1.小悪魔系ハンバーガー女子
K県Y市、遊漁町。
東京湾に面したこの町の中心部は、Y市の行政や商業の中心と言ってもいい。
行き交う人々はサラリーマンや家族連れ、三連休で町に繰り出してきた学生たちが多いが、中にはアメリカ人も多く見かける。
デパートと一体になっている『遊漁中央駅』の東口から出ると、目の前にはY字のデッキが広がる。そのデッキの手すりの側で、篝火玲児はデッキの下の光景を眺めながら人を待っていた。
デッキ下ではイベントをやっているようで、ここの海で採れた魚や貝を売っているようだ。何人か通行人が足を止めて、物珍しそうに店先を覗く。
玲児はスマートフォンを取り出して、時計を見た。時刻は十一時十五分、約束の時間より十分オーバーしている。
あいつが時間に遅れてくるなんて珍しい。大体先に着いて待っているか、待ち合わせ場所に行く途中で合流するかのどちらかなのに。
まさか、と嫌な予感がして駅側へ顔を向けた。
あいつが普通にやってくるなんて、今まで一度もないはずなのに!
その時、つつーっ、と首筋に虫が這うようなくすぐったい感覚が襲い掛かってきた。
「うっひゃう!」
たまらず、玲児は飛び上がりながら、男らしくない甲高い声を上げてしまった。周りの人がびっくりして視線を集める。直後、「あははー」と、間延びしているものの痛快な笑い声が聞こえた。
改めて駅の入口の方面へ顔を向けると、目の前に玲児より一回り背が小さい少女が立っていた。
紺色のキャップを被っており、シンプルなコットンシャツにジーンズといういで立ちだ。
柔らかそうな栗色の長い髪の側面を、後頭部にまとめており、後ろで1つに結んでいる。いわゆるお嬢様ヘアーだ。
そして、子供と大人の狭間にあるような、美しさとかわいらしさが同居したような顔立ちである。だけど、バカみたいに大きく口を開けているせいでそれらすべてが台無しになっている。
「隙だらけだよ、レイー」
けらけらと笑う雫と呼ばれた少女を、玲児は顔を赤くしながら睨みつける。
「やっぱレイってかわいー。顔真っ赤にしてー」
「雫、お前……」
もう何度目だろう。こうやって、首筋を触られて変な悲鳴を上げたのは。少なくとも百回は優に超えただろうか。
ふと、指を一本立てた右手に目をやると、水膨れのような小さな傷跡が見えた。幼い頃、海水浴中にミノカサゴに刺された傷だ。
急に雫は笑い声を止めると、見慣れたニュートラルな笑顔に戻った。
「久しぶりだねー、レイ」
「久しぶりって程でもないと思うけど」
二人が通っていた中学校を卒業し、高校生としてスタートを切ってから約二週間とちょっと。
確かに、放課後はよく一緒に帰ったり休日は遊んでいたけれども、玲児の時間の感覚としてはそこまで長く感じなかった。
だけど、言われてみれば今の雫はなんだか新鮮で、なんというか……すごくドキドキする。
「あたしにとっては久しぶりなの」
「ああ、そう」
口ではそっけなく言うけれども、玲児は目線を逸らして顔が赤くなるのを隠した。
「顔赤いよー」
返事が出来なかった。うるさい、急にそんなことを言われたら恥ずかしいのは当たり前だろ。
玲児はなんとか話題を逸らそうと会話の糸口を探した。
「それより、これからどうする?」
「んー……」
雫は視線を上に向け、人差し指を薄紅色の唇に当てて、わざとらしく考える仕草をとる。
「じゃあお腹すいたから、ハンバーガー食べに行こっかー」
「やっぱそれか」
雫が言う「ハンバーガー食べに行こう」は、特撮でいよいよ悪役にとどめを刺す際に放つ必殺技を叫ぶのと同じ「お決まりのセリフ」だ。久しぶりという割にはほとんど変わっていない。
行き先が決まると、先に雫が歩き出した。その背中を追うように、レイも動いた。
この町は横浜や東京と比べると、ハッキリ言って田舎だ。海沿いの町だけれども、横浜に比べて大きな繁華街と呼べるようなところはこの駅周辺くらいのものだ。人口も圧倒的に少ないし、今では空き家も問題になっている。
