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雫、あのね  作者: やきにく
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9.夏祭りの始まり

 ぎらついた太陽の光が、西に傾きかけながらも容赦なく遊漁町を照り返している。もうあと数時間もすれば空に夜の帳が降りるのに、まだまだ照らし足りないとでも言いたげに。


 それでも、暑さに負けないよう遊漁町に住む人々は、大人も子供も関係なしに港に集まって祭囃子を奏で、神輿を担ぎ、祭りを盛り上げている。既に屋台も立ち並んでいて、祭りに参加した人たちは存分に楽しんでいることだろう。


 玲児は心の奥底に沈んでいる葛藤を感じつつも、祭りの会場から離れた聖ジョージ病院への坂道を登っていた。


 雫は後から合流する。先に咲良を迎えに行ってから雫と落ち合うと言い出したのは玲児だった。


 元はと言えば自分が言い出しっぺだし、約束した以上、最後まで付き添ってやるのが道理だ。そう自分の胸に言い聞かせながら緊張を解きほぐして、咲良が待っている病室へと向かった。


 迷いは完全に晴れたわけじゃない。雫か咲良かどちらを選ぶか決めかねているし、咲良の体調だって実際のところどうなのか分からない。まだまだ引きずったままだ。


 だけど今は、咲良に夏祭りを楽しませてやることが大事だ。それが彼女の望みだし、それを自分が踏みにじる権利なんてない。


おかげで幾分か、覚悟を決められるようになった――かもしれない。


 病室のドアをがらりと開けると、果たしてそこには、私服に着替えた咲良がベッドで身体を起こしながら俯いて――いや、よく見ると、手に何か布のようなものを以て、それを眺めていたようだ。


「や、やぁ」


「あ……こんにちは、玲児さん」


 金色の目を細めながら、咲良は手に持っていたものをポケットに仕舞いつつ笑顔を振りまいて玲児に挨拶した。

 この笑顔を見ると、自然と温かい気持ちになれる。――だけど同時に、心の内側にフックでもひっかけられたような、奇妙な違和感もある。


「行く準備はもう出来てる?」


「はい。もともと身一つですし」


 ふと、咲良のいるベッドの近くにある棚を見た。もうあの防護服は戻ってきたのかな?

 玲児はベッドのそばに近付くと、咲良に手を差し伸べた。


「立てる?」


「え?」


 きょとん、と咲良が目を瞠って玲児を見た。だけど、すぐに何かを察したのか、口元の端を緩やかに曲げた。


「はい」


 そっと玲児の手を取ると、力を入れながら、咲良は立ち上がった。


 病院から許可されている外出時間は午後の九時までだそうだ。幸いなことに、花火が打ちあがるのは午後七時三十分から八時。一時間どころか三十分もあれば病院に戻ってこられる。


 バス停で祭りを催している遊漁港に向かうバスを待っていると、咲良が口を開いた。


「遠くで祭囃子が聞こえてきますね」


「え? そうかな」


 耳を澄ませても、毎年聞くあの楽しげな音は聞こえてこない。代わりに耳に入ってくるものは、車が走る音だけだ。そもそもここから祭りがおこなわれている場所まで数キロある。聞こえるはずがない。彼女の冗談だろう。


 咲良の身体の線は、この間よりもさらに衰えて細くなっていた。夕日を浴びて照り返す彼女の肌はやせ細った月のような顔だった。それでも、玲児たちと夏祭りに行けるのがとても嬉しいのか、頬に赤みが浮かんでいる。


