002
「『用事があるので先に学校へ行きます』」
その朝、凉花のアパートの扉に不格好に貼られたノートの切れ端をまじまじと真冬は見ていた。
「……珍しいわね」
昨日の件で、個別で教師にでも呼ばれているのだろうかと、思い当たる節を手探りしながら真冬は学校へ歩みを進めた。
なんだか随分と久しぶりに感じられる一人の登校だったが、ナディーヌと百悶着くらいあった時は一人で登校していたなと思い出す。
季節は秋から冬に移り変わろうとしていた。冷たい木枯らしが吹き抜ける。空は蒸し暑い夏よりもいつの間にか低くなり、どこか寂しさを覚えるような鈍い色をしていた。
気付けば夏に置き去りにされたように、秋はそれよりも早く駆け抜けてしまう。そして長い冬に入り、短い春が始まるのだ。こんなにも一年というのはせっかちだっただろうかと真冬は白い息を吐いた。
今までの一年はどうしようもなく長かった。夢の中のように、どんなに自分が走っても、流れる世界は億劫で。永遠のような一年が、永久に繰り返されていた。
やはり早いと感じられるようになったのは、ひとえに凉花のおかげだろう。
今年の夏は色々な体験をした。今まで見ていた世界に絵の具をぶちまけたように、変わってしまった。こんなにも友人と過ごす毎日が、楽しいとは思わなかった。
今思えば、宮守に告白しようとした事は運命だったのかもしれない。引越す際に交わした両親との“条件”に焦った愚策かと最近まで考えていたが、そのおかげで凉花と価値観を共有する事が出来て、宮守と友達になれたのだから。案外、荒んでいたあの頃の私も捨てたもんじゃないなと思う。
そんな事を考えていると学校まで目前とした所で、一人の少女が目に入った。その少女もこちらに気付くと、満面の微笑みで手を振りながら駆け寄ってくる。
「ご機嫌よう、真冬!」
「ええ、おはよう夏紀。誰か待ってたの?」
白金の髪を秋の重たい空と澄みきる風を断ち切って、きらきらと優雅に輝かせてナディーヌはくるりとその場を回って、辺りを見回した。
「真冬と三島さんを待っていたのですが、三島さんは遅刻ですこと?」
「ああ、違うわよ。なんだか用事があるから一足先に学校に行ってるらしいわ」
「まぁ、せっかく一時間も待っていたというのに、三島さんに会えないなんて! 神様は意地悪ですわ!」
「一時間って……ふふっ」
そういえば、私も凉花と遊ぶ時にだいぶ早く来すぎて驚かれたものだ。あの時は頬を膨らましてしまったが、今なら凉花の気持ちがわかる気がする。
「な、なんで笑いましたの!?」
「いや、私達って案外似たもの同士だなって思ってね。風邪をひくわよ。はやく教室に行きましょう」
真冬の言葉の真意が全く伝わらなかったナディーヌは、彼女は何が面白いのだろうと首を捻る。先に歩みを進めた真冬に慌てて追いついた。
玄関まで着くと、真冬は鞄から一通の手紙を取り出す。性懲りも無く手紙はどうかと思ったが、昨日の今日で、正面切って宮守を呼び出してしまえばクラスメイト達に余計な誤解を与えるかもしれないと考慮した、真冬なりの配慮だった。
今度こそ名前はきちんと書いた。内容は『放課後に屋上で話したい事があります』とだけ。きっとこの一文で十二分に話したい事は伝わってくれるはずだ。
宮守の下駄箱の中に、まだ上履きが入っているという事を確認して、そっとその上に置く。
初めて手紙を置いた時はこんなに簡単に置けなかったなと思い出した。停学明けのその日。昼からの登校だったが、わざわざ早朝に学校まで出向いて宮守の下駄箱を開けたのは今でも覚えている。
指と手紙が強力接着剤でくっついてしまったと錯覚するほどに離れなかった。右手に持つ手紙を宮守の上履きの上に置くために、左手で一本一本指を無理矢理離したものだ。
「真冬、何をしてますの? 行きますわよ」
「ええ、今行くわ」
あの頃とは違う。私は変わったのだ。真冬は一歩、新たな世界に踏み出す。
そんな真冬とは打って変わって、踏み出すどころか一歩後退した少女が一人。空き教室で机のバリケードを築いて、三島凉花は身体を丸めて体育座りをしていた。
本当は恒例となり、聖地でもある屋上に退避しようと思ったのだが、昨日の件で屋上の不正使用がバレたのか、今日の朝にはもうすでに扉に鍵が閉められていた。
これは困ったと思案したところ、奇しくも真冬が宮守を呼び出したこの教室を根城としてしまった訳だった。
夏休み明けの新学期に入ってからの一ヶ月と少し、全て出席していた授業を今日初めて休む。
