5.記憶のヒント
一週間というモノはわりとあっさり過ぎてしまうもので、気が付けばあっという間にゴールデンウィークに突入していた。
雫や咲良と遊漁町に出かける当日の朝は5時半に目覚めてしまった。一人でリビングでぼんやりとしていると、高校での入学式から聖ジョージ病院での咲良との出会いまでの出来事が思い出された。
玲児が出かけるより先に光子が仕事に行ったので、玲児はなんの気兼ねもなく準備して家を出た。出がけにちらりと見た鏡には、どうにも落ち着いていない自分の顔が映った。
時間に几帳面な玲児は十一時三十分きっかりに、咲良のいる聖ジョージ病院前についた。
まだ五月だというのに、初夏のような暑さだ。半袖でも着てくればよかったかな、なんてことを考えていると、「レイ」と背中から名前を呼ばれた。
まさかまた首筋をくすぐられるのでは、と身構えながら振り返ると、雫が隣に咲良を連れて病院の入口から出てきた。
「やっほ」
「こんにちは……」
雫は片手を上げてフランクに、咲良はぺこりと斜め四十五度頭を下げてあいさつした。
さすがに咲良のいる手前イタズラはしなかったようだが、既に彼女を連れてきていたことに少し驚いた。
だけど玲児の口から出てきた言葉は、
「あ、ああ……」
情けない声しか絞り出せなかった。
しかしそんなのどこ吹く風というふうに雫は玲児に近付いた。
「先に来て病室から連れてきたんだー。早く遊漁町の色んなとこ、見せてあげたかったから」
「ああ、そう」
雫と咲良が心の準備もなく出てくるなんて、まるでソフトボールの授業でピッチャーがいきなり百五十キロ越えの球を投げてきたような衝撃だ。
「玲児さん、今日はよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、ヨロシク」
そのうえ、咲良は青白い顔でも太陽のようなぬくもりを感じる笑顔で挨拶してきて、豪速球がデッドボールになった。緊張が抑えられなさそう。
なんとかそれを紛らわせようと、玲児は雫に話題を振った。
「それで、まずどこへ行くんだ?」
「ハンバーガー屋。ほら、この間行ったところ」
「ハンバーガぁ?」
なんでまたそんなところに、しかも初っ端から。
「それ、お前が単純にハンバーガー食べたいだけじゃ……」
「あ、それはわたしからの提案なんです」
遠慮がちに手を上げて、咲良は続けた。
「この町ってハンバーガーが有名ってネットに書いてあって……、それで気になっていたところを雫さんに勧められたんです」
「ただ景色を見るだけじゃなくて、もっと五感に刺激を与えられるよう、色々アプローチしていかないと駄目でしょ」
「は、はぁ……」
なんというか、雫がハンバーガー食べたいがために咲良を説得させたようにしか聞こえない。もちろん雫は玲児以外の他人を振り回してまで食べようなんて言い出すような人じゃないのは分かっているけれども……。
三人は病院の坂を下ると、街道を通って米兵通りへと入っていった。
既に雫は咲良と打ち解けあっているのか、この間病院に行ったときに使っていた丁寧な言葉からタメ口になって自然と会話していた。
「ここは昔から在日の米軍が行き交っててねー、だから日本のお店とアメリカのお店が入り混じってるんだ」
「まぁ、本当です。英語の看板があちこちに……。面白いところですね」
玲児は二人の後ろをついて行きながら、彼女らの会話を聞き入っていた。
いったいいつから打ち解けたのか。高校生に入った時から思ったが、女子たちのコミュニケーション能力というモノは本当にすごい。クラス内で見知らぬ女子同士が会うとすぐ会話したり連絡先を交換することなんてザラだ。
それとも単純に、自分が引っ込み思案な性格なだけかもしれないが……。
「ねえ、レイもそう思うでしょ?」
「え? なにが?」
二人だけで会話しているものだから、言葉が玲児の右耳から左耳へ通り抜けてしまっていた。
「ほら、二人で食べに行ったハンバーガーのお店!」
「あ、ああおいしかったよ」
「味ではなくて、そのお店の名前ですよ」
玲児のいい加減な答えに、咲良が苦笑しながら訂正する。え? そっちだったの?
