プロローグ.絶望の海
そこは見渡す限り、地獄のような光景が広がっていた。
空は青さを失い、油汚れのような黒ずんだ色へ変わっていた。
かつて人々が生活していたであろう家や建築物、工場はテーブルから落ちたガラスのコップのごとく原型を失い、跡地からは異臭のする黒い煙が上がっていた。
膨大な量の墨汁を垂らしたように真っ黒に染まった海には、かつて悠々と泳いでいたであろう様々な魚や海洋生物が、身体を動かすこともなく腹を見せながら浮き沈みを繰り返していた。
まるで棺桶の中のように静まり返ったそこでは、時おり死を運ぶ毒の風がびゅうびゅうと吹くだけである。
砂浜には、その黒い海から打ち上げられた、あらゆる生き物が転がっていた。魚だけではない。サメやイルカ、カニ、貝……。
それだけではない、戦火から逃れるために船に乗り込んだであろう人間たちの姿もその中に混じっていた。
この世界の生命の大半が、死に絶えていた。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう……。
防護服の保護板越しに見える眺めに、少年は無力感にさいなまれていた。もう肉体も精神も空気中に漂う汚染物質に冒され、いよいよ少年もこの屍の山の仲間入りを果たそうとしていた。
かつてこの海が青く煌めいた頃、人々はこれから起きるであろう文明の発展に夢と希望を抱いていた。少年もその一人だった。まして言えば、人生の選択肢に悩んでいたころの事である。
だけど、その結末がこれだ。もう絶望しきった末、なにも感情もわいてこなくなった。
今の少年に出来ることは、横たわって死を待つだけ。ただ、自分が死ぬ姿を、大切な人には見せたくない。最後の瞬間に見る光景が、あの子の悲しみに満ちた顔なんて嫌だ。
でも、一つ心残りがあるとすれば――。
「――!」
遠くで、少年の名前を呼ぶ声が聞こえる。きっと彼女だ。
なんとか目だけでも動かそうとすると、同じ防護服を身に着けた人が近付いてしゃがむと、必死に声をかけて身体を揺さぶる。聴覚も衰えてしまったのか、彼女の声が聞こえない。
アクリル板越しに、辛い表情をしているのが見えた。
ああ、やっぱり君は来ちゃうんだろうね。なんだかんだで君はそういう人だからな。
少年は心の中でふふっと笑うと、手を持ち上げて、防護服の保護板を外した。
もうじきオレは死ぬ。
だからせめて、最期に彼女にこれだけ伝えておこう。
「雫、あのね……」
雫と呼ばれた少女が手を握る。声ももう燃え尽きる直前の火のようにか細く小さいけれども、最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ。もう今までのような迷いはない。
「ずっと、好きだった」
雫が、自分の事を好きでいてくれたかどうかは分からない。だけど、せめて自分が今まで何年も胸の奥に秘めた気持ちだけは、明かしておきたい。
「……」
雫の握る手が震えて、彼女の着ている防護服のアクリル板が涙で濡れていく。そういう顔は見たくなかったかな……。やっぱり、あの小悪魔のような笑顔が好きなのに。
「ね、返事……聞かせてよ」
全身から力が抜けていく。前のように血を吐くような苦しみはもうない。リッパ―で糸をほどくように、魂が身体から離れていくのがわかる。
雫は嗚咽を漏らして握る手を強くしていた。口の動きから、まだちゃんと答え出せていないようだ。
「雫……」
時間切れだ。最後の糸が、ぷつりと切れた。
力が完全になくなって、どんどん景色が、雫が遠くなっていく。
返事を聞けないまま死ぬなんてやだなあ。
でもまあ、ようやく雫に一矢報いた気がする。今までさんざん、彼女にいいようにされてきたんだし、これくらいやったっていいよな?
そして少年の命は、あの黒い海の底へ、静かに沈んでいくように消えていった。