2.海に漂っていた少女
「ねぇ、雫」
玲児と雫は眼下に砂浜と海が広がる菩薩崎大橋を並んで歩いていた。食事後のいい運動、ということで、雫か提案したのだ。
町の東側に面するこの菩薩崎の砂浜はまだ4月上旬とはいえ潮風が心地よく、ほのかに夏の香りがする。
七月にもなれば、橋の下ではバーベキューや海水浴目的で大勢の人が来るだろう。そういえば雫とも小学生の頃はよくここで海水浴してたっけ。
「どうして今日、俺を誘ったの?」
「んー?」
雫は少し首を傾けた――と、さっき『SAZANAMI』でした時のように口元を釣り上げて、
「当ててみてよー。当たったら教えてあげる」
「なんか矛盾してないか、それ……」
「いいからいいからー」
ぺちぺちと背中を叩いてきた。またいじられるのかと思ったけれども、さすがに考える余裕を妨害してくるようなことはしなかった。
「……俺をイジるため?」
「せーかい!」
だろうな、と玲児は思った。
本当に不思議だ。なんで雫は俺をイジるためにここまで情熱を燃やすのか。イジられるのは構わない(いや、本当は嫌なんだけれども)が、その行動原理が十五年彼女と付き合っていまだに理解できていない。
女の子ってよくわからない、とはいつだったか、クラスメートの誰かが言ってた気がする。まったくもってその通りだ。
「だってレイをイジるの楽しーもん。高校が違ってもイジるのは変わらないよー」
「ああ、そう……」
これから先もこんな関係が続いていくのか。うれしいような、悲しいような、複雑な気持ちだ。
「じゃあ、今度はこっちから質問するねー」
「なに?」
「レイは最近どう? 新しい高校通ってて楽しい?」
「楽しいって言われてもね……まだわかンないな」
まだ市内の高校に通って二週間。雫のように私立の高校へ進学したわけではないので、小学生や中学生のころ、クラスで一緒だった人もちらほら見かけた。
彼らを中心に、玲児はクラス内でのコミュニティを築き上げていってはいるものの、その他の生徒とは一枚の見えない壁で隔てているというのが実情だ。
授業の内容もまださわりだけで、一応中学生の時の復習も兼ねているので今のところついては行けている。
とどのつまり、楽しいといえば楽しいけど、真新しさはまだ感じないというのが実情だ。
「……」
だけど、今までしきりに雫が構ってきた小学生や中学生のころと比べると、玲児の周りはずいぶん静かになった。横浜の駅周辺の喧騒と、海開きしていないこの侘しい菩薩崎と同じくらい差がある。
そういう意味では、玲児が孤独でなかったのは雫のおかげなのだ。
他にもテレビやゲームの話をしたり、休みの日は釣りや虫を捕りに行く仲間もいたから決してぼっちというわけではなかった。
だが、お互い幼いころから付き合いのある友達というのは、雫だけだ。最も、玲児にとってはそれ以上のものなのだが。
それでも、高校が違ってしまえば、雫ともお別れ……別の世界の人間になるものかと思っていた。進学すると以前クラスが一緒だった友人とも会話しなくなるのと同じように。
高校が違うと言えば、雫はどんな高校生活を送ってるんだろう? 私立なんだから全く新しい環境で勉強したり、確か女子高だから新しい友達もできてるんじゃないか?
「そういう雫は?」
「あたし?」
すると、雫は海へ顔を向けた。
「んー……まぁ、楽しいかな」
それだけだった。
楽しいという割には、本当に楽しく見えないのはさっきと比べて声の明るさが少し無くなっているからだろうか。
雫につられるように玲児も海を眺めた時だった。
なんだろう、あれは。
玲児はぴたりと足を止めて目を瞠らせた。
「ねぇ、レイ」
濃い青色の沖に、なにか白いものが浮いている。
目に入った瞬間は、粗大ゴミか何かかと玲児は認識していた。だけどすぐにそれは違うものと分かった。
「あれって……人?」
雫も同じことを考えていたようで、思っていたことを口に出してくれた。
まさかと思っていたが、見れば見るほど、それは人間の形をしていた。
頭から足にかけて、全身を白いレインコートのようなものを着ている。ただ、頭部が異様に大きくて、宇宙服のようにも見えなくはない。
うつ伏せで様子をうかがうことはできないが、あの中にもし本当に人間がいたら――。
これってすごくヤバいんじゃないか、という予感が渦巻き始めた。胸が緊張で高まってくる。
「雫、俺ちょっと様子見てくる!」
「え? レイ?!」
気が付いたら玲児は走り出して、近くにあった石の階段を下りた。もしあれが本当に人間だったら、かなり大ごとだ。いつものように色々考えるよりも先に、自然と体が動いていた。
もう一度、目視でそれを確認する。やっぱり人間だ。
ただ、幸いなことに、宇宙服の人が浮いているところは、満ち潮で無ければ玲児の身長なら足を付けられるところだ。夏休み、何度も友達とここへ泳ぎに来たことがあるから分かる。
上着を脱いで、財布とスマートフォンをその場に置くと、急ぎ足で海へ飛び込んだ。
海水が玲児の全身を貫くように冷やしていくが、それでも玲児はためらわず平泳ぎにも犬かきにも似た泳ぎ方をしながら、何とか宇宙服の人に近付いた。
よく見たら、これは宇宙服でもなければレインコートでもない。防護服だ。よくテレビでハチから身を守るために着るようなアレ。
だけど、これはどっちかというと災害が発生したときに着る耐火スーツに近い。背中には『SAKURA』というロゴが見えた。
玲児は仰向けにすると、顔を保護するアクリル板の向こうに、小さな人の顎が見えた。
