14.終わりと始まりの場所
真おじさんが仕事を終える時間は、二人の雫によれば仕事が終わって帰ってくるのはいつも九時から十時だそうだ。というのも、ホイールの実験で試行錯誤をしたり、ミーティングが長引く理由、と未来の雫は語った。
研究所のそばでじっと待っていると、ふらりと目まいを起こしたように、未来の雫が倒れそうになることがあった。玲児は未来の雫の肩を貸してあげながら、心の中では、本当に未来の雫には時間が残されていないことに胸騒ぎを覚えていた。
一方で、未来の雫は、父親に自分のことを伝えられるのか、まだ不安をぬぐい切れていないところがあったようだ。表情から、なんとなくそれを窺い知れた。
「大丈夫、俺たちがついてる」
「レイ……」
玲児が勇気づけると、未来の雫は笑顔を取り戻せた。
だが、今の自分たちに出来ることと言えば、早くおじさん出てきて欲しい、どうか間に合ってくれ、と玲児たちは心の奥底で一心に祈るしかなかった。
その祈りが通じたのか分からないが、未来の雫が玲児たちの説得に応じて、十五分ほど――七時半過ぎに、退社する社員たちの姿に混じって、スーツ姿の真おじさんが出てきた。
「お父さん……」
未来の雫が、空いている左手で口元を抑えた。
「髪が白くない……お父さんだ」
駅への方向を歩いていく真おじさんへ、三人そろって近付いた。ちょうど立ちふさがるように現れたので、玲児たちの登場に「おおうっ」と真おじさんはちょっと身を引いて驚いた。
「雫に玲児くん!? それに君は咲良さん? こんな時間に外でどうしたんだい? 咲良さんも、病院にいなきゃダメじゃないか!」
既にこの時代の雫から話は聞いていたのか、真おじさんの目が大きく見開かれた。
「お父さん、ちょっと咲良の話を聞いてほしいんだ」
「え?」
真おじさんの見開かれていた目が、パチパチと三回ほど瞬いた。
玲児たちはさっき未来の雫を説得させた小さな公園に真おじさんを連れて行った。
正直、真おじさんが咲良を未来の雫と分かってくれるのかは賭けに近い。それも、さっき未来の雫よりも先回りして真おじさんの殺害を防ぐよりも、成功できるという自信がない。
真おじさんとは親戚や雫を除けば付き合いが長い人物ではあるものの、彼が未来の雫の言葉を信用するかどうかは、ハッキリ言って先が読めない。だけどここに来て失敗なんてして欲しくない。
「それで、話とは何だい? 私を出迎えて、ここで話すなんて、相当大事な話みたいだね」
「実は……」
現代の雫が話を切り出そうとする。それを玲児が手で制した。ここまで来たら、まどろっこしいことは抜きだ。
「雫、遠回しなことはやめよう。先に、おじさんに確かめてもらうんだ」
「確かめるって、何をだい」
玲児は未来の雫に促して、真おじさんの前に立たせた。意を決する三人に対して、まだ状況が飲み込めない真おじさんは困惑しているようだった。
「咲良、おじさんと目を合わせて。顔伏せていたらきっと分からないだろ?」
うつむき加減だった未来の雫は、まだどこか「信じてもらえない」という気持ちがあるのだろう。だけど、それじゃあ伝わるものも伝えられない。
未来の雫は言われた通り真おじさんと目を合わせた。そして、
「おとう……真さん。あたしのこと、分かりませんか?」
「分かるって言われても、初対面ではないだろう。病院で一度、顔を合わせているじゃないか」
「お父さん、咲良の顔をよーく見て」
「見るって……」
雫の真剣な訴えに、真おじさんはしぶしぶ応えるといった形で未来の雫の顔をまじまじと見た。
何かに気付いたのか、真おじさんの表情が動いた。いや、恐らく病院で会ってから何か察してはいたのだろう。ただ、玲児と同じような違和感を抱いていたのだろう。そして、その違和感が、消えようとしている。だが、心が目の前の現実をまだ受け入れられていないのだ。
そこへ未来の雫が後押しした。
