第1話・ヒビヤくんの苦悩
あなたはもしも「道具にも命が宿るんです」と言われたら、どう思いますか?
これは命の宿った道具を扱う「スメラギさん」と大学生の「ヒビヤくん」が織り成す、少し不思議な道具屋さんのお話。
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ガタンゴトン。ガタンゴトン。
既に何時間も聞き続けている、電車が枕木を叩く無機質な音をなおのこと鼓膜に響かせながら、日比谷翔は小さく嘆息した。
「はあ、大丈夫かなぁ……」
終点の近づいてきている電車の中には翔が乗り込んだ駅ほどの賑わいはなく、不安を声に出してもそれを気に留める者はいなかった。
翔は今年の春からここ「紀乃市」の大学に入学予定の、まだギリギリ17歳の青年である。ちなみに翔の誕生日は3月29日。
今春からの大学生となれば不安の種は一目瞭然だろう。
「まさかこんな田舎の大学に通うことになるとは……」
そう、ここ「紀乃市」はお世辞にも都会とは言えない、というよりも典型的な田舎である。
電車の窓からも既に沢山の畑や田んぼが見受けられ、技術進歩の恩恵を受け切っていないことが分かる。必ずしも技術進歩の波に乗ることが正しいとは言えないことは明白だろうが。
何にせよ、翔の不安はかなりのものだった。
生まれて初めての1人暮らし。親からの仕送りは家賃と電気ガス水道代のみ。同じ大学へ進学した友達もおらず、借りたアパートまでの案内もなし。
おまけにバイトの経験もない、まだ17歳の翔にとってはかなり過酷な状況と言えるだろう。
「親父のやつ、まだLINE見てないのか……」
メッセージのバナーが表示されることを期待してスマホの電源を入れても、画面に現れるのは無情な現在時刻のみ。翔の不安は増すばかりだった。
翔はもともと都市部の国公立大学に進学する予定だった、とても優秀な生徒である。正確には「元」生徒となる。
だが、大学側の手違いで3月上旬に翔の元へ届いた合格通知は奪われ、滑り止めの私立大学に進学することとなった。
私立大学の入学手続きの期限はとっくに過ぎていたのだが、翔に降り掛かったあまりにも理不尽な事情と彼の優秀な成績により、特例として入学が認められたのだ。
その時こそ翔や両親たちは安堵したものの、次の日からは進学準備に大忙し。既に契約してしまった都市部のアパートのキャンセルや教材の購入、その他諸々にてんやわんや。
結局、本当に準備が出来たのか確認する暇もないまま紀乃市に来ることになったのだ。
「こちらは紀乃~。紀乃です~」
「あ、降りなきゃ」
車掌のアナウンスに気づき、ナーバスな頭を切り替えて電車から降りる。
案の定、紀乃駅は改札口が2つしかないような田舎っぷりを見せていた。都会の通勤ラッシュを味わい続けてきた翔からすれば驚きの光景である。
そんな嬉しくない衝撃を胸に収め、駅の前にある申し訳程度のロータリー、その脇にあるベンチに腰掛けて翔はスマホの地図アプリを起動した。
紀乃駅から翔が借りたアパートまでは徒歩で約10分らしい。不動産屋で地図を見た時もそのくらいだった。
急拵えにしてはなかなかいい物件が借りられたと、帰宅したあと翔の母親は嬉しそうに言っていた。無論、翔にとっては嬉しくも何ともなかったようだが。
少しすると、画面に紀乃駅周辺の地図が表示され、その中に赤い線が表示された。その先には「ニコニコアパート」という名前の建物がある。
あからさまに胡散臭い名前なので翔も多少なり警戒したのだが、状況が状況だったためかあまり気に留めることはなかった。それ以外のこと、主に大学の手続き関係のことが忙し過ぎてアパートの確認どころではなかったのだ。
「暗くなってきたな……早くアパート行こう」
時刻は午後5時。
まだ肌寒い3月の終わり頃、日が落ちるのもそれなりに早い。ロータリー周辺には人影も少なく、駅前は何処か物寂しい様子だった。
家具や荷物こそほとんどが引越し業者に任せてあるが、だからといって引越し初日から夜遊びするような度胸は翔にはなかった。そもそもまだ17歳の翔があまり遅くまで出歩いていたら、警察官の補導の対象になってしまうのだ。
冷える体を軽く擦りながら、翔は地図を見て歩き出した。
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1時間後。
翔は駅前にいた。
「……寒い」
寒さのあまり垂れる鼻水をズビッと啜りながら、翔は虚しく呟いた。
Q、アパートに向かったはずの翔が、何故こんな時間に再び駅前に出没しているのか。
A、どんなに探しても目的のアパートが見つからないから。
という訳である。
