ユウコさんは呪いの絵が見たい
パブロ・ピカソはその生涯の中で十四万点の作品を残したという。一方で、『ひまわり』で有名なフィンセント・ファン・ゴッホはデッサンを含めても二千点を超えるほどしかない。つまり、僕が何を言いたいかというと。絵を描くのに上手い下手があるのと同じように、描くのが早い遅いというのもあるということである。
カンバスに目をやると下書きとまだらに色が塗られた未完成の絵がある。本来ならゴールデンウィーク前に完成させるべきだった県展に提出する作品である。同じ美術部の人間は早々に終わらせて、夏に行われる別のコンクールに応募する作品に取り掛かっている。
筆の遅い僕はゴールデンウィークだというのに遊びに出かけるわけでもなく、美術室で絵具を溶いている。無理に描こうとしても筆がのるということはなく、緩慢に時間だけが過ぎている。県展に出すことを諦めてやろうか、と思うのだがそうなると部長からひどく詰められるに違いない。
僕はため息と一緒にカンバスに色を落としていった。
「そこの美術少年。呪いの絵はあるかい?」
いきなり背後から声がして僕は、文字通り、声をあげて飛び上がった。振り返ると女生徒が僕の絵を覗き込んでいた。僕の絵は中学の屋上から町の風景を描いたものだ。特に上手いわけでもないので僕は少し恥ずかしかった。
女生徒は曲げていた腰をすっとおこすと、顔にかかった長い黒髪を後ろに払った。彼女のセーラー服はすこし小さいのか校則よりもスカートの丈が短いし、胸もとが窮屈そうに見えた。僕の視線を感じたのか彼女は「舐めまわすように見るね」と眉を曇らせた。
「いえ、違うんです! そんなっ」
僕が慌てると彼女は楽しそうに笑うと「美術少年。もう一度言うよ。呪いの絵はあるかい?」と訊ねた。確かに僕の所属する美術部には『呪いの絵』と呼ばれるものが存在する。何年か前にいた生徒が描いた作品らしいのだけど、その生徒の怨念が込められていて絵柄が変わるとか見たら不幸になる、と言われている。
「ありますけど……。誰?」
僕が訊ねると怪しい女生徒はすました顔をした。そして、セーラー服の赤いリボンを指さした。
「これは何色だと思う?」
「赤色ですね」
「つまり、私は君の先輩? 後輩? それとも同級生?」
僕の通う中学では男子は学年章と呼ばれるバッチを付けることで自分の学年がわかるようになっている。僕の場合だと一年生だから『Ⅰ』のバッチをつけている。
女子の場合はそれがリボンの色になる。今年は青は一年生、緑は二年生、赤は三年生、という具合だ。
「先輩です。で、先輩は誰なんですか? 美術部員ではなさそうですけど」
「そうだよ。違うね。私のことは敬愛をこめてユウコさん、と呼ぶといいよ。幽霊みたいなもんだからね」
幽霊と言われて僕はユウコさんの足元を見た。幸いに彼女に足はついていた。茶色のスリッパからはすらっとした足が伸びている。幽霊というのは冗談らしい。だけど、ゴールデンウィークにわざわざ学校に来てまで呪いの絵をみたいなんて変わっている。
「ユウコさん、呪いの絵は美術室にはないですよ。奥の準備室にあります。」
僕は美術室の黒板側にある扉を指さした。準備室には顧問である美術教師の机と美術の授業で使う画材や提出物のほかに美術部が制作した作品が保管してある。この連休期間の部活動は休みなのだが、僕はどうしても作品を描き上げないといけないので特別に鍵を借りている。
「美術少年。案内してよ」
「僕はほら続きを描かないといけませんから。鍵なら開いているので勝手に見てください」
「……つれないなぁ。袖振り合うも他生の縁っていうだろ。それとも怖いのかい?」
ユウコさんがしてやったりという顔で僕の顔を覗き込む。
「そんなことありませんよ」
「なら、一緒に見ようよ」
「ユウコさんの方が怖がってるんじゃないですか?」