「覚えてる? あたしが七歳の頃、菩薩崎の海で泳いでいた時にミノカサゴに刺された時、慌てて救急車を呼ぼうとしちゃったこと。本当にあたしのことになると、あわてんぼうだよね」
すると、真おじさんの目が再び見開いた。今度は目玉が飛び出そうな程だ。
「まさか、そんな!」
「本当だよ」
「だけど……ああ、でも……」
真おじさんは弱々しく笑いかける未来雫の痩せた頬に、そっと手を掛けた。
「あり得ない。だって、そこに……」
と、真おじさんはもう一人の――現代の雫を見た。こっちの雫も真おじさんに笑いかけながら、
「あたしは本物だよ。だけど、そっちも本物なんだ」
「それはどういう意味なんだ? いや……それでも……」
もう一度、真おじさんは未来の雫を見やった。
信じられない、だけどこれがれっきとした事実だ――顔にそう書かれながら、真おじさんは声を絞り出した。
「雫、なのかい?」
「……お父さん」
今度は悲しみに満ちた赤い涙ではなく、透明な涙が未来の雫の頬を伝って、真おじさんの手に当たった。
「お父さん……会いたかった……」
とどめのように、未来の雫の中で溜まり、渦を巻いていた感情が爆発して、泣き出して真おじさんに抱き着いた。
未来の雫がひとしきり泣いて、落ち着いた後、今度は真おじさんが落ち着く番になって公園のベンチに座って、なにか悩みぬくように頬杖をついて考え込んだ。
無理もない、玲児ですらまだ実感がわいていないのだから、実の父親である真おじさんなんてもっと混乱しているに違いない。
「まだ百パーセント信じられるわけじゃないけれども……どうして雫は二人いるんだい。そっちの咲良さん……いや、白い髪の雫は何者なんだい?」
「あたしは……四年後の未来から来たの」
「四年後……?」
未来の雫は目元に残った涙を指でふき取り、落ち着きを払いながら未来の話をした。真おじさんが研究中のホイールが二年後に完成して、それが元で戦争が起き、そして廃棄物のせいで白衰病が生まれ、人類が滅亡してしまうことを、包み隠さず明かした。
話が進んでいくうちに、真おじさんの目に困惑と驚きが浮かんでくるのが分かった。腕を組んだかと思えば、口元を抑えたり――声を荒げたりしなかったけれども、ギリギリで冷静さを保っていると言ってもおかしくはなかった。
そして最後に、自分が真おじさんと、おじさんと知り合ったという海外の物理学者と協力してホイールを使ったタイムマシンでこの時代に来たところで締めくくった。
「あたしは――止めなきゃいけなかった。お父さんが人生をかけてやろうとしていることが、争いを生み出してたくさんの人の命を奪ってしまう未来には、したくなかった」
そこで言葉を切って、三人とも真おじさんの出方を窺った。真おじさんは、すぐにため息を吐いて口を開いた。
「どうかしているよ、君たちは。バカも休み休み言ってくれないか」
「お父さん!」
「……って、言いたいところだけれどもね。正直、まだ混乱しているけれども、君の話を信じてみようと思う」
「えっ……?」
「まずは君から預かった防護服だよ」
真おじさんは人差し指を未来の雫の前に出して説明した。
「『SAKURA』の作る防護服はね、あの会社が特許を取った特殊な繊維と構造で出来ているんだ」
あまり詳しいことは向こうが企業秘密の一辺倒で詳しいことは聞けなかったものの、未来の雫が持っていた防護服は、『SAKURA』に預けて調べてみたところ、同じ技術で作られていたものと判明した。つまり、外国の模倣品ではなかったのだ。
だが、同時に『SAKURA』が販売している、あるいは販売を終えた防護服のリストに掲載されておらず、真おじさんも『SAKURA』の人たちも首をひねるばかりだったのだ。
「本家おおもとの会社が作っているんだ。そこでも分からないとなると、秘密裏に作った新製品かもしれない。だけど、そんなものを『SAKURA』とは縁もゆかりもない人が持ってるはずがないしね。本当に君が防護服を持っている理由が分からなかったんだよ」