「こんな感じで、レイはいつもぼんやりしてるんだー。だからイタズラしやすいのー」
「なるほどー」
俺を出し抜いて、そのまま会話のダシにしたのか? ダジャレではなく、冗談抜きで。ずいぶん悪辣な性格だよ、雫め。今更だけど。
玲児が心の中でぶつくさ文句を言っているうちに、『SAZANAMI』についた。相も変わらず大盛況なようで、十分ほど列で待機した末に席に座ることが出来た。
玲児はこの間のような優柔不断な姿を咲良に見せたくなかったので、前回と同じものを頼んだ。すると雫が「あー、それこの間あたしが考えて頼んだ奴だー」なんて言ってきた。ちくしょう、余計なこと言いやがって。
「じゃあわたしも、同じものにしてみようかしら」
えっ、と玲児はドキッとしながら咲良の方へ顔を向けた。すると、嫌な視線を感じてちらりと横目で隣を見ると、雫がにやにやしながらこっちを見ていた。
店員にメニューを頼んで数分後にハンバーガーが運ばれてきた。
目の前に出されたハンバーガーを見て、そういえば、と玲児は思った。
雫のせいですっかり慣れてまったけれど、元々女の子をこういう店に連れてくるってどーなんだろう? 記憶を取り戻す名目があるとはいえ、ハンバーガーなんて脂っこい食べ物の代名詞だし、ヘルシーなものを好む今どきの女の子には向いていない気がする。ここのハンバーガーって、普通の店と比べてサイズは大きい方だし。
「へぇ、大きいからナイフとフォークを使うのですね」
しかし、玲児のそんな不安な考えを裏切るように、咲良はためらうことなくハンバーガーをナイフで少し切って、口に運んだ。
その様子を、玲児と雫は固唾を飲んで見守る。
「では、いただきます」
はむっ、一口目。
咲良の反応はナシ。
はむっ、二口目。
また反応はナシ。
「……どう、ですか?」
玲児が試しに尋ねる。
しばらく、咲良はナイフとフォークを置いて、味わうようにハンバーガーを丁寧に咀嚼する。そして飲み込むと、しばしの沈黙が流れる。周りはみんなおしゃべりして騒がしいのに、ここだけテスト中のごとく静かだ。
「とても……おいしいです」
「それで、なにか思い出せた?」
咲良はかぶりを振った。
「おいしいのですが、なんというか……とてもなじみ深すぎて、かえってなにもピンとくるものがなかったですね……」
「あー、なるほどねー」
雫ががっかりして天井を眺めた。玲児も腕を組みながら納得して頷いた。
「まぁ、ハンバーガーなんてみんな食べ慣れてるからなぁ」
もうちょっとパンチの効いたハンバーガーだったら、また違ってたかもしれない。……もっとも、そういったハンバーガーがここらへんで扱っているかどうかは疑問だが。
「あ、でも、このハンバーガーそのものはとってもおいしいです。ボリュームがあって、味も濃くて……まさに本場のハンバーガーっていう感じでした!」
その感想とうれしさは本当のようで、咲良の目はとっても輝いていた。ちょうど、この前真おじさんと会った雫のように、喜びで煌めいていた。
記憶を戻すきっかけにはなれなかったけれども、喜んでもらえたようで良かった。自然と玲児も雫も笑みがこぼれた。
『SAZSNAMI』のハンバーガーは咲良にとって好評だったようで、店から出た後も「また機会があれば食べに行きたいです」と感想を口にしていた。
三人はハンバーガーを食べた後の腹ごなしもかねて歩きで、菩薩崎へと向かった。一時間近くも歩き、トンネルを抜けた先に広がる海に、咲良は目を見開いた。
「ここが……わたしがいた場所なんですね?」
玲児は黙って頷いて、肯定すると、沖の部分を指さした。
「ほら、あの岩場から少し離れたところ、あそこに君が浮いていたんだ」
咲良を先頭に玲児たちは階段を下って砂浜に立つと、しばらくそこで無言のまま波の音を聞き、水平線の向こうを眺めた。