ユウコさんの顔をじっと見返してみる。まつげが長い。大きな瞳がずいぶんと大人びて見えた。
「そうなの。私、怖くて怖くてしかたないの。一緒に見に行きましょう」
ひどくわざとらしい物言いで彼女は僕の腕に手をかけた。それは魔手とも言えるもので、僕はそのままカンバスの前からと準備室の方へと連れて行かれた。美術準備室は、油粘土や油彩画のテレピン油が混ざり合った独特の匂いが漂っていた。僕はユウコさんの手から逃れるために窓を次々に開けていった。
その間、ユウコさんは準備室に置いてあるものを物珍しそうに眺めていた。
「おー、いろいろあるなぁ。卒業アルバムにテニスボール。あっ、土偶があるよ。縄文人はこれをなんに使ったんだろうね」
美術教師の机の上から土偶を取り出すとユウコさんは、ぐるぐるとまわしてみせた。土偶は弥生時代に広く作られた素焼きの人型だ。複雑な模様が刻まれたものや顔に表情があるものまで多くの種類が見つかっている。いま、彼女が持っているのは教科書でよく見る遮光器土偶と呼ばれるものだ。
「壊さないでくださいよ。それ、先生の私物でレプリカでも高いらしいですから」
「本物じゃないの。残念」
そう言って乱雑に机に戻された土偶はどこかほっとしているように見えた。
「土偶にある模様は服じゃなくって刺青だって説があるそうですよ」
「服だと思っていた。でも、どうして刺青なのかな。服なら着替えられるし。布を染める方が楽そうなのにね」
「そりぁ、弥生人にとっては刺青であることが大切だったんじゃないですか?」
「大切ねぇ。大切だから土偶にも刺青を入れたのかな。でも、中国じゃ刺青は罪人の証だったというね。同じ時代でも違うもんだね」
弥生人がせっせと土偶を作っているころ世界の反対側では、スフィンクスが完成していたし、ギリシャでは精緻な彫刻が花開いていた。そう思うと、美術だけでもずいぶんと差があると言わざるを得ない。
「まぁ、いいけど。いまは呪いの絵よ」
呪いの絵は美術部の先輩が残したものと言われている。なんでも部活内でいじめられた生徒の怨念で見る人が不幸になるとか絵柄が変わるという。入部してから話には聞いていたけど、実物を見たことはなかった。
「多分このあたりだと思うんですけど……」
僕は美術部の作品置き場の近くにある作品乾燥棚や画版整理棚を確認していく。乾燥棚には二年生が授業で描いたと思われる作品が『A組』、『B組』、『C組』とわかるように張り紙がかけられていた。題材はクラスメイトの顔であるらしく、いろいろな顔があった。
「これはいいな。面白い」
ユウコさんが勝手に取り出したのは、技量の問題で写実画から離れて抽象画へと進化したクラスメイトが描かれていた。肖像画には何度も描き直したあとがあった。それがモデルになった生徒の要望なのか、本人のあくなき向上心なのか僕にはわからない。
「ダメですよ。勝手に取り出しちゃ」
「真面目君だなぁ、破いたり勝手に描き足したりはしないよ」
「当然です」
僕が睨みつけるとユウコさんはしぶしぶという様子で絵を『C組』の棚に戻した。棚を掻き分けていくと一番奥に美術部卒業生と書かれたラベルと大量のキャンパスが突っ込まれている整理棚があった。僕はそこから適当に絵を抜き出していった。
「そういえば、ユウコさんは呪いの絵がどんなのか知っています?」
「二人の黒い女の子が描いてある。面白い作品だって聞いてるよ」
適当に絵を取り出していくと六枚目でそれらしき絵が見つかった。その絵は美術室と思われる部屋に二人の女生徒が立っている。彼女たちはそろってシルエットで描かれており黒色に塗りつぶされた顔からは表情をうかがうことはできない。手には筆やカンバス、絵の具などが握られている。背景は濃紺で、この場面が黄昏なのか夜明け前なのか分からない。