「でも、もしたまたま持っていたとしたら? 偶然っていう線はないと思わないんですか?」
「そうじゃないのは君自身が一番よく知ってると思うよ」
と、真おじさんは未来の雫に笑いかけた。だけど、玲児も雫も、言葉の意味がさっぱり分からないので、首を傾げた。
「お父さん、それってどういうこと?」
「きっと――これのことだよ」
未来の雫は、ポケットから、誕生日プレゼントであるハンカチを取り出した。ハンカチを初めて見た雫は、驚愕の表情に変わった。
「それって、あたしがレイから貰った……!」
雫も、デニムスカートのポケットからビーグルのハンカチを取り出した。まだ新しく、使い込まれているようには見えなかった。文字通り、本当に大切に使っているのだろう。
「そう、白い髪の雫が持っていた防護服の裏に、それが縫ってあったんだよ。検査するうえで邪魔だったから、丁寧に外して、返したんだ」
そういうことか、玲児はひとつのことを思い出して納得した。あの防護服の縫い目はやぶれた箇所を縫い合わせたんじゃなくて、ハンカチを裏打ちしていたのか。
「あたしにとってこれは、レイから貰った大切なプレゼントで、お守りだったから……ずっと持ってたんだ」
「お父さん、どうしてそれをあたしに黙ってたの?」
現代の雫が口を尖らせた。
「いや、普通は偶然と思うだろう」
「だけどそのおかげで、咲良さんが未来の私の娘と信じる一つのきっかけになれたからよかったじゃないか」
その通り、と真おじさんは玲児の言葉にうなずいて中指を立てた。
「二つ目は、ホイールの開発が難航している理由の一つに廃棄物が挙げられるからだ。廃棄物をどう処理するか――これは模索中なんだけどもね。二年後にはどんなことがあったのかか知らないけど……その問題が解決しないまま、完成を発表しちゃったようだね」
「あたしも詳しいことは分からなかったけれど……」
なんでも、開発の資金を提供している国の都合で、廃棄物の処理が決まらないまま世に出してしまったのだという。
その理由は、既にホイールが永久機関としての構造が完成しているのに、廃棄物の問題で手をこまねいているところを政府が見かねて、ホイールを世に出してから考えればいいという楽観的な対応を取り始めたのだ。
もちろん、未来の真や研究者たちは反対したものの、国は研究のために支援した資金を取り戻すために未完成のまま世に送り出してしまったのだ。
「バカみたいだ」
玲児は吐き捨てた。早く利益を得たいがために自分勝手な都合で、未完成のホイールを世に出した結果、人類が破滅してしまったなんて。本末転倒もいいところだ。
「今に始まった事ではないよ。玲児くん。原子力然り、廃棄物の処理が決まらないまま、電力の供給を続けてしまうことだってあるんだ。問題は、その廃棄物とホイールの廃棄物を同じように見てしまった事だね」
なるほどなぁ、やっぱりそうなっちゃうよなぁ、と頭を抱えるように真おじさんは姿勢を治しながらつぶやいた。
廃棄物の毒性については、ある程度真おじさんは想定していたようだ。
「そして最後の三つ目が――」
真おじさんは薬指を立てると、未来の雫に近付いた。
「君が、僕の娘だからだよ」
未来の雫の双肩に、そっと両手を乗せて同じ目線に立ちながら、優しくそう言った。
「未来から来たって、髪が白くなっても変わらないよ。娘の命を懸けた言葉を信じてやれなくて何が親だというんだ」
「お父さん……」
「未来の僕に代わって、謝らなきゃね。本当にごめんよ、僕が甲斐性無しなせいで、君をこんな風にさせてしまった」
「ううん、お父さんの所為じゃない……。それにあたしだって、未来を変えるためにお父さんの命を奪おうとしてた。レイと過去のあたしがいなかったら、きっと――」