それでも、この遊漁町では外国人……それもアメリカ人をちらほら見かける。もちろん、観光目的、というだけじゃない。この町に昔から住む人にとってはなじみのある光景である。これは、在日米軍基地があるからだ。
この米軍基地周辺には、「米兵通り」と呼ばれる遊漁町のメインストリートに相当するような場所がある。
二色の長方形の敷石で舗装された道の両側には、英語と日本語が入り混じった文字で書かれた看板が目印のバーや雑貨屋が多く目につく。
日本とアメリカの文化が融合したような不思議な街道を、玲児と雫は並んで歩いていた。右を向くとミリタリー専門店、左を向けばジャンパーの専門店が目に入る。
二人はまっすぐ、『SAZANAMI』と書かれた看板のバーガーショップに入った。
休日というだけあって、日本人の観光客や、アメリカ人――それもベースから出てきた米軍の関係者だろう――が、席に座って日本語と英語が飛び交う中ハンバーガーを頬張っていた。
「わぁー、やっぱり混んでるねー」
雫は目を見張りながら、ギザギザにカットされた前髪に隠れたおでこに手を置いて店の中を見渡す。独特の熱気と肉のにおいが充満していて、玲児の空腹を刺激する。
「まぁ、人気の店だもんな」
親子三代で約五十年以上経営している、バーガーショップの老舗だ。この米兵通りでも屈指の人気店である。行列ができていないだけ、まだましな方である。
「いらっしゃいマセ、タダイマ席が埋まってマスので、メニューを見ながらお待ちくだサイ」
「はーい」
白い肌に金髪の若い男性店員が片言でメニュー表を雫に渡してきた。店先で、玲児と雫は渡されたメニュー表を覗いた。
「ねー、レイはなに食べるー?」
「え? 雫はもう決めたのかい」
「うん」
早い!
メニュー渡されてからコンマ一秒ほどなのに。
前にもこの店は来たことがあるとはいえ、メニューを決めるのが早すぎである。
「どうすっかなぁ」
そう言って、玲児はメニュー表とにらめっこを始めた。
メニューにはスタンダードなハンバーガー、チーズバーガー、ベーコンエッグバーガー、パティが二つ重なったダブルバーガー……etc
それぞれレギュラーサイズの二百二十七グラムとクオーターサイズの百十三グラムがある。サイズだけで値段が三百円以上も違う。
さらに、パティやエッグ、レタスなど追加してオリジナルのハンバーガーも作れてしまう。そっちも割と魅力的である。
とはいえ予算の問題だってある。また次にここに来るのはいつになるかわからないし、うーん……。
「んー、まだ決まらないのー?」
「ああ、ごめん。何食べようか迷っちゃってさ」
かれこれこんな形で三分ほど考え込んでいると、雫もしびれを切らしたようで玲児に話しかけてきた。
「こーゆーのはどうかな」
雫が指さしたのは、チキンとフィッシュのタコスだ。メキシコ料理か。
「悪くないけど、ここはハンバーガー店なんだからハンバーガー頼みたいなァ」
「じゃあコーラとか」
「ドリンクだけ頼んでどうするんだよ」
「チーズケーキは?」
「それはもうデザートだろっ」
「レイが決めないのが悪いじゃん」
「うっ……」
さらに、いつもの事だけど、と付け足された。
ごもっともである。反撃しようとしても、正論をぶつけられて何も言えない。
そこで雫が出した提案は、
「じゃああたしとおんなじのにすれば?」
「……え」
「決まらないんでしょー」
「ああ、まぁ」
「じゃあ決まりだね」
雫は玲児からさっとメニュー表を取り上げると、それを隠すように両手を後ろに回した。玲児がメニュー表を持っていると、また考えを改めようとするからだろう。
そこでタイミング良く席が空いたようで、先ほどの定員が玲児たちを呼んだ。玲児たちは店の中に入って席に座ると、さっそくメニューを頼むと、数分で運ばれてきた。玲児も雫もレギュラーサイズのチーズバーガーだ。
