002
喫茶店で別れた帰り道。ひたすらに凉花は自身の唇を指で押していた。「こうかな……」なんて小さな独り言を呟きながら。決して自身の唇の造形が気に入らずにコンプレックスからの無意識な行動などではない。
真冬の唇の柔らかさが片時も忘れられずに、あの全身を駆け巡る鋭い電流の快感が忘れられずに、なんとか再現しようと四苦八苦していた。
あれから、二人でどぎまぎしながら向かった先の個人経営の小さな喫茶店。
なんとまぁ、会話の続かないこと。凉花は思い返すと「そういえばさぁ」という会話の口切りを百回は使ったんじゃないかと大袈裟に思い返す。
思い返すと言えば彼女の唇。アイスティーを頼んだ真冬がストローに口付ける度に、何度こっそりと盗み見てしまったことだろう。
それは凉花が唇フェチとか、そういう理由では全くない。あの時の、雲のように軽く、マシュマロのうん十倍は柔らかい、この世のものとは思えない甘い真冬の唇。気になって、気になって、仕方が無かった。
「宮守と真冬も、キスした時はこんな感じだったのかな」
サランラップ事件のあの夜を思い返す。思えば、サランラップ越しとはいえ、二人はファーストキスを済ませていたんだったと凉花は思い出す。
その後、二人は自然と寝て、自然と仲良くなっていったが、凉花はどうにもそれは難しそうだった。
サランラップと生ではそんなに差があるのだろうか?
「な、生って……生々しいな」
自分の思考に堪らず突っ込んでしまう。とは言うものの、先ほどから唇を触る指は忙しなく色々な方法を模索していて、もはや凉花はキスの虜になってしまっていた。
足腰が砕けるくらい、官能的で甘く、柔らかく、脳味噌が蕩けてしまいそうなあの行為。
――真冬以外としても、そうなるのかな。
ふと湧いてくる疑問。真っ先に思い浮かんだのはナディーヌだった。この前の土曜日、ナディーヌが寝てなかったら襲われてたかもしれない。いや、それはないにせよ、唇の一つくらいは奪われていただろうか。
「いやいや、真っ先に女の子思い浮かべるのは可笑しいでしょ。これじゃまるで……」
思わず漏らす独り言。かと言って、凉花には想像出来そうな男子はいなかった。
……まさか、本当に女の子が好きなのか?
宮守。いやいや、ない。宮守のことは好きだ。若干トラブルメイカーというか、勘違いが激しいというか、そういう部分を含めても面白いし。何よりもあの裏表のない優しい性格はとても好感が持てる。だからといって、付き合いたいとかキスしたいとまでは思わない。当たり前だ。
ナディか。ないな。そもそも、彼女の事はよく知らない部分が多すぎる。艶かしい雰囲気に当てられた事も確かにあったが、これも決して恋愛対象に入るものではない。断言する。
「真冬……か……」
好きだけれど。真冬の事は大好きだけれど。
授業中、気付けば真冬を眺めていることなんて多々ある。白く、細い指でペンを持ち、指揮者のようにペンをノート走らせているところに見とれてしまうことだって日常茶飯事だ。
「……でも、ほら。それはさぁ、授業が暇だから」
誰にでもなく言い訳をする凉花。
「はぁ……考えるのは辞めた、辞めた」
遅れてやってきた思春期に溜息をつく。秋を感じさせるような、させないような曖昧な風に、憂鬱な夕日がぬるりと沈んでいく。
◇◇◇
「お、おはよう、真冬」
「え、ええ、おはよう凉花」
ぎこち無い挨拶から始まった翌日。いつも通りに迎えにきたま真冬。ただいつもと違うのは、互いに昨日の事を意識してしまって、またお互いに意識しているのがバレバレで、それが緊張に拍車をかけていた。
曇天模様な空は、まるで二人の心情のよう。
「じゃあ、行こっか」
「ええ、そうね。あっ」
「え?」
「雨」