「咲良……」


「ん……?」


 君はひょっとして病気なのかい、そう言おうとした。


 だけど、やめた。


「……いや、なんでもないよ」


「なんですか、それ?」


 おかしな人、と面白がる笑みが、咲良のこけた顔に浮かんだ。


 そう、これでいいんだ。これから祭りを楽しむんだ。暗くなりそうな質問なんて今はする必要がない。時が来れば、自然と彼女の口から教えてくれるだろう。


 やってきたバスに乗って港近くの駅前で玲児と咲良は降りた。他にいた乗客もぞろぞろと降りて、祭りの会場へと向かって行ったが、玲児と咲良は近くの駅前へと向かった。


 いつも玲児が通学で利用している駅の入り口前で、浴衣姿の雫が二人の姿を見ると軽く手を振った。


「おっすー」


「こんばんは、咲良さん」


 記憶を探しに繁華街や菩薩崎へ出た時と繰り返すように、雫は片手を上げてフランクに、咲良はぺこりと斜め四十五度頭を下げてあいさつした。


 玲児はこの間のやり取りを思い出して、つい身構えていると、雫は玲児に近付いて、


「なーにぼさっとしてるのー? 早く行こうよ」


 先頭を切るように祭りの会場へと向かって行った。

 ひょっとしたら、咲良を連れてきたことについてなにか言われるのかと思ったが、とりあえずは杞憂に終わったのか。いや、もしかしたら、咲良がいる手前言うわけにもいかないだけかもしれないが。


 港へ続く車道は、神輿や大灯篭の展示のために車の通行は禁止されている。そのため、広々と道路を人々が行き交っていた。車道の端では焼きそばやタコ焼きといった屋台が軒を連ねている。


「雫さん、浴衣お似合いですよ」


「ほんとー? ありがとー」


 雫はくるりと軽やかに一回転して見せた。ふわりと鮮やかなピンクの裾がはためく。


「咲良も言ってくれれば、浴衣貸してあげたのに」


「本当ですか? それじゃあ次の機会があればお借りしますね」


「うん、似合うの見繕ってあげるねー」


 咲良の浴衣姿か、と玲児は思った。

 今の咲良は、赤い花が目印の半袖のシャツに黒いズボンと、雫と比べれば地味な方だ。だけど、元々咲良は顔立ちがいいし、歩く仕草も丁寧なので、どこか上等なモノに感じてしまう。


 もし雫と同じ浴衣に着替えれば、きっと周りの人も振り返る、美少女コンビの誕生だ。こんなシャツと短パンだけの自分とは到底釣り合わないだろう。


「レイ」


 ふと、我に返ると雫の黒い目が玲児を覗いていた。ちょっとびっくりして、半歩のけぞってしまった。


「な、なんだよ」


「レイは見て思わないのー? あたしの浴衣姿!」


 わざとらしく腰と後頭部に手を当てて、セクシーにアピールする。

 毎年見せられているのに、見て思わないも何もないだろ、と昔だったら突っ込んでいたかもしれないけれども、今の玲児は、あまり雫を直視できなかった。


 裾が落ちて白い二の腕が見えてちょっと色っぽくて、まるで大人の色気と子供のあどけなさが残っているみたいだ。なんていうか……玲児の語彙力で言うなら『かわいい』、それに尽きるしかなかった。


 だけど、そんなことを玲児が言えるわけもなく……。


「いいと……思うよ」


 それだけ言って、雫を横切るしかできなかった。

 雫は何も言わなかった代わりに、どこか面白がっているような視線を、玲児の背中に突き刺してきたような気がする。


 改めて、玲児たちは子供から老人までたくさんの人とすれ違い、様々な屋台をのぞき見しながら港の方角を歩いた。


 道々雫は、毎年港近くでこの祭りの花火を見るけれども、迫力があって咲良にはぜひ見てもらいたいとか、子供の頃その花火の音でレイがびびって雫に泣きついたとか、だいぶ前に、この港で釣りした人が海坊主を見て大騒ぎになったとか、大昔、ここにアメリカ人が日本に開国を迫ったことが教科書にも載っているとか、真おじさんが防護服を調べてる様子を、あれこれ話してくれた。


 玲児はその様子を見守りつつ、時折雫が茶々入れようものならすぐに否定するように突っ込んだ。


 そんな中、あら、と咲良が目についたのは、いわゆるくじ屋だった。屋台の内側にある棚には、お菓子やゲーム機、エアガン、キラキラと絵が光っているトレーティングカードや小さな人形といったものが並んでいた。


