話があるから。待っててー」


「そうかい。なるべく早めにね」


「大丈夫、すぐ終わるー」


 真おじさんは深く詮索することもせず、スマートフォンを取り出してタップし始めた。


 雫は「レイ」と呼びかけると、おじさんから少し離れた歩道前に玲児を連れて移動した。ふと、彼女の顔を見ると、いつものニュートラルな笑みは消えて、口を一文字に結んだまじめな表情だ。おそらく、『大事な話』といっても、期待するようなものではないのははっきりわかった。


「雫、大事な話ってなに?」


「レイ、おかしいと思わないー?」


 その声はのびのびとしているが、あきれているようにも、ちょっと怒っているようにも感じた。


「え……なにが?」


 俺が何かしたのだろうか? 全く理解できない。


「だってさー、溺れて記憶喪失で入院するって言っても、こんなに長く入院って普通すると思うー? もうあれから二ヵ月は経つよー」


 ……言われてみれば、確かにおかしい。

 溺れてはいたものの、どこか骨が折れたわけでも、深い傷でも負ったわけじゃない。だけど、咲良はずっと病院のベッドにいる。


 雫は、なにかを覚悟するように、一度鼻で大きく息を吸った。


「これはあたしの予測だけどね――あの子はなにか大きな病気を抱えてると思う」


 脳天を金槌で思い切りぶっ叩かれたかのような衝撃が、玲児の全身を走り、胸に重くのしかかった。


 大きな病気……。


 いや、玲児も薄々わかっていたのかもしれない。あの痩せ方は普通じゃない。それにあの白い髪だって……顔立ちこそ整っているけれども、見た目は痩せ衰えた老人そのものだ。


 今日はベッドから立ち上がる姿を見せることはできたものの、いつか歩けなくなる日だって来るかもしれない。


 だとしたら、俺は……。


「レイは本当に、咲良のことが好きなんだと思うの」


 雫はきっぱりと言い切った。玲児はその言葉に反撃することはできなかった。


 違う、俺は……。


 そう言いたかった。だけどそれは、咲良を想っている自分に嘘を付いているし、なにより、今の雫の言葉に対しての返しとしては適切ではない。


 俺はいつもそうだ。中途半端で優柔不断、八方美人な人間。だから今、こうして苦しんでいる。こんな自分に腹が立つ。


「だけどね、本当に相手の事を想っているのなら、ちゃんと咲良のことを見て、考えなきゃダメだよ。もうレイもあたしも、子供じゃないんだから、相手の気持ちを考えるようにしていかなきゃ」


 反撃も、なにも出来なかった。


 雫が車に戻って帰った後も、玲児はしばらく足が石になったように突っ立っていた。

 そのままいっそ、全身が固まって砕け散ればいいのに。

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