ただ、言えることはひどく暗く陰鬱な絵だということである。
「おー、いかにもって感じだけど。これのどこが呪いなんだろう?」
ユウコさんは絵をしげしげと眺めると傾けたり、上下を反転させたりした。確かに彼女の言うとおり、あまり気分の良い絵ではないが、噂に聞いているように絵柄が変わる、ということは今のところ起きていない。
「見た人が不幸になるそうですよ」
「美術少年、いま不幸?」
ユウコさんは絵を僕に押し付けると訊ねた。ゴールデンウィークに絵を描きに出ている時点で不幸だと思う。さらにユウコさんのせいで作業が中断して不幸な気もする。でも、それは絵を見る前からのことであって、いま不幸かと問われると難しい。
「ふ、不幸ですかね」
「あそう」
興味なさそうに彼女は言うと、僕の腰に手をまわして僕をぎゅと抱きしめた。ユウコさんの柔らかな体温が伝わる。ユウコさんは甘いシナモンのような香りがした。
「えっ!?」
「どう? 女の子に抱きつかれて幸せだったんじゃない?」
そういうとユウコさんはポイと僕を捨てるように突き飛ばした。ユウコさんはドヤ顔でこちらを見ている。僕は照れを隠すようにふてくされた顔を作るのに必死だった。
「そんなことありません!」
「美術少年、顔が赤いぞ」
「怒っているからです。ユウコさんこそ不幸ですか?」
僕はユウコさんをまともに見られなかった。顔を見てしまえばもっと赤くなると思ったからだ。
「まぁ幸せかな」
彼女は腕を組むとひどく難しい問題に出くわしたようだった。
「見て不幸になるって言うのは嘘ですかね」
僕はユウコさんに押し付けられて抱いたままになっていた呪いの絵をもう一度見た。呪いの絵はその姿を変えていた。黒いシルエットだった二人の少女のうち右側にいた女の子の姿が黒から赤に変わっていた。彼女の身体にはイナズマの線や幾何学的な模様が黒で細かく描き込まれている。
「ユウコさん……」
「面白くなってきた。変わったね。しかし、ひどい表情だ」
彼女は赤い女の子を指さす。赤い彼女の顔はひどく辛そうな顔で涙を浮かべており、黒い女の子はそれを無視しているようだった。僕は少し怖くなって絵を棚に戻した。
「こんなことってあるんですね」
「すごい。本当にすごい。でも、どういうことなんだろう」
ユウコさんは心底から面白いというように微笑んだあと、急に暗い顔をした。
「ユウコさん……」
「美術少年。あの呪いの絵について知っていることをすべて教えてくれない?」
美術部に伝わる呪いの絵。その話は聞いて面白いものではない。
昔、美術部には才能に溢れたA子という部員がいた。彼女が描く絵画は様々なコンテストで優秀な成績をおさめた。だけど、それに嫉妬した人がいた。A子の幼馴染であるB子だった。同じように絵画を学び、同じように描いてきた。でも、B子には決定的に才能が足りなかった。同じモチーフであっても二人には大きな差が生まれていた。
そんなとき、あるコンテストに二人は作品を出品した。入選したのは幼馴染の方だった。A子は幼馴染であるB子の成果を自分のことのように喜んだ。でも、表彰会場で彼女は驚いた。B子の作品として飾られていたのが自分の作品だったからだ。しかも、それは彼女が出来に納得できずに完成を諦めたものだった。
「どうせ捨てるつもりの作品だったんでしょ? なら、私が続きを描いてだしても構わないじゃない」
授賞式のあとB子はA子にそう言って笑った。
A子が文句を言うとB子は「もう終わったことだからいいじゃない。あなたは他でいっぱい賞を貰っているのにまだ欲しいの?」と、ひどく冷たく言った。その日からだった。部内でのA子に対しての風当たりが強くなったのは。
A子の才能は部内でも卓越していた。それはみんなが認めていたが同時に「どうしてあの子ばかり」という嫉妬がなかった訳ではなかった。 B子に乗せられる形で部員たちは、賞が取れなかったA子が幼馴染をやっかんでいるとして彼女を責めた。
