3.儚げで、虚ろな
あの防護服の少女を助けて二日後、新しい一週間を迎えた。
月曜日特有の憂鬱さを抱えながら教室に一歩、足を踏み入れると、称賛の声と興味の視線が玲児を待ち受けていた。
まず最初に同じ中学校だった顔見知りの男子がやってきて、
「玲児、お前菩薩崎で溺れた女の子助けたんだってな」
「は? ああ、まぁ」
なんでこいつら、この間のこと知ってるんだろうと疑問に思っていると、そばで「ネットのニュースで見たよ!」という声が聞こえた。ああ、そうだよな。ネットのニュースなら嫌でも目に入るよな。
もちろん、玲児もニュースに目を通していた。ただ、わいてきた感情は高揚感ではなく、「絶対注目されるかも」という恥ずかしさと恐怖だった。ただ、唯一玲児が助けた女の子は、一命をとりとめたという一面を見てほっとしていた。
更に、いつのまにかやってきた担任の小田切先生がやってくると、玲児の肩を叩いて、
「お手柄だな、玲児。校長先生も感心してたぞ。警察からも、感謝状も贈られるかもなぁ」
先生の言葉を聞いて、周りから「おおー」「すげー」という賛美の言葉が上がってくる。
「え、えぇ~……」
言われているこっちが顔から火が燃え上がるほど恥ずかしくなって、今すぐ教室内の窓をぶち破って、校舎から飛び出したい気分だった。
ああ、耐えられない。こんなに脚光を浴びてしまうと、そのまま見えない視線のレーザーで蒸発されてしまいそうだ。
目立ちたいという欲求はあるけれども、ここまで目立ちたいとは思っていない。限度というものがあるだろう。
おかげで、放課後までこの間の状況を何度も説明するはめになり、クラスどころか学校中から注目を集めるようになった。このままだと学級新聞に載るのも時間の問題だろう。
なんか、別の意味で学校に行き辛くなってしまった。まさかあんな人助けで、学校が魔境に代わるなんて夢にも思わなかった。
こんな日が数日続いた。
人助け、やめようかな……。
帰りの電車の中でそんなことを考えていると、スマートフォンにメッセージが届いた着信音が聞こえた。画面を覗くと、雫だった。
『レイ、今って学校からチヤホヤ言われて恥ずかしがってる?』
何で知ってるんだよ。どっかで監視してるのかあんたは。
玲児は突っ込みを入れようとすると、再び雫からメッセージが届いた。
『それより、今日、放課後時間ある?』
こいつ、俺のここ数日のの苦労を「それより」で一蹴しやがった。こっちにとっては深刻な問題なのに。
レイはとりあえず「あるよ」と短く送ると、すぐに返事が来た。
『じゃあ聖ジョージ病院行かない? あの子に会いに行こうよ』
えっ? もう?
なんか色々早いような気がする。
『溺れてた子から玲児に会いたがってるんだって。病院から連絡が来たの』
『ホント? ていうか、俺の電話にそんなの一度もかかってこなかったけれども』
『まぁ、連絡が来たのもさっきだったしね。ほら、病院の人に教えた番号もあたしのものだったからさ。それで、代わりにあたしがレイに電話するって言ったんだ。勝手に電話番号を教えるのも悪いし』
なんとなく、雫がまた自分に悪だくみを仕掛けているのかと思ったけれども、悪だくみのために他人を巻き込むことはしたことないし、こんな回りくどいこともしないだろう。
『いいよ、病院に行こう』
『それじゃあ四時に中央に集合ね。向こうにはあたしから言っておくね』
玲児が了解と送ったところで、メッセージのやり取りはひとまず終えた。
それにしても、あの子が俺に会いたがってる、か。
謎に包まれた白髪の美少女。
もう一度、あの顔を見てみたいと思っていた。
……いや、何を考えているんだ、俺は。雫という子がいるのに。まだ彼女じゃないけれども。
心の中に芽生えつつあった気持ちを振り払うように、玲児は一度、電車を降りた。待ち合わせ場所の遊漁中央駅は反対の東京方面だった。
果たして、玲児は約束の時間より十五分ほど早く中央駅に着いた。
この間のように、今度もまた死角から首筋をくすぐられるのかと思っていたけれども、今回はそういったアクシデントもなく、四時ぴったりに普通に現れた。
「やっほ、レイ」
「や、やぁ雫」
雫は中学生の時に見慣れた、白と青のセーラー服ではなく胸元に赤いリボンのついた、グレー基調のブレザーを上品に着こなしていた。
いたずらっ子な雫が、自分よりも何歳も年上で、ずっとオトナっぽく見えて、どうにも落ち着かなかった。
同時に、やっぱり俺は雫に気持ちが傾いているんだ、と実感して心の中でほっとした。
「レイ、どうかしたー?」
「いや、なんも」
ほっとしたところで、隙アリと言わんばかりに雫が話しかけてきた。気を緩めていただけに、ちょっとギョッとしてしまった。
いかんいかん、悟られてしまったらどうイジられるのか分かったものじゃない。いや、別にいいんだけど。
なんとか本心を隠しつつ、玲児と雫はYデッキを下って聖ジョージ病院のある方角へ歩き出した。道順は、クラスのみんなで先生にお見舞いに行った経験で分かる。