前までは『授業をサボる』という行為に関しては全く何も感じていないどころか、背徳感さえ感じていたというのに、今では落ち着かずに、胸がそわそわしてしまう。
「……はぁ」
しかし、その胸のざわめきは決して授業をサボることに関しての罪悪感だけではなかった。
未だに凉花は自分が『女の子を好きかもしれない』という事実に正面から向き合えずにいた。
「いつまで悩んでるんだ、私は」
教室の寒気がじっとりと体温を奪い、瞼が規定事項のように重みを増していく。この教室は睡眠導入剤のお香でも撒かれているのか、下らない事を考えているうちに、凉花の意識は遠のいた。
【やぁ、久しぶりだね】
椅子が凉花に話しかけてきた。
「ええと、なんだか当然のように話しかけてくるけど」
【そりゃそうだ、僕達だって意志を持ってる】
今度は机がしたり顔で言う。顔なんてないんだけれど。
「それで、私に何の用?」
【用があるのは君だろ? なんでここに来たんだい?】
高く積まれたバリケードの一番下にいる椅子が笑う。
「あー……なるほど。うん、そうだね」
凉花の悟りきった様子に、机と椅子達がくすくすとざわめいた。どうやら机と椅子は笑い上戸な模様。さすがは蹴られても、踏まれても、落書きされても文句を言わないだけある。現代人よりは心が寛容だ。
「この世の『ルール』から外れる事が怖いんだけど」
凉花は誰にでもなく、目の前にそびえるバリケードに向かって切り出した。
【ルール? そんなの誰が決めたの?】
【総理大臣あたりか?】
また笑い出す。
「いや、君達と違って、人間は『ルール』に沿って生きないといけないんだよ」
【ちょっと本題が曖昧で分からないな】
【おじさん達は秘密にするから、どれ、話してみなさい】
どうやら机達はご年配のよう。
「女の子を好きかもしれないんだけど、私も女なんだよ」
【いいじゃないか、恋する乙女】
「それがどうにも世間が許してはくれないみたいで」
凉花は苦笑いを零す。その様子に、笑いあっていた机達は、真顔になった。
【君は世間に許されないから、逃げているのかい?】
「逃げる? 私は逃げていないよ、だって……」
【『だって、こんなに悩んでいるのに』】
隣にいる椅子が思考の先読みを掛けてきた。
【悩む必要なんてあるのかな。じゃあ仮に、なんだ。その、世間が許してくれないなら、真冬の気持ちはなんだって言うんだ?】
【世の中が許してくれない限り、真冬は一生『愛』を受けられないのかい?】
【君は、酷い奴だな。同性を好きなニンゲンは、どうやら人権はないらしい】
【良かった、俺達はこんな浅ましいニンゲンに生まれなくて】
【ニンゲンは誰が決めたかすら分からないルールに則って、本当の恋をすることすら許されないらしい】
口々に机と椅子が畳み掛けてくる。凉花にとっては非常に心の痛い“正論”を突きつけてきた。
【君は、本当のところ、自分の気持ちに気づいているのだろう?】
「いや、私はまだ……」
【逃げているんだろう。怖いんだ。世間から糾弾される事じゃない。真冬から拒否される事が】
「ち、違うよ。真冬は宮守が好きで、だから、私はそれを応援したくて、でも」
【……君はいつからそんな大人になったんだ?】
【好きな人を応援するのが、君の答えなのか?】
【おかしいな、君はこの前まで自分のしたい事をしたい様にする子供だっただろう】
【よくないな、実によくない。大人のふりをする子供ほど、気色の悪いニンゲンはいないよ】
「……じゃあ、私が真冬を好きだったら、どうすればいいの!? こんな中途半端な気持ちを伝えろって言うの!?」
【そうだよ】
「はぁ!?」
【伝えればいいじゃないか、中途半端な気持ちを】
そして呆れた様に、バリケードの頂点に君臨する古びた椅子が言った。
【君は中途半端なんだよ。だから中途半端な気持ちを真冬に伝えなさい。中途半端な君が、中途半端な気持ちを、中途半端ではなく包み隠さず伝える事に、意味があるのだよ】
「それで、私は振られろっていうの」
【……君は少し勘違いをしているね】
【そろそろ時間だ】
「待って、まだ話は終わってない!」
【いいや、僕達は結論を出した】
【大丈夫、僕達は見ているよ】
【たとえ世の中が認めなくても、僕達は認めているよ】
【それに君が思うほど、世の中は敵だらけじゃない】
【さぁ、行ってきなさい】
「待って!!」
そして、凉花は目を覚ます。