「僕を殺すだって? ああ、そういうことか。……そうだよね、君の言う凄惨な未来からやってきて、過去を変えようとするなら、自然とそうなっちゃうよな。でも、そんなことはもうしなくていいんだよ」
未来の雫は頷いて、一度玲児たちへ振り返った。玲児も雫も、無言で笑いながら返答した。
再び未来の雫は真おじさんへ向きを戻すと、少し深刻そうな苦い表情を浮かべていた。
「だけど雫……ホイールの研究は、もう止められるものじゃないんだ。プロジェクトに、莫大な予算と多くの人が関わっているからね。君が未来からやってきて僕がこの話を他に伝えようとしても、あくまで世間や周りの人たちは『一人の少女の与太話』としてしか受け取らないんだ」
そうだ。真おじさんが信じても、他の関係者がその話を信じるとは限らない。研究を止めるどころか、一笑に付されて無視されることも十分ある。もちろん、それを分かっていない三人ではない。
「だけど、ホイールの生み出す廃棄物が、人や環境にどんな影響をもたらすのか、君は教えてくれた。ホイールを巡って戦争が起こるという事実を教えてくれた。必ず、僕らはそうならないように全力で行動してみせる。君が教えてくれた警告は、絶対に無駄になんてさせない」
未来を、必ず変える。
真おじさんのこの言葉に、玲児も現代の雫も頷いた。
未来の雫が託した警告と供に。
「……ありがとう、お父さん」
未来の雫は真おじさんから離れると、今度は身体も完全に振り返らせて、玲児たちと向き合った。
「ありがとうレイ、もう一人のあたし」
「いいってことだよ。なにより、困っている雫を放っておくわけにもいかないだろ」
「自分自身にお礼を言われるのも変な気がするけれどもねー」
「でも、俺の言った通りだっただろ?」
と、玲児は胸を張りながら真おじさんへ視線を移した。
「おじさんは必ず君のことを信じるって」
「カッコつけてるけどお母さんの受け売りでしょー」
痛いところを突かれて顔を赤くすると、最初に未来の雫が「あはは」と吹きだし、続いて現代の雫が、最後に真おじさんも笑い始めた。そんな光景を見ていると、玲児も恥ずかしい気持ちと供に、自然とうれしさがこみあげてきて、顔がほころんできた。
笑い声が収まった後、未来の雫は目を細めてもう一度、玲児たち三人を見ると、
「これでやっと未来が変わる……。本当に、よかった」
安堵したように笑みを浮かべて――未来の雫は糸が切れたように崩れ落ちた。
「雫!」
慌てて、玲児はすぐにしゃがんで未来の雫を抱き起した。その顔は月よりも青白く、口元から血がこぼれていた。
まさか――。
「すごくいいタイミング……。そろそろ、お迎えが来るみたいだね」
発作が始まったのか。みんなの顔から血の気が引く。
「きゅ、救急車を呼んだ方が――」
真おじさんの言葉に対して、微笑みながら未来の雫は首を横に振った。
「それより……最後に海が見たいな。レイ、どこか……浜辺に連れてって」
「わ、分かった」
「浜辺なら、ここから東の方向に行けばあるはずだよ」
玲児は未来の雫をおぶって公園を出ていこうとした。現代の雫と真おじさんもついて行こうとすると、「待って」と未来の雫が止めた。
「ごめんなさい、お父さんと過去のあたしは……ここで待っててほしいんだ。レイと、二人っきりで話がしたいから」
どうしたらいいのかオロオロと慌てふためく過去の自分と過去の自分の父親をたしなめるように、未来の雫は言葉を続けた。
「もう一人のあたし……あの時は怒ってごめんなさい」
「え?」
「あの時は、本当にいつ最後の発作が起きて分からなかったから……余裕がなかったんだ。あなたが正しかった。誰かを犠牲にして得る未来を手に入れても、自分が浮かばれなきゃ、意味がないもんね」
「あたしは――」
今にも泣きそうになりながら、雫は首を横に振った。そんなことない、そんなことないよ、と言いたそうに。
「お父さんの事……よろしくね……きっと、あなたの助けが必要になってくるから」
「うん、任せて……」