凉花はその言葉で空を仰ぐ。それと同時に、さぁぁっと地面を濡らす雨が降ってくる。
「あちゃあ、今日の体育中止かなぁ」
「……私、傘持ってきてないわ」
「えーと、私も一本しかないから……一緒に入ろっか」
「え、ええ、申し訳ないわ」
ピンチがピンチを呼ぶ。気まずい静寂。「じゃあ……」とおずおず開いたビニール傘を少し真冬に掲げると、真冬は照れ臭そうにその中に入った。そして、二人は初々しい中学生のカップルのように歩き始めた。
「真冬、濡れちゃうよ。もうちょっとこっちきなよ」
「ええ、そ、そうね」
いつもなら手を繋ぐくらい簡単だった距離が、こんなにも緊張するなんて。微妙に空いている距離感が、お互いの緊張をより一層高めてしまう。
「今日、体育中止になればどうするんだろう」
「確か……他のクラスが体育館使うから、教室で保健体育の授業じゃないかしら」
「うーわ、性の授業じゃん!!!」
「あ、貴女ねぇ……ふふっ」
「だって本当の事じゃん! 超気まずいやつ!」
「そうね、“ちょーきまずい”やつ」
お互いに顔を見合わせて笑う。凉花は少し肩の荷が降りた気がした。難しいことは考えなくていいのだ。
緊張をほぐそうとか、いつも通りの会話を無理やり捻りだそうなんてしなくていいんだ。そんなもの後からついてくる。だって真冬とは遠慮をするような仲じゃないのだから。
「お二方、御機嫌よう」
不意に後ろから声をかけられる。
「……おはよう、ナディ」
白いフリルのような装飾が施された、日傘のような大きな雨傘をさしながら、不敵な笑みで佇んでいたのは夏紀ナディーヌ。
真冬は挨拶を返さずに、嫌悪に満ち溢れたような侮蔑の視線を送るが、ナディーヌは涼し気な顔でそれを無視した。
「あらあら、仲睦まじいことですわね。なぁに、真冬。私から三島さんに鞍替えですこと? さすが『レズ女』さんは節操がないですわぁ。あぁ、恐ろしや」
「ちょっとナディ!!!!」
「凉花。学校すぐそこだし、先に行くわね」
「え、ちょ、真冬!?」
凉花が止める間もなく、真冬は駆け出してしまう。呆然と置いてかれてしまった真冬はただ雨に濡れる彼女の姿を見つめる事しか出来なかった。すると、くすくすと馬鹿にするような笑い声が後ろから。
「置いていかれてしまいましたわね、三島さん」
「……ナディ、怒るよ」
凉花は眉間に皺を寄せて、ナディーヌに対して不快感を顕にする。怖い顔、とナディーヌは茶化してきた。作為的に他人の神経を逆撫でするナディーヌに、凉花はむかむかとした感情が込み上げる。
「ねぇ、どうしてナディはわざと人を怒らせたり、傷つけたりするの。そんな事をして楽しいの?」
「あら、怒らせてしまいましたか? それは申し訳ないですわ。お許しになって?」
「はぁ……もういいよ……」
これ以上話しても頭が痛くなると、溜息をついて学校への短い道のりを歩き出す。それを一緒に登校するのが当たり前とばかりに隣に並んでナディーヌは愉しそうに語り始めた。
「今日は本当に素敵な一日ね。雨って、とても素敵。落ち着くし、心が洗われるようだわぁ」
「……まぁ、分からなくもないけど」
清々しいくらい反省のない態度に、凉花が折れる。返事が返ってくるとは思わなかったナディーヌは少し驚き、許されたと勘違いしたのか目を細めて微笑む。
「でも、今日の雨は神様のお恵みだと思いますの。ああ、楽しい一日になりそうだわ! 早く四限目にならないかしら!」
興奮したように思いを馳せるナディーヌ。
「四限目? 四限目の体育は中止じゃないの?」
「こうしてはいられませんわ! 三島さん、先に行くわね! 御機嫌よう」
柄にもなくはしゃいで、小走りで凉花を置き去りにする。「なんなんだ……」、本日五分ぶり二回目の放置に、思わず呟いてしまう凉花だった。