地図の示す場所を目指して歩いても、現れるのは畑と空き家だけ。ニコニコアパートなと存在せず、翔の顔からもニコニコは消え失せていった。
周りの人に聞こうにも、如何せん翔はコミュ障。勉強が出来るとは言っても、見知らぬ土地の見知らぬ人々に話しかけるほどのコミュニケイションアビリティは持ち合わせていない。
そして駅員さんかお巡りさんなら少しは聞きやすいだろうと、翔は再び駅前に戻って来たのだ。今は覚悟を決めている最中だ。
よくよく考えれば駅員さんに道案内を頼むのはナンセンスなのだろうが、不安でいっぱいの翔はそんなことまで頭が回っていない。
「よし、交番は……って、線路の反対側かよ……」
スマホの地図アプリを見ると、交番の表示は線路を挟んで反対側の出口付近にあった。これでは1度駅の構内に入って行かなければならない。
だったら駅員さんに聞けばいいか、などと思いながら、翔は駅の入口の階段に向けて歩き出した。
すると。
「なーなー、いいだろ? カラオケ行こうぜカラオケ」
「こ、困ります……」
「なんだよノリ悪いなぁ、ほら奢るからさ、行こうぜ~」
ちょうど翔がいるロータリーの反対側、電灯の下あたりで、女の人が男2人に絡まれていた。恐らくはナンパの類だろう。
「すみません、今日は……」
「あーもう、面倒臭いなぁ。行くって言えよお前」
女性は頑なに嫌がっているが、時間が経つにつれて男達は目に見えて不機嫌になっていった。あれではいつ女性が暴力を振られたりするか分からない。
だが、不幸にも交番は反対側の出口にある。その交番も規模は小さいのだろう、こちら側に出張る警官などいるはずがなかった。
「どうしよう、助けなきゃなんだろうけど……」
助けるべき。そんなことは当然だが翔にも分かっていた。だが、それを実際に行動に移すにはあまりにも勇気がいる。
その勇気を持つ人間など、全体の何割にあたるだろうか。少なくとも翔は、そちら側の人間ではない。
今回は、仕方がない。特別措置で進学させてもらっているのに、初日からトラブルを起こす訳にもいかない。
そう思いながら駅の構内へ入ろうとした時、翔はその女性と目が合った。
その目は、明らかに助けを求めていた。辛そうで、嫌そうで、何よりも悲しそうだった。
翔は少しの間足を止め、そこに立ち尽くしていた。
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「ああ、すみません! コイツ俺の彼女なんですよ! 待ち合わせしてて!」
そう言って、翔はナンパしていた男2人と目が合った女性の間に強引に割り込んだ。
持ち合わせている限りの勇気を出したのだ。上手く言えないのだろうが、翔は逃げてはダメだと思ったのだ。
案の定男達は不満げな表情を浮かべ、翔をじっと睨み付けている。
(クソ、やっぱりこんなことするんじゃなかった……! 怖い……!)
ダラダラと冷や汗をかきながら、必死にぎこちない笑顔を崩さないようにする翔。その頼りなさに女性も何処か不安そうである。
だが、幸運にも男達は気分を害されたためか「シラケたから行こうぜ」と言ってその場を立ち去っていった。
男達の姿が見えなくなると、翔はがくりとその場に膝を付いた。
「あ~、怖かった……」
女性の前だが、ついつい本音が漏れてしまう。こんなことをするのは翔にとっては初めてだったし、殴られたりしてもおかしくなかった状況、無事に切り抜けることが出来て気が抜けてしまうのも頷ける。
とはいえそのまま女性を放ったらかすわけにもいかないので、翔はよろよろと立ち上がって女性の方に向き直った。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ふふふ」
「ん?」
女性は翔のあまりの頼りなさからか、クスクスと笑い始めた。翔は何となく恥ずかしくなり、顔を赤らめた。暗くなってきていて顔色が見えにくいのが幸いだった。
「すみません、なんだか面白くて。本当に、勇気を出してくれたんですね。ありがとうございます」
本当に嬉しそうに笑う女性の表情があまりにも綺麗だったので、翔はつい顔を逸らした。そして自分がとんでもないことを口走ったことを思い出した。
「いえ……あ、あの、すみませんでした」
「え、何がですか?」
「いや、いくら助けるためとはいえ、勝手に彼氏面したり『コイツ』とか言ったりして……」
翔が他の同年代の男と比べてガキっぽい見た目なのを考慮しても、女性は明らかに翔よりも歳上だった。助けるためとはいえその女性に向かって勝手に彼氏面した挙句、待ち合わせまで捏造したのだ。気分を害された、と文句を言われても仕方がない。
翔はそう不安に思っていたが、女性は怒る様子は一切なかった。そして翔に優しく言う。
