003
「う……うぅうううぅう……!」
「ちょ、え、な、なんで貴女が泣くのよ!」
「だっでぇ……ううう……」
ぽろぽろと大粒の涙を零す凉花を見て、真冬は思わず笑ってしまう。気づけば、凉花は真冬の手を強く握っていた。涙を堪えようと、顔をくしゃくしゃにして我慢するが、そんなことは厭わずに涙は重力に逆らわない。
「ふふふ、本当に凉花って優しいわね」
「ぞんなごどないよ」
「もう、涙で顔が台無しよ。ティッシュあっちだったわよね。取ってく――」
真冬が立ち上がろうとした刹那、凉花は真冬を抱き寄せた。真冬は驚きながら、凉花の胸の中で、絶え間なく漏れる嗚咽を聞く。腕枕を折り曲げて、凉花の髪を撫でた。さらさらで、細く、柔らかい。
「もうちょっとこのままで……ううう……」
「まったく。貴女って意外と泣き虫ね」
子供のように泣く凉花が愛おしい。真冬は黙って、凉花の髪を撫でつけた。
真冬にとって過去を“過去”として消化できたのは、凉花のおかげだと思っている。感謝しても、し尽くせないだけの大切な友人だ。
他人を拒絶し続けてきたが、凉花にだけは心を許せる。それはきっと、凉花の他人の痛みを分かち合える優しい性格が真冬の心の凍土も溶かしてくれたんだろう。
二人は言葉を発する事無く、わかり合いながら長く抱き合った。
「思い出すわね、貴女と出会った日のこと」
「え?」
「ほら、どっかの誰かさんが大泣きして、抱き合ってたじゃない。忘れた?」
「お、覚えてるけど、真冬だって泣いてたじゃん」
「それは記憶違いじゃないかしら?」
ふふふ、と笑みが零れる。
「でも、ごめんなさいね。貴女のことを無視したりして。本当に愚かだわ」
捨てられるのが怖かったの、と真冬は続ける。其の言葉を聞いて、凉花は強く真冬を抱き締めた。
「友達だもん、捨てるわけないじゃん。大丈夫だよ、真冬が思ってるほど、“友達”ってそんな簡単に切り捨てたりするようなもんじゃないよ。私はもちろん、宮守もすっごい心配してた。私達は、みんな真冬のことが大好きだよ」
「……私も好きよ、凉花」
「私も、大好きだよ」
二人は幸せに満ち溢れていた。安堵した。このまま、離れる事は無いのでは思うほど、強く、抱きしめあった。第二の影には気付かず。
ボタりと、何かが部屋の扉の前で落ちる音で二人はハッと振り向く。
「お、お邪魔しましたぁああ!!!!!!」
「ちょっと待て宮守ぃいいい!!!!!!!」
ウサイン・ボルトも裸足で逃げ出すようなスピードで部屋の前から逃げ出す宮守を、新幹線のぞみ号が引退を決意する速度で凉花は捕まえる。
何度目かはもう分からないデジャヴに、凉花は頭を抱える思いだった。
◇◇◇
「って事なんだけど、理解した?」
「はぁ……」
夕暮れの日差しが目に眩しい午後。ソファに無理矢理座らせた宮守に、事細かに凉花は説明し終わった。
何だか壮大な勘違いに気づいた宮守は、その説明を理解しているのか、していないのか。受け身の姿勢になって、目を白黒させながら、ただ提示させる事実の前に頷くだけのマシーンと化していた。
「五十鈴、本当に理解したの?」
訝しげに真冬が尋ねると、またもや宮守は曖昧な返事を返して、こくこくと頷く。理解してないねと凉花と真冬は顔を見合わせた。
「それにしてもさぁ、真冬も宮守も、なんで勝手に家に入ってきちゃうかなぁ……」
「だって、開いてたんだもん」
「そうね」
「チャイムくらい鳴らしてくれたら、無駄な勘違いも生まずに済むのに」
「だって、貴女。チャイムで起こしたりすると機嫌悪くなるじゃない」
「そうそう」
「まぁ、そうだけどさぁ」
不貞腐れながらも二人の言い分を素直に肯定する凉花。恐らく、一人暮らしの凉花の家は、二人にとって他人の家というより、溜まり場くらいにしか思っていないのだろう。
寝起きとは言え、ナディーヌが家に入ってきた後に鍵を締め忘れた自分も悪かったと凉花は反省する。
「そういえば、雪ちゃんは今日どうして凉花ちゃんの家にきたの?」
「あぁ、そうそう。夏紀の事が少し分かって、吹っ切れてね。凉花に謝りに行こうと思って。その後に五十鈴の家にも行こうと思ってたのよ。改めて、二人に心配かけるような真似をしてごめんなさい」
「いいよ、大丈夫だよ! 雪ちゃんが元気になってくれて本当によかった! ね、凉花ちゃん!」
「うん、本当によかったよ。それで、ナディの事が分かったって、どうしたの?」
「ええとね、こんな事あまり言うのもどうかと思うのだけれど」
真冬は言いづらそうに口を濁す。うーん、と少し考えてから再び口を開いた。
「……その、彼女。虐めにあって、転校してきたみたいなの」
「は? ナディが?」
理解が追いつかない。あの人気者のナディが虐められていた? 虐める方じゃなくて?