「大丈夫ですか?! 聞こえたら返事してください!」
返事はない。ともかく、玲児は急いで引っ張るように防護服を着た人を砂浜まで運んだ。雫も砂浜に降りてきて、玲児たちの様子を見守っていた。
雫がなにかを言うよりも先に、玲児は口を開いた。
「雫、119だ! 早く!」
「え、え?」
「救急車! この中に人がいる!」
「う、うん、わかった」
雫は顔を真っ青にさせながらも、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、たどたどしく連絡する。
一方玲児は、この状況でも冷静さを保っていた。保健体育の授業で習った救急蘇生法が頭の中に浮かんでくる。
まずは全身を覆う防護服を外さなければいけない。どうやって外すのか玲児は全身を確認した。一番先に目についたのは前のファスナーだ。
これを下ろすと、コットンのような長袖のインナーが露になった。身体つきからして女性だ。
玲児はそのまま顔を覆っているフードを外し、ゴーグルとガスマスクの留め具を外すと、少女の顔が現れた。
髪は銀色――いや、老婆のような白髪だった。目も鼻も整っている美少女だ。年齢はたぶん玲児や雫より少し年上だろう。目を開けて喋ると、きっとはきはきした、活発な女の子なのかもしれない
一瞬その顔立ちに見とれそうになって、冷静さを失いかけた。
息はやはりしていない。玲児の頭の中には心臓マッサージの文字が浮かんだ。
「救急車、すぐに向かうって!」
幸い、ここから大きな病院のある場所まではそこまで距離はない。ほんの数分で来るだろう。
「わかった。じゃあ雫は救急車が来た時のために誘導お願い。階段上がって待ってて! あと、人がいたら呼んできて欲しい!」
「う、うん」
雫が階段を上がると同時に、玲児も少女の胸の下部分に両手を添えて心臓マッサージを始めた。人工呼吸は、講習を受けていない人はしない方がいい、と先生に言われたことを思い出してしなかった。
なるべく強く、速いテンポで心臓マッサージをする。気が付けば、騒ぎを見た野次馬たちが玲児たちに寄って来た。中には、疲れた玲児の代わりに心臓マッサージをしてくれる人も出てきてくれた。
そうこうしていくうちに救急車のサイレンが聞こえて、救急隊員たちが担架を持ってやってきた。
二人の隊員が少女を担架で救急車まで運ぶ中、一人の隊員が玲児に質問をしてきた。
見つけた時はもう意識はありませんでしたか?
はい。
どんな応急手当を行いましたか?
心臓マッサージです。
容体の変化はありましたか?
いいえ、変わってません。
更に玲児から聞いた話から事件性を感じたのか、警察まで出てきてちょっとした騒ぎになった。玲児と雫は結局、警察に今回の事を説明するために大幅に時間をとってしまい、帰路につく頃には空が朱色に染まっていた。
玲児を囲んだ野次馬――特におじさんやおばさんからは「若いのにすごいね」「根性あるね」なんて言われたり、握手されたりとちょっとした芸能人みたいな扱いを受けた。
途端に、さっきまでの冷静さは鳴りを潜めてしまい、顔を真っ赤にしながら「た、大したことなんてしていません」「人として当然ですから」とありきたりな返事をしてやり過ごしていた。
このまま帰ることになり、菩薩崎大橋から離れてそれぞれの家がある方角を歩いている。海から離れて、住宅街のある丘陵地帯に向かっている。
「こーゆーの、生まれて初めてかも!」
雫はちょっとワクワクしたように肩を大きく揺らしてモデル歩きしながら言った。
「海で溺れていた人を助けて、そのうえ、冷静に応急処置もするなんて」
「俺はただ、学校で習ったことをそのまんまやっただけだよ」
「学校で教わったことをそのまんま出来たら、苦労なんてないってー。普通の人なら慌てちゃうよー」
「そう……かな?」
あまり自覚はないけれども。
「なんか、あの時のレイはいつものレイじゃないみたーい」
「い、いつものレイじゃないって……」
傍から聞いていると褒めているのかバカにしているのか分からない言い方だ。もちろん、雫にとっては褒めているんだろうけれども。
「そういえばあの女の子、どこの病院に運ばれたのかな」
「聖ジョージ病院でしょー。ほら、米兵通りから北の方角にあるあそこ」
ああ、と玲児は思い出した。山道を登った先にあるU字型の病院か。確か、小学生のころ、担任の先生が足にバイ菌が入って入院してた頃があったっけ。
「でも」
雫は腑に落ちないようにつぶやいた。
「どうしてあの子はあんな格好で、海にいたのかなー? あんな服着てたら泳ぎにくいし、溺れるに決まっているのに。ずっと気になってたんだ」
指摘されて、玲児もはっとした。
言われてみればそうだ。あの時は少女を助けるのに夢中になってて考える余裕がなかったけれど、あの防護服はどう考えたって海で泳ぐためのモノじゃない。
少女は、なんのために海にいたんだ?
「確かに、なんか気になっちゃうよな」
「落ち着いたら会いに行ってみる? きっと向こうもお礼を言いたいと思うし」
「そうだね」
ちょっとだけ、好奇心が湧いてきた。あの少女から、なぜ海にいたのか聞いてみたい。
「でもほんと、すごいね、レイ! ちょっと尊敬しちゃうかもー」
「あ……ありがとう」
すごい、か。あんまり、自分ではすごいと言えるようなことをやった気はしないんだけどね。
個人的には「かっこよかった」、って言って欲しかったなぁ。まぁ、いいか。
「あれー? レイ、ちょっと照れてる?」
「照れてない!」