玲児たちはちょっと急な山道を登ると、そこに緩やかなU字を描いた白い建物が顔を出すように現れた。ここが聖ジョージ病院である。
事情を話して面会する手続きを済ませると、看護婦のおばさんから少女のいる病院の号室と、少女の名前を教えてもらった。
少女の名前は咲良だそうだ。
咲良……か。女の子らしい名前だ。
あれ? 『サクラ』って、どこかで見たことあるような……なんだったけな。
エレベーターに乗って、廊下を歩く最中、『サクラ』という単語を思案すると、それに連鎖するようにあの女の子――咲良の目を閉じた顔が頭に浮かんでくる。それがまるで、毒リンゴを食べた白雪姫のように見えて、心なしか美化されていく。
「ん、緊張してる? レイ」
「まさか……」
顔を逸らして、雫に自分の考えを読まれないようにする。
「ひょっとしてあの時、一目ぼれしちゃったとか?」
「ばっ……! そんなわけないだろ!」
雫の不意打ちに、つい向きになって大声で返した。
すると通りかかった若い看護士が、「あの」と不満そうに声をかけてきた。
「病院内では静かにお願いします」
「す、すみません……」
玲児が頭を下げている傍らでは、雫はくすくすと口元を抑えて笑っていた。
注意した看護師が去ったところで、玲児は少しだけ頬を赤く染めつつ恨めしそうに睨んだ。
「雫のせいで怒られちゃったじゃないか、変なこと言うなよ」
「あはは、ごめんごめん」
「だいたい不謹慎だぞ、そんなこと言うの」
「だってレイ、病院に近付いたら妙に表情が引き締まってたんだもん。これから受験しに行くみたいでサー」
玲児が反撃しようとすると、タイミング悪く目的の五〇五病室についた。病室のドアは開いていて、四人部屋の病室のようだ。利用している人は『咲良』含めて二人のようだ。
「うん、名前の表にも咲良って書いてあるからここだね。さ、入ろー」
病室に入ると、カーテンで遮られているベッドが二つあった。名前の札の位置から多分ここかな、と雫が奥のベッドに向かって、カーテンをめくった。
「あ、貴方が咲良さん? こんにちは」
雫がいつもの間延びした口調を引っ込めてあいさつした。向こうからおどおどした「こんにちは」が返ってきた。
「私がお医者様の言っていた雫です。それでこちらがあなたを助けた――」
と、雫は玲児を手招きした。
少し緊張した面持ちで玲児はカーテンの内側に入ると、ベッドにあの時助けた少女が目を開いて上半身を起こしていた。
まず目を引いたのは、菩薩崎で見たあの真っ白で長い髪だった。銀色に美しく輝いていて、それを後ろにまとめてリボンでポニーテールにしている。
玲児たちの存在にきょとんと丸くしている目は金色で、猫やキツネのそれよりもくすんだ黄色に近かった。
そして肌は白いを通り越して青白く、心なしかやせ細っているようにも見える。目を凝らせば、血管も見えてきそうだ。
ベッドテーブルには、ノートパソコンが置かれていて、イヤホンがくっついていた。さっきまでパソコンで音楽を聴いていたのだろうか。
「あ……あの、どうも、篝火玲児、です」
「まあ、貴方が玲児さんですね。恐れ入ります」
にこり、と咲良は目を閉じて笑った。今の丁寧で、温和な印象を与える言葉遣いは、なんだか小学生の頃の雫を思い出させるような話し方だ。
「海で意識を失っていたわたしを助けてくださり、本当に、本当にありがとうございます。貴方は、命の恩人です」
「い、いや俺はそんな、大したことなんてしてないですよ」
「そんなに謙遜しないでください。貴方にとって大したことではなくても、わたしにとっては命にかかわる問題なのですから」
そう言って、咲良は手を伸ばしてきた。玲児も半ば無意識に手を伸ばすと、握手を交わした。玲児の差し出した右手に、咲良の両手が包み込まれる。暖かいけれども、か細くて青白い手だ。もし皺が刻み込まれていたら老婆の手にも見えなくもない。
面を上げて咲良と目を合わせると、彼女は弾けるような笑みを浮かべていた。やせ細った顔からは不釣り合いなほど元気なエネルギーが溢れていて……なんだろう。この満たされたような気持ち。
玲児は身体の芯から湧き出る感情を体感していると、咲良は玲児が戸惑っているのと勘違いしたようで、すぐに手を離した。同時に、玲児も我に返る。
「あ、名前も名乗らず、失礼しました。わたしは一応、咲良と名乗っています」
一応……? なんか妙に引っかかる言い回しだ。
玲児たちは、まず先に何故あの海で溺れていたのか聞いてみることにした。咲良もその質問をされることは察しているのだろう。
「出来ることなら、玲児さんたちのご質問にはお答えしたいのですが……」
と、咲良は目を伏せがちに言った。
「答えたくない、ということですか?」
咲良は首を横に振った。
「実はわたしは、溺れる前の記憶が無いんです」
「記憶が無い?」