「お父さん……」
たっぷり一呼吸ほど、未来の雫は間を置いた。言いたいこともたくさんあるに違いない。
「元気でね」
未来の雫はこの一言にあらん限りの気持ちを詰め込むように、ゆっくりと伝えた。そして、おぶる玲児を促して公園を出て行った。
真おじさんの言う通り、海沿いに東側へ歩いていくと砂浜が見えてきた。玲児はこの砂浜には見覚えがあった。確か小学生の頃、母さんに連れられて大きな公園に遊びに行ったときによく見かける浜辺だ。
未来の雫は、大きな羽毛でも抱えているかのように軽かった。あまり力のない玲児でも、ほとんど身体への負担が無い。
「雫、着いたよ」
「ん……ありがと」
雫が伏せていた顔を動かして、海を眺めた。
「大丈夫?」
「平気……。前の発作なんかと比べると、全然痛くないよ。それより……ちょっと砂浜歩かない?」
「分かったよ」
玲児は足元に砂の柔らかさを感じながら歩き始めた。
夜の海は、昼とは違っていて神秘的で不気味な雰囲気がある。どこまでも潜っていけそうな暗い青色の水平線の向こうには、街の光が瞬いていた。夜空には月がこの暗い海と玲児たちを照らしていた。
唯一静寂を破っているのは、聞いているだけでリラックスしてしまいそうな波の音だけだ。
「レイ……びっくりさせちゃったね」
「……いいよ、さんざん雫にはびっくりさせられちゃったし」
しばしの沈黙。
それを未来の雫の言葉が破った。
「……あたしね、記憶を取り戻したとき、どうしてこの時代へやってこれたんだろうって思ったんだ。やっと、分かった気がする」
と未来の雫は続けた。
「きっと、最期にもう一度、みんなとの思い出を振り返って、自分にとって大切なものを思い出したいっていう気持ちが、この時代を引き寄せたのかもしれない」
最期なんて言うなよ、そう言いたかった。
だけど、もう心の中では分かっていた。この時代の雫も、真おじさんも、未来の雫自身も、きっと覚悟している。だから、その言葉を必死に喉の奥に押しとどめた。言ってしまえば、その覚悟を鈍らせてしまうから。
「おかげで、間違いを犯さずに済んだよ。本当に、ありがとうね、レイ」
「……俺は」
「ねぇ……レイ、どうしてあたしが海に行きたいか、分かる?」
「……海に行きたかったから?」
ほとんど反射的に答えると、クスクスと笑いながら、
「間違ってないけど、なんかありきたりだねー」
「うるさいな」
こんな時まで俺をイジろうとしてくるのか。まるでビーグル犬の食欲みたいだ。
「……おばあちゃんの葬式で、お経をあげてくれたお坊さんが言ってたんだけれども――」
ぽつりぽつりと未来の雫は過去の話を始めた。確か雫の祖母は、二年ほど前に亡くなった話を現代の彼女から聞いた気がする。
それにしてもこれから自分が死のうって時に親戚の葬式の話をするなんて、未来でも掴みどころの無さは変わっていないんだな、と玲児は思った。
「人生はね、川みたいなものなんだって。流れが緩やかだっり激しくなったり、綺麗になったり汚れたり、最後に行き着くのが、海なんだって」
「でも海は、母なる海とも言うよな」
生命の始まりは海である。よくそんな話を歴史や生物で聞いたことがある。
「不思議だよねー……。普通は生命の象徴と言われる海なのに、死に喩えるなんて」
まるで終わりと始まりの場所だね、と未来の雫は言った。
でも、この海を見ていると自然と説得力はある。この暗い海は、これから未来の雫が行こうとしている。それこそ、今ここで旅立とうとしている未来の雫を、優しく迎えに来た死の世界の入口のように、玲児は思えてならなかった。
「そんなところで最期を迎えるなんて、けっこーロマンチックでしょ」
「……そうだな」
それから再び二人は黙って、海を歩いた。少し経って、また未来の雫が口を開いた。
「……あたしね、ひとつだけ後悔してることがあるんだ」
なに、と言いそうになったけれども、未来の雫が更に続けた。