「頭を上げてください。あの状況じゃ仕方なかったですし、お陰で助かったんですから」
「そ、そうですか……」
「はい、本当に。あ、そうだ、何かお礼をさせて貰えませんか? 私の家、ここの近くなんですよ」
女性はぽん、と手を叩きそう提案した。だが、それよりもまず翔にはやるべき事があった。
「あ、えっと、お誘いは嬉しいんですけど、1つ聞きたいことが……」
「はい、何でしょうか?」
「ここの近くに『ニコニコアパート』っていうアパートがあるはずなんですけど、場所って分かりますか? さっきから探してるんですが全然見つからなくて困ってて……」
ここの近くに住んでいるのなら、ニコニコできないアパートの場所も分かるはず。翔はそう思った。
だが、残念ながらその期待は予想しうる中でも最悪の形で絶望に変えられることとなる。
「え、そのアパートなら半年くらい前に無くなっちゃいましたよ?」
「……はい?」
あまりの衝撃的事実に、翔は一瞬思考が停止してしまった。翔の様子には気付いていないのか、女性は続けた。
「入居者さんが少なくて経営が大変だったらしいです。建物自体も古くなってたし、危ないから、って」
「そ、そんな……」
とんでもない話である。経営難や建物の老朽化はどうしようもないし確かに危険だが、それとこれとは関係がない。明らかに不動産側のミスだろう。
だが、今不動産に電話を掛けて苦情を言ってやったところで今日の寝床が見つかるわけでもない。翔はいよいよ途方に暮れてしまった。
「何か事情があるんですか?」
女性は心配そうに尋ねる。
「事情っていうか……たぶん不動産の人の手違いで、俺そのアパートに入居予定だったんです……もう無いですけど」
「ああ、それなら丁度いいですよ」
「はい?」
こんな状況で何が丁度いいのか、と翔は疑問の声を上げた。
女性は白い息を両手に「はぁっ」と吹きかけながら言う。
「私の家、1階が道具屋になってて私は2階に住んでるんですけど。1人なので部屋が沢山余ってるんですよ。だから、もし良かったらお部屋が見つかるまで泊まっていきませんか?」
「なるほど……」
とても有難い話だ。
翔はそう思った。何のデメリットもないし、親切心を無下にするべきではない。代わりのアパートが見つかるまで、お世話になってもいいだろう。
だ、が。
1つ、チキンでいい子ちゃんの翔にはどうしても容認出来ないポイントがあった。
「ホテルとかじゃあお金も掛かっちゃいますし。もし良ければ、ですが」
「いえ、その、すごく有難いんですが……」
「はい……?」
まごまごモジモジとする翔を、女性は不思議そうに見ている。
「1人暮らし、なんですよね?」
「はい、今は。3年前におじいちゃんが亡くなってしまって。あ、私おじいちゃんっ子だったんですよ」
「その、あの……年頃の男女が、1つ屋根の下で寝るのは如何なものかと……」
「……」
女性は思わずキョトンとしてしまった。
だがまあ当然である。今どき翔のような天然ピュアっ子はなかなかいるものではない。
一応言っておくが、翔本人は至って真面目である。この発言や考えも女性のことを思ってこそなのだ。
「ふふふ、あははははは」
「えっ」
「あははっ、君、本当に面白い人ですね。今どきそんなこと気にするなんて。もう大学生でしょう?」
「そうですけど……そんなことって……」
必死に考え、必死に捻り出した気遣いの言葉をバカにされたような気がして、翔は少しムスッとした。
そんな翔を見て女性は慌てて付け加えた。
「ああ、悪い意味じゃないですよ。今どきこんな良い人がいるんだなぁって」
「良い人なんかじゃないですよ……ただ臆病なだけです」
「じゃあ、どうしてあの時助けてくれたんですか?」
下を向く翔。そんな翔の顔をのぞき込み、女性は尋ねた。
「……分かりません。ただ、そうするべきだって思っただけです」
「……そうですか」
翔の答えに、女性は満足気な笑みを浮かべた。
そして少しだけ気分の盛り下がった翔の手を握り、
「行きましょう? 私達の家に」
「いや、話聞いてました……?」
少しばかり呆れたような顔をする翔に、女性は軽く頬を膨らませて言う。
「聞いてましたよ。君はやっぱり良い人ですよね」
「いやそういうことじゃなくて……」
「じゃあ聞きますけど、これから暫く私と一緒に暮らすとして、私に何かしますか?」
「しないです。って言うよりできないですビビりなので」
断言する翔。女性はクスッと笑い、
「じゃあ平気ですよ。ほら、いつまでも外にいたら冷えますから、早く行きましょう!」
「ちょ、ちょっと……」
相変わらず戸惑う翔を、女性はぐんぐん引っ張って行く。翔が、これから女性にとってどんな存在になるかも知らず。