A子はだんだんと精神を病んで一枚の絵を残して、違う学校へ転校していった。残された絵は不気味な黒い二人の女子を描いたものだった。それを見たB子はしばらくして筆を持たなくなった。ほかの部員も絵を見たあとに怪我や不幸が続いた。
絵は『呪いの絵』として捨てることもできずに美術部に残されている。
「……というのが僕の知っている呪いの絵の話です」
「ふーん、私が聞いた話と違うね」
ユウコさんは真剣な顔で首をかしげた。
「ユウコさんが聞いた話っていうのは?」
「私のはこうよ」
ある美術部に二人の生徒がいた。一人はとても才能に溢れたA子。もう一人はB子。残念なことにB子には才能はなかった。B子は自分の才能のなさを嘆いて最後に一つの作品を描いた。でも、それは皮肉なことにA子から見ても面白い作品だった。
B子はそれを最後にして筆を置いた。部活動も半年を残して辞めた。でも、作品だけは残された。作品はB子の怨念か不思議な現象が起きるために『呪いの絵』と呼ばれている。
僕たちが知っている話は少し違う。僕の話では美術部を去ったのはA子である。だが、ユウコさんの話では部から消えたのはB子だ。呪いの絵を描いたのも僕はA子。ユウコさんはB子と違っている。同じなのはB子に才能がなかったということ。そして、B子が筆を握らなくなったということだけだ。
それ以外のことは少し違っている。
「どうして違うんでしょう」
「分からない。でも、絵の裏書をみれば誰が書いたかわかるかも」
裏書というのはカンバスや木製パネル、画用紙の裏に書かれた描いた人間の署名のことだ。書かない人もいるがだいたいの人は書いている。僕は呪いの絵を棚から再び取り出すと裏を見た。そこには桐原早苗と殴り書きのように乱れた文字で書かれていた。
「……名前は分かりましたけど、これだとこの桐原さんがA子なのかB子なのかわかりませんね」
「ん、ああ。そうだね」
僕が落胆した声を出すとユウコさんは少し不思議そうな表情をした。そして、美術教師の机のうえにあった卒業アルバムの束を持ってきた。
「この中に桐原早苗がいたらわかるんじゃない?」
桐原早苗の名前は三年前の卒業生だった。クラスは三年五組。クラスの集合写真ではショートカットをした目の鋭い女の子だった。この頃は一学年五組まであったらしい。いまは少子化の影響か、一学年三クラスしかない。卒業アルバムの後ろの方にある部活動写真には桐原早苗はいなかった。ただ、いくつもの賞状とトロフィーを持った秋庭みほ(あきば・みほ)という女性が少し困ったような表情で写っている。隣では美術教師が豪快に笑っていた。
秋庭は三年一組だったらしくクラス写真では、端の方でちょこんと微笑んでいた。
これでわかったことがある。おそらくB子が桐原だ。そしてA子というのがこの秋庭なのだろう。
「僕の話がおかしいみたいですね。転校したはずのA子が卒業アルバムに載っています。つまり、ユウコさんの言うとおり転校はなかった。A子もB子も卒業はしたんです。ただ、桐原さんは部活を辞めている。だから、卒業アルバムの部活動写真には写っていない」
「ということは、呪いの絵はB子――桐原さんが自分の才能のなさを嘆いて描いた呪いの絵ってことね」
「そうなりますね」
「私よくわからないんだけど、生きている人が描いた絵でも怪奇現象っておきるのかな? 普通、呪いのって言われたら非業の死とかで恨みを抱えた人の怨念って感じじゃない?」
ユウコさんの言うことはわからなくはない。だけど僕たちは見たじゃないか。少女の姿が真っ赤にかわるところだ。
「もう一度見てみよう」
彼女はひっくり返っていた呪いの絵を表に向けた。するとそこには二人の黒い少女がいた。辛い表情で泣いていた赤い少女はどこにも見当たらない。