もう幼いころから何度も眺めた、この侘しい砂浜。だけど、改めてこの日の光を浴びてサファイアのように煌めく水面を目の当たりにし、穏やかでリズムの良い波の音を聞いていると、自然と心が落ち着く。
玲児と雫は波の音を聞きながら、じっと咲良が口を開くのを待った。
彼女は、まるでこの海を受け止めるように、一度深呼吸して大きく息を吐くと、玲児たちへ振り返った。
「――やっぱり、ここで海を眺めても、私の記憶はまだぼんやりとしたままです」
だが、咲良は笑みを絶やしていない。まるで希望が絶えていないように。
「……でも、この海の音を聞いていると、なんだか安心します。それに」
と、咲良はそっと海水に手を触れた。
「ここの海の水はとっても綺麗。なんだかずっと昔、こういう海を見たような気がするんです」
やっぱり『海』というのが、彼女にとって、記憶を取り戻すキーワードなのだろう。だけど、決め手にはなりえないようだ。
「ただ見たり食べるだけじゃなくて、もっと強い刺激が無ければ、難しいのかなー?」
「具体的には?」
「それが分かれば、苦労はいらないと思うよ」
「これはネットで調べて知ったことなのですが」
と言って、咲良は前置きした。
「普通の生活の中で、ふとしたきっかけで記憶を取り戻すこともあるようです」
咲良がネットで知った体験談の一つに、記憶を失った人が年賀状を見て、自分の干支を思い出しそこから自分の年齢を割り出して出生を知ることが出来た、という例を教えてくれた。
「だからひょっとしたら、この海沿いの町で暮らしていくうちに、記憶が取り戻せるかもしれません」
結局のところ、振り出しに戻っただけ、か。もともと今日一日で記憶を取り戻せるとは最初から思ってなかったとはいえ、力になれず、玲児は落胆の色を隠せなかった。
少し歩き疲れた、ということで菩薩崎大橋のすぐ近くにある駐車場を横切った先の園地で休むことになった。
海が見える東屋で腰を落ち着かせると、誰ともなしに玲児が言った。
「そういえば……咲良さんが持っていたあの防護服のコトなんですけど……」
「はい?」
そこで玲児は、前回病院から帰る際、雫の父親である真おじさんと出会い、防護服が彼の所属している研究施設に同じ会社のものがあった事を話した。時折、雫が玲児の内容を補うように口を入れた。
「サクラ、という会社の防護服ですか……」
「これが咲良さんの身元が分かる唯一のヒントですからね」
「防護服買った人のリストとか調べ上げればわかりそうな気もするけどねー」
「購入した方のプライバシーの問題もありますし、難しいところですね」
そうそう、とそこで雫が思い出したように目を伏せている咲良に言った。
「お父さんがね、一度、咲良に会って防護服を借りたいって言ってたんだ。どうかなー?」
「ええ、全然かまわないですよ。むしろ、協力してくれる方が増えて心強いです」
咲良は伏せていた目を雫に向けた。
「それにしてもすごいですね、あなたのお父様が、あの永久機関のホイールを研究する一大事業に関わっているなんて」
「あはは、まーね」
雫は父親が誇らしいように胸を張った。
「あたしは将来、お父さんと一緒にホイールの研究するのが夢なんだ」
あそこの近くに研究所があるんだよ、と雫は海の向こうに建っている、三つの火力発電所の塔を指さした。石油を使って発電していたが、もうだいぶ前に玲児が子供の頃に起きた大地震の影響で、電力の供給が止まって廃止になってしまっている。
ちょうどあの場所は工場が密集する工業地帯であり、外国からやってくる船から商品が輸入されたり、逆に日本から車などを貨物船に乗せて輸出している。
もう一度、三人は揃って海を眺めていると、再び咲良が口を開いた。
「そういえば、雫さんは玲児さんのことを『レイ』って、呼んでいますね」
「うん、そだよー」
ぴくり、と玲児は身体を小さく動かして反応した。まさか、あだ名の由来を言うつもりか?