小学生の頃の話を今聞いた凉花も宮守も、まるで想像がつかなかった。
「ええ。自業自得と言えば、自業自得なんだけれども。私を虐めていた事実を、同級生に言いふらされたみたいで……なんで、言いふらされたかは分からないけれど、彼女の本性上、恨みを買っていたのかもしれないわね」
真冬は続ける。
「それで、本性を知ったクラスメイト達がどんどん離れていったらしくて。夏休み前には『孤独なお姫様』って揶揄されるほど、一人ぼっちで陰口を本人の目の前で叩かれてたみたい。その他にも色々と」
「そうなんだ……ナディちゃん……」
その話を聞いても、凉花は信じられなかった。学校ではナディーヌといる機会が一番多いからこそ、あのナディーヌが転校せざるを得ない状況までに追い込まれるなんて。
しかし、それと共に、親愛、親愛と、やたら仲を強調したり、あれだけ大勢の人達に愛されてもなお、自分に執着していた意味が少し理解出来たような気もした。
真冬の手前、声には出せないが、彼女も彼女なりに踠き苦しんでいるのだろうと思うと、切なくなってしまう。もしかすると、真冬に対する当てつけなんかじゃなくて、ナディは本当に自分と仲良くなりたかったのではないのだろうか。
不器用なナディなりのアプローチだったのではないのか。そんな同情心を抱いてしまう。
「……上から目線になってしまうのだけれど、助けてあげたいと思ったわ」
凉花と宮守が頷こうとした瞬間、「でも 」と真冬は続けた。
「今日のあの様子じゃ、まだ懲りてないみたいね。いいわ、夏紀が反省するまで、ゆっくり待ってやろうじゃないの」
ギラリと光る瞳の奥で、メラリと炎を燃やす。その恐ろしい目つきに、二人は頷きかけた首をぴたりと止めて、恐怖を感じる。それと同時に、いつもの真冬が戻ってきたと安堵する感情も込み上るのも事実。
でも、まぁ、真冬の言うことはわかる。本人が助けを求めているのか分からない以上、こちらに打つ手はさほどない。それどころか、今日はまたもや真冬になにかするような啖呵を切っていた事を考えると……
ますますナディーヌの事が分からなくなるばかりだ。
そんな事を考えていると、真冬は思い出したように宮守に問いかけた。
「あ、五十鈴は? なにか凉花に用事があってきたんじゃないの?」
「あぁ、凉花ちゃんじゃなくて雪ちゃんにね。最近落ち込んでるようだったから、お菓子作ってきたの。でも、雪ちゃんのお家にいったら、ゆかりさんが『凉花ちゃんの家に出掛けてるよ』って」
「え、待って待って! 宮守って真冬の家知ってるの!?」
「知ってるっていうか、何回か遊びにいってるよね?」
「ええ、夏休みに数回ほど遊んだわ」
「ええ〜……」
なんだか悔しいような気持ちなった。言ってしまえば嫉妬なのだろう。「私はまだ行ったことないのに」と子供じみた態度で凉花が口を尖らせると、真冬は「今度いらっしゃい」とくすくす笑ってみせた。
夏休みのお泊まりから急激に仲良くなったと思えば、実はそういう事だったのかと、蓋を開けてみたら簡単な事だった。
しかし、いつもならうじうじと悩む凉花も今日だけはどうでも良かった。
また真冬とこうやって笑いあえる日がやってきたのだから。
真冬と宮守と、こうやって語り合える日が再びやってきたのだ。こんな嬉しい日に嫉妬なんてしてる場合じゃない。