ただ、それでも本場のモノというだけあって、普通のファーストフード店で売られているハンバーガーと比べるとサイズが大きい。ナイフとフォークを使わなければ口に運ぶことすら難しいだろう。
「いただきまーす」
雫はナイフとフォークを使って大きく口を開けて、ぱくりとハンバーガーを頬張り始めた。ケチャップとかパンくずが口元にくっついているけれども、それがかえって子供っぽくて可愛らしい。ちょっと見とれてしまった。
……なんか、改めて雫を見ると緊張する。身体の内側がこそばゆくなって、落ち着かない。
「ん、レイは食べないの?」
「え? あ、食べるよ」
玲児もチーズバーガーに手を伸ばしてひと齧りした。さすが、米兵通りの人気店の出すハンバーガーだけのことはある。ハンバーガー特有のこってり感が、そこらのファーストフード店のものとは全然違う。
「ねー、今さっきあたしの事見てたでしょー」
「へっ?」
「ハンバーガー、食べないでこっちをじーっと見てたでしょ?」
雫がニュートラルな笑顔のまま言ってた来た。
どきりと心臓が跳ね上がって、玲児は頭を振った。
「見てないって!」
「へぇー? ほんとかなぁー?」
「違う!」
「ふーん」
一瞬、雫は口元をいたずらっぽく吊り上げると、再びフォークを使って大口を上げてハンバーガーを食べた。玲児はなんだか恥ずかしくなって、雫から顔を背けながらハンバーガーを少しずつ齧った。
「レイ、姿勢悪いよー」
「……」
誰のせいだと思ってる、と心の中で呟きながら、玲児は元の姿勢に戻した。それでも赤面していることを悟られないよう、うつむきながら食べる。
「やっぱり、レイってかわいいよねー。恥ずかしがってると、ついいじりたくなっちゃうもん」
ニコニコ笑いながら、ハンバーガーを食べ終えた雫は頬杖をつきながら玲児を見つめた。
……やっぱり、雫には敵わないや。
雫とは、幼稚園に通っていた頃、たまたまスイミングスクールで一緒に学んでいたころから続く縁だ。
そのまま一緒の小学校、中学校と進級していったのだが、いつからか、雫が積極的に玲児をいじくり倒すようになってきたのだ。
弱点である首筋をくすぐられるのはもちろん、授業中先生に指摘されて困ったとき嘘の答えを教える、寝てると落書きされる……などなど。
それが決まると、テレビでリアクション芸を見ている視聴者よろしく彼女が笑うのが常だった。
瀧川雫という少女は普段、間延びした口調やしぐさでのんびりしている印象を持つが、その実、質の悪い小悪魔系ハンバーガー女子なのだ。
玲児も中学生のころはなんとか躍起になって反撃を試みた。だが、どれだけやっても、雫には絶対に敵わない。
テストの時も体育の時も、遊ぶ時も、いつも彼女の方が一歩も二歩も先に行っている。そしてさっきくすぐられた時のように「かわいい」と言われて笑われるのだ。
そして、玲児はそんな雫を見ていると胸がときめいてしまうのか、不思議でしょうがなかった。
最初、この気持ちに気付いた玲児は「俺ってMなのか?!」と思い、家で試しにズボンのベルトで上半身裸のまま背中を何度か叩いた。
結果、普通に痛くて二度とやるまいと誓ったので、Mという線は外れた。
だけど、なんだろう、この気持ち。
もっと、こう、雫とは対等な立場になりたい。信頼されたい。認められたい気持ちが玲児の中に渦巻いていた。
『かわいい』ではなく、『かっこいい』って言われたい。どうやったら雫に認められるんだろう。
そうした気持ちをずるずる引きずったまま、中学校を卒業した。
玲児はそのまま市内にある公立の高校へ、雫は父親の研究を継ぐという目標のために私立の女子高を通うことになった。
このまま離れ離れになったまま、こうしたイジりイジられる関係は終わる……はずだった。