「こういうのって外れるってわかっててもついやりたくなっちゃうんですよね」


「わかる。わくわくしちゃうもんねー」


 そう言って雫は後ろに幽霊のように立っている玲児へ振り返ると、


「ねぇ、三人でくじ引こうよ」


「俺はいいけど……当たるかなぁ」


「当たる当たらないの問題じゃありません!」


 びしっと咲良は玲児を指さして、宣言するようにつづけた。


「くじを引いた時のワクワクを、みんなで分かち合うことが大事なんですよ!」


「よく言ったねーオネエちゃん」


 三人のやりとりを聞いていた屋台のおじさんがヘラヘラ笑いながら褒めてくれた。雫もうんうんと頷いている。だんだん色々言うようになってきたなぁ、この子。


 玲児たちはお金を払うと、おじさんから差し出された三角形のくじの紙がたくさん入ったかごを差し出された。三人はそれぞれ一枚ずつ引く。


「はずれたー」


「あ、わたしもです」


 雫と咲良は、めくってひし形になったくじを見ながら声をそろえた。目線をやると、確かに紙には黒い文字で「はずれ」と書かれていた。


「レイはどうだったー?」


「これから引くところだよ」


 せかす雫をたしなめつつ、玲児は彼女たちの視線を感じながらぺりっとくじをめくった。


 玲児がめくったくじの白い紙の上には「あたり 三等」と書かれていた。


「あ、当たった」


 玲児の代わりに、雫がつぶやいた。なぜか反射的に咲良と玲児が同時に頷いた。

 生まれて初めてかもしれない。こういった夏祭りでくじで当たりを引くなんて、珍しいこともあるもんだと思うと頬が熱くなった。


 さっそく玲児はくじをおじさんに見せた。


「おじさん、当たりましたけれど」


「おっ、すごいね君―」


 じゃあこの中から一つ持ってってねー、とおじさんが玲児に差し出したのは小さなおもちゃがたくさん入った箱だ。


 人形のような消しゴムから、昔小学生の頃によく旅行先で買った剣や竜のキーホルダーと、昔からよく見たおもちゃがある中で、玲児はひとつのストラップに目を付けた。すると直感でこれだ! と思ってそれを選んで手に握った。


「レイ、何を選んだの?」


「ああ、これだよ」


 玲児が貰ったものは、ビーズのストラップだった。ひび割れ加工の入った赤、青、緑の三色のガラスビーズと、涙のような形をした深青のビーズが一つくっついていた。あちらこちらにある屋台の電灯や、街の灯りに向かってかざすと、本物の宝石のように煌めいて綺麗だ。


 あぁでも、もしプレゼントするにしてもどちらか片方だけなんだよなぁ。どうしよう、今更直感で選んだことを後悔した。


 どうしようかと考えていると、雫と目が合った。雫はチラチラと玲児と咲良を交互に見ていた。


(咲良にあげちゃいなよ)


 と、目線でそうサインしているのはすぐに分かった。

 本当はどっちにもあげたいけれども、そんな欲張りな結果にするにはまたくじを引いて三等を当てなければいけないので、大人しく雫のアドバイスに従った。


「咲良、これあげるよ」


「えっ? いいんですか?」


 咲良は差し出された掌の上に乗っているビーズのストラップと、玲児の顔を見て目を瞠った。


「でも、わたしなんかより雫さんの方が……」


「いいのいいのー、別の機会に玲児からハンバーガーおごってもらうからー」


「あ、あのねぇ……」


 一度咲良は雫を見やると、今度は「受け取っちゃいなよ」と首を動かして促した。咲良は首を頷かせると、


「じゃあ、お気持ちに甘えさせていただきますね」


 咲良は玲児からストラップを受け取ると、まるで壊れ物でも扱うようにつまんで、左手に乗せた。


「ありがとう。とっても綺麗……何に付ければいいのか、迷っちゃいますね」


 一度、玲児がしたようにストラップを夜空向かって掲げると、胸の前で握った。


「本当にありがとうございます、玲児さん。こういうものを貴方からいただくと、ちょっぴり恥ずかしいですね」


 痩せた青白い頬が健康そうに朱色に染まりながら、咲良はとびっきりの笑顔を玲児に振りまいた。それにつられるように、玲児は顔に血液が集まってくるのを感じながら、「どういたしまして」と返した。それをからかうように、雫が肘で玲児の脇腹を小突いた。


 しかし三等か……。当たらないとわかってはいるけれども、どうにもこの結果に中途半端さを感じてしまう。まぁ俺らしいと言えば、俺らしい結果か。


 でも、咲良の嬉しそうな笑顔が見れたんだ。十分満足だ。

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