「レイは、この時代のあたしのこと……好きでしょ」
玲児はいきなり、心に秘めていたことを見抜かれて驚いた。しかも、「好き?」じゃなくて「好きでしょ」と完全に断定していた。
「未来で、レイが死んじゃった事はもう話したよね」
「ああ、うん」
「レイも……あたしのように髪が真っ白になって死んじゃったんだけど……死ぬ間際になって、あたしのことがずっと好きだったって言ってきたんだよ。でも、あたしが返事を言おうと思ったら、もう死んじゃってたんだ……」
ずるいと思わない? 一方的で、と未来の雫は口を尖らせた。
「今まで主導権を握ってきたのはあたしなのにー……ここに来てしてやられたって感じ。ねえ、どうして今まで黙ってたの?」
まるで今ここにいる自分が、未来で死んだ篝火玲児に語り掛けているような口ぶりだ。玲児は少し答えに詰まった。自分はあくまでこの時代の玲児であって君の知っている玲児本人じゃないとか言い訳はできたけれど、やっぱり恥ずかしいからだ。
でも、今は自然と話そうとする気になった。
「告白する勇気がなかったからだよ、俺は。優柔不断で、すぐ引きずるし……だけどせめて、最期だけは自分の気持ちを伝えたかったから――じゃないかな」
「そっか……」
ちょっと納得したように返事して、未来の雫はまた口をつぐんでしまった。
玲児は未来の雫の話を聞いて、あることを思いついた。だけど、それを俺がやっていいのか。本来は未来の自分が聞く権利を持っているんじゃないか、そうした気持ちがわいてくる。
未来の雫から、返事を聞いていいものか。
だけど、仮に聞いたとして、その答えと同じことをあいつが言うとも限らないし、なにより、彼女の後悔を消してやりたい、という気持ちが勝った。
「ねぇ」
「んー?」
「……雫の返事、聞いてあげるよ」
「え?」
「未来の俺の代わりになれるかどうか分からないけど、せめて、雫の悔いだけは残したくないって思ったから」
「いいのー?」
玲児は頷いた。
「じゃあ、言うね」
あっさりと了承された。いいのか。いや、良いにしてもなにかしらイジってきたり、フェイントをかましてくると思ってたのに。
一呼吸おいて、未来の雫は口を開いた。
「……ぶっちゃけ、今のレイにあたしなんて役不足なんじゃないかなぁーって」
役不足……だと?
胸に、見えない槍が突き刺さるのを感じた。
「……あたし、レイのこと弟のように見ていたんだ。分かりやすくて、明るくて、優柔不断で、……そんな男の人の恋人になんてなっちゃったら、ずっと気苦労が絶えないでしょ」
分かりやすくて、優柔不断、気苦労が絶えない、未来の雫の口から出てきた言葉が、次々と槍になって玲児の心をグサリと刺し貫いていく。ああ、もう駄目だ。言ってること、間違ってないしなぁ。
「……だから」
「え?」
「だから、これからあたしに似合うくらいの男にしてあげるね」
この期に及んで、しかもそんなこと言ってくるなんて――。
でも、雫らしい返事で、なにより嬉しい。
「お前……なぁ」
「ふふ……こうでなくちゃ。だってレイには、あたしがいてあげなきゃダメだもん」
最後に未来の雫は、かすれ声で紡いだ。
「……こういうの、いいよね」
「だね」
すると、首筋が無性にくすぐったくなった。身体がゾワゾワしてくる。間違いない、雫がくすぐったんだ。玲児の奇声が夜の砂浜に響く。
「雫! あ、危ないじゃんか! 落ちちまうよ!」
だけど、未来の雫は、返事をすることはなかった。
「……雫?」
さっきから玲児の肩を掴んでいた雫の手の力が、無くなっていた。
玲児はそっと正座して未来の雫を膝枕させると、いたずらを成功させたあの意地悪な笑みのまま、雫はこと切れていた。
遊漁町の海へ還っていった未来の雫の頭を、玲児は潤んだ瞳のまま、いつまでもいつまでも撫でていた。
そして語り掛けるようにつぶやいた。
もう大丈夫だよ、雫。だから、ゆっくりお休みなさい。