玲児と雫はほぼ同時に叫んだ。はい、と今度は首を縦に振って咲良は肯定した。
「気が付いたらこの病室のベッドで寝ていて……思い出そうとしてもどうして海にいたのかはおろか、住んでいる場所も名前も思い出せないのです」
だからあの時、『一応』と言ったのか。咲良という名前も、便宜上の名前ということか。
「でも、警察の人も身元を調べてくれたんじゃないですか?」
「はい、ですが行方不明者のリストや捜索願にも該当者がいなくって……ひょっとしたら私は県外から来たのではないか、とお医者様はおっしゃっていました」
唯一の手掛かりはあれですね、と咲良は視線を後方へ移した。そこに置いてある棚の上に、溺れていた彼女が着ていた白い防護服が畳まれていた。
玲児はそれに近付いて何気なく防護服を観察した。おや? 左胸のところに縫い目がある。それについて、咲良に訊ねようとする前に、彼女が先に口を開いた。
「『咲良』という名前も、あの防護服に書かれていた文字から取ったんですよ」
そうか、サクラというワードに見覚えがあったのは、あの防護服にその文字が書かれていたからか。
机に置いてあるノートパソコンも、インターネットを使えば記憶を呼び起こすきっかけを見つけられるのでは、という医者からの配慮なのだという。
「なにか思い出すきっかけとかは?」
雫は探偵のようにあくまで相手に警戒心をぎりぎり与えないように問いだしていく。あ、今の雫すごいマジメなモードだ。
「ぼんやりとですけど……海を見るとちょっと心が落ち着くというか、そんな感じがします」
あとは――、と咲良はノートパソコンの画面を玲児たちに見せた。
パソコンは動画サイトに繋がっており、動画の内容はなんと、彼女の上品そうなイメージに反してお笑い芸人がドッキリにはまって落とし穴に落ちているものだった。
咲良も、二人に見せるのは恥ずかしかったのか、ちょっと顔を逸らしている。
「こういうのを見ていると……その、楽しくて、自然と見ちゃうんです。だから記憶を失ったわたしは海の近くに住んでいて、お笑いが好きだったのかなって」
「海……か」
なるべくお笑いの方には触れず、玲児は海をイメージした。真っ先に思い浮かぶのは、菩薩崎の砂浜だった。
「時折、怖いと思うことがあるんです」
咲良の声が少し震えた。
「自分がどこの誰なのかもわからなくって……わたしはどこかの学校の学生なのか、それとも、なにかとんでもないことに巻き込まれてこうなったのか……。それに、もしわたしの家族が現れたら、きっとその家族も悲しむと思うんです。そうなったら、わたしも悲しい、です」
自分がどこの誰かもわからない。何も見えない暗闇の中をさまようような感覚なのだろうか。玲児もわりと物忘れが多く、玄関の開け閉めを忘れていないかどうか不安になることがあるけれども、彼女はその数百倍は苦しくて不安になっているに違いない。
儚げで、虚ろな少女。彼女はか細くて、中身も何も残っていない。
自然と、玲児はなんとかしてやりたいという気持ちに駆られていた。この虚ろな少女の中身を、元の通りに満たしてやりたい。
でも、こんな自分に何か思い出すきっかけを与えることはできるのだろうか?
すると、雫が玲児に顔を向けて、
「レイ、咲良さんの記憶、思い出す手伝いしてあげようよ」
「え、うん。え?」
いきなりの提案に、つい玲児は反射的に二つ返事をしてしまった。
だけど、雫は自分が咲良にしてあげたいことをストレートに言ってくれた。
「え……でも、命まで助けてもらったのに、これ以上お世話になるのも申し訳ないです」
「そんなことないですよ。せっかくこうして知り合えたことですし……」
それに、と雫は右腕を広げて窓の外を示した。
「この遊漁町は海沿いの町だから、あちこち探索していれば、きっと記憶を取り戻す手がかりが見つかると思います。海が印象に残っているのなら、きっとなにかヒントになるものがあるはずです」
ね、レイ、と今度は玲児に会話を振ってきた。
玲児はなんとか言葉を探す。
「ん……僕たちでよければ、力を貸しますよ。その……こうして困ってる人をほっとくわけにもいかないですし……」
慣れない敬語でそう答えた。
「そういうことですよ。私たちも、咲良さんの力になりたいんです」
咲良は二人の意思を受けとり、一度目を閉じて思案すると、
「……わかりました。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
どうぞよろしくお願いします、と咲良は頭を下げた。粛々としているけれども、顔を見ればとても喜んでいることがわかる。
玲児は顔をほころばせつつも、しかし言った。
「でも、探すとしても海沿いは一日で回りきれるような場所じゃないだろ、どうするんだよ?」
「ゴールデンウィークを使えばいいでしょ。幸い、来週にそれがぶつかるし。それで、レイが咲良さんを見つけた場所から中心に探していこうよ」