「なんだか「レイ」と呼んでいるのが気になって、ほら、外国人みたいじゃないですか」
「なんでもない! ただ勝手にみんなが呼んでるだけですよ」
「嘘はいけないよ、レイ」
玲児は必死になって理由を取り繕うけれどもと、「チッチッチッ」と雫が得意げな顔で人差し指を振った。
「中学生の頃、数学の中間試験で0点を取っちゃってね……」
それだけなら、玲児よりも成績悪い人がいるからただのちょっとした話題になるだけで済んだけれども、恥ずかしがり屋の玲児は、そのままやけになって『ゼロの使者=レイ』なんて名乗り始めたのだ。
それを面白がって、当時のクラスメートはレイ、レイと呼ぶようになったのだ。
玲児は最初のうちこそかっこつけていたものの、だんだん冷静になっていくにつれてそれが一時のテンションに身をゆだねてしまった結果、恥ずかしくなってついにはやめるように頼み込んだのだという。
「で、今でもあたしはレイって呼んでるってわけ」
「雫……お前、やめろって……」
「だって事実だしー」
雫は玲児の黒歴史を話すことに悪びれる気は全くない。
「く、うぅ」
複雑な気持ちだ。
目の前で気になっている子に自分の恥ずかしい過去をバラされたことに腹が立つ一方で、「雫だからいいか」とつい許してしまいそうになる。だから玲児に出来たことは顔をトマトのように赤くして、顔を伏せて唸るだけだった。
どうしたらいいのか頭を抱えていると、ふふふ、と和やかな笑い声が玲児に差し込んできた。ああ、やっぱり可笑しくって笑っているのか。
「玲児さんと雫さんって、とっても仲がいいんですね。なんだか、姉弟でじゃれあっているように見えます」
えっ? 玲児は咲良を見やった。彼女はくすくすと笑ってはいるけれども、それはまるでやんちゃな子供を見守る母親のように穏やかなものだった。
でも、兄妹……いや、姉弟とは……。
「でしょー? レイってホントに可愛いんだからー」
咲良の言葉でさらに気をよくしたのか、雫は玲児の頭をよしよしと撫で始めた。ちょっと心地よいなんて思いながらも、それを振り払いつつ胸の内でふつふつと反抗心を沸かせた。
くそっ、いい気になりやがって……。だったら俺も幼い頃海で泳いでたらミノカサゴに刺されて、それからは海が怖くなって泳げなくなったこと、いつかバラしてやる!
そして東屋で玲児の事、雫の事を話し込んでいくうちに、空も朱色で彩られようとしていた。そこで思い出したように、「あっ」と玲児は声を漏らした。
「もうこんな時間か……。咲良さんは外出する時間とかは平気なんですか?」
「そうですね。そろそろ戻らないと約束の時間が過ぎてしまいますね」
三人は東屋から出ると、聖ジョージ病院のある繁華街へ行くためのバス停に着くと、咲良は「あとは自力で帰れますから」と、玲児たちに告げた。
「今日は本当にありがとうございました。私の記憶の手掛かりを探すために、お二人に貴重な時間を使わせちゃいましたね」
「記憶探しっていうより、なんだかただ遊んでる感じになったような気もするけどね……」
「それも大事なことだよー」
雫は両手を後ろに回して、言った。
「記憶が無くなっても、新しく思い出は作ることが出来るからねー」
「雫さんのおっしゃる通りです。手掛かりは見つかりませんでしたが、それでも玲児さんと雫さんと色んなところを回って、お話して……今日はとっても楽しい日でした!」
「……そうですね。また、こうして遊漁町を回って、記憶探ししましょう」
「はい! ……あ、それと――」
咲良はなにかを思い出したように、一歩玲児に近付いた。
「次からは、無理して私に敬語を使わなくても大丈夫ですよ。もう私と玲児さんは友達ですし……気を遣うことはナシです」
「ずーっと一日中レイって慣れない敬語使ってたもんね。正直ガラじゃないし合ってないよ。ひょっとして、咲良に嫌われたくないから、とか?」
「ち、違う! そうじゃない!」
「まぁ! それじゃあ私に嫌われてもいいということですか?!」
玲児の言葉に、咲良は腰に両手を当てて頬を膨らませた。まずい、怒らせちゃったか?! な、なんとかしないと。
「そ、そうじゃなくて、嫌われるとかそんなことじゃなくて、お、俺は……」
「……ぷっ」
すると、狼狽える玲児を見て最初に雫が吹きだし、それにつられるように咲良も怒り顔からあっという間に可笑しさを隠し切れない表情に変わった。
二人が笑っているさまを見てようやく、自分は雫と咲良が即興で作った罠に陥れられたことに気付いた。
咲良は玲児の口元に人差し指を向けると、
「約束ですよ?」
「は、はい……あ、うん」
そこへタイミングよくバスがやってきた。咲良は玲児と雫に改めて一礼すると、バスに乗り込んで菩薩大橋の向こう側に行ってしまった。
しばらく、バスが行ってしまった方向をぼんやり眺めながら、玲児はその余韻に浸っていた。
その余韻を吹っ飛ばすように、雫が玲児の尻を軽くたたいた。
「さ、あたしたちも帰ろ」
「あ、ああ……」
雫の後をついて行くように、玲児も歩き出した。
――約束ですよ
約束、か。玲児は自然とドキドキしていた。