「……嘘」
「美術少年。私、分かったかも」
ユウコさんは大きな目を見開いていた。それはこちらが吸い込まれそうな気がするほど美しかった。彼女は呪いの絵に描かれた少女の一人に自分の手をぴったりと重ねた。
「なにがですか?」
「この絵は呪われてはいない。A子――秋庭の言うとおり面白い作品なんだ」
そう言ってユウコさんが絵から手を離すと黒い少女はまた赤い少女に戻っていた。少女の身体に描かれ複雑な模様はまるで刺青のようにくっきりと見える。
「え、どうして?」
僕が驚くとユウコさんは明るい声を出した。
「感温塗料あるいは示温インクと呼ばれる特殊な塗料が使われている。おそらく室温では黒。人肌の三十六度くらいから赤に変わる。だから、この塗料で描かれた右の女の子は色が変わったのね。そして、黒い模様は普通の黒いインクで描かれていただから、全身の模様だけは温度の変化に反応しなかった。つまりこの絵は、トリックアートなのよ」
トリックアートと言えば目の錯覚を利用したものが多い。でも、この作品は温度によって変化するのだ。最初に色が変わったのは僕が呪いの絵を抱いていたからだ。
「じゃ、僕らはこのトリックアートにずっと騙されていただけで呪いなんてものは」
「なかったのよ。この絵の変化を見た人が勝手に不幸な出来事とこじつけてしまった。そんなとこね。ああ、謎が解けるとつまらない。じゃ、帰ろうかな」
急に興味を失ったユウコさんは、呪いの絵を棚にしまうと美術準備室から出ていこうとした。
「ユウコさん、待ってください」
「なんだい? 私に恋でもしちゃったかな? 美術少年」
「また会えますか?」
僕はユウコさんの茶化した声を無視して聞いた。彼女は少し困った顔をした。
「会えるよ。同じ学校だからね」
「なら、教えてください。ユウコさんは三年何組ですか?」
「三組だよ。本当に恋しちゃったのならお断りだよ。私は年下より年上の方が好みなんだ」
可愛らしくウィンクをしてみせたユウコさんは嘘をついていた。
「ユウコさん、いまこの中学では三組はないんです。あるのはC組です。僕がタイムマシーンを持っていない限り三年前の三年三組にはいけません」
「美術少年。いつ気づいたんだい? 私はまだ中学生でいけるんじゃないかなぁ、とおもっていたんだけどな。似合ってなかったかな?」
ユウコさんはそう言ってセーラー服の裾を掴んでくるりと一回転してみせた。少し窮屈そうにみえるけど似合っていないことはなかった。でも彼女は中学生じゃない。おそらく高校生だ。
「いえ、そんなことはなかったです。でも、ユウコさんにはおかしいところがいくつかありました。一つは、どうしてゴールデンウィークに呪いの絵を見に来たかってことです。普通なら学校がある日に見に来ればいい。でもユウコさんは違った。それは誰かに見られたくなかったからだ。どうして見られたくないのか。この学校の生徒じゃないからです。厳密には元生徒だったからです」
「確かにまともではないかもしれない。でも、私は変わり者で『呪いの絵』の話を聞いてすぐにでも見たい、となったのかもしれない。休みなんて関係ないっていうほどにね」
ユウコさんは負け惜しみのように口を尖らせた。
「そうですね。ユウコさんはとても変わった人なのかもしれない。それでもおかしい事はあるんです。ユウコさんは誰から呪いの絵の話を聞いたのか。美術部の人間でさえこれがトリックアートとは知らなかった。でも、ユウコさんにこの話をした人は『面白い作品』と言った。そんなこと分かるのは書いた本人――桐原さんか、それを見せられた秋庭さんしかいないじゃないですか。そして、この二人は三年前に卒業している。
あと、ユウコさんの履いてる茶色のスリッパ。来客用ですよね。生徒ならそれをはく必要は無いでいょう。」
「うーん、まぁいいかな。では、私がこの学校の在校生じゃない偽物だとしよう。それがどうだというの。何か悪いことをしたかな?」
確かに彼女は何もしていない。変装して絵を見て帰っただけだ。勝ってもいないし負けてもいない。来て見て帰った。それだけだ。でも、それではいけない。僕たちはまだ呪いの絵のことを分かっていない。
「ユウコさん。僕は疑問なんです。才能がないことに絶望した桐原さんが最後に描いた作品が呪いの絵だとして、美術部に残されていた話は全部ウソなんでしょうか? なにか元になった出来事があるんじゃないでしょうか」
「例えば?」
ユウコさんはもう笑わない。大きな瞳が僕を静かに見つめている。
「桐原さんが秋庭さんの作品を盗んで賞を貰った、ということも事実だったんじゃないでしょうか。つまり、あの呪いの絵に描かれていた二人の少女は、桐原さんと秋庭さんを表していたんです」
「黒い方が桐原で、赤い泣いてる方が秋庭だと?」
「いえ、違います。赤い方が桐原さんです」
悲痛な顔で涙を流す赤い少女。それが桐原さんだ。
「どうして? 盗作された秋庭が泣くところじゃないの?」
「そうならなかったんです。秋庭さんは盗作されても桐原さんの受賞を本気で喜んだ。幼馴染が受賞したその事実を素直に彼女は祝ってしまった。それこそ自分のことのように。それは桐原さんにとって罪を責められるよりもよほどきついことだった。自分がズルして手に入れた成果は、秋庭はどうでもいい。そう言っているように感じられたからです」
桐原さんは責めて欲しかったのだ。あなたには才能がない。そう言って欲しかったのだ。諦めたいから。だけど、黒い少女は責めなかった。それどころか許してしまった。罪悪感だけが桐原さんには残った。それは彼女の心に彫り込まれた。ユウコさんが言ったように刺青は罪人の証なのだ。赤い少女に描かれた模様は彼女の罪悪感だ。
「秋庭が許したから、桐原はずっと罪悪感に苛まれた。それこそまるで呪いのように」
「だから、桐原さんはこの呪いの絵を描いた。あなたの優しさは呪いなんだよって伝えるために」
絵を見た秋庭さんは気づいた。そして、桐原さんがもう二度と筆を握らないことを理解した。彼女は幼馴染の最後の作品が長く残る方法を考えたんじゃないだろうか。それが『呪いの絵』だ。美術部に真実じみた話と作品を残すことで桐原さんの作品をずっと残そうとした。
でも、事実と違うことがひとつあった。
桐原さんは転校していない。でも、転校した生徒はいたんじゃないだろうか。
「転校した生徒がユウコさんなんじゃないですか?」
「……そう、私が転校したのが三年生の五月。それから三年たって大学のオープンキャンパスでたまたま秋庭に会ったの。面白い作品があるの。『呪いの絵』っていうのだけど、あなたにも見せたかったわ、てね。そんなこと言われたら気になるじゃない」
もしかしたら、ユウコさんは桐原さんから盗作をすることだけは聞いていたのかもしれない。
「ユウコさんは止めようと思わなかったんですか?」
僕が問いかけると彼女は首を振った。
「秋庭は本当の天才だった。桐原は天才ではないけど上手い子だったわ。だから、余計に比較された。なのに、秋庭は気付かなかった。自分が特別で幼馴染はそうじゃないって。だから、私はそれが悪でもするべきだと思った」
「なら、ユウコさん。ここに来た本当の理由は。あなたが知らないうちに呪われた絵――友達が描いた最後の作品を見るためですね。その絵があると知ってしまったユウコさんはその瞬間から呪われたのでしょうから」
僕はユウコさんに頭を叩かれた。彼女は少し寂しそうな顔をしていた。
「あなたみたいな生意気な子は大嫌い」
「僕はユウコさんみたいな人は好きです。また、会えますか?」
きっと答えは返ってこない。ユウコさんは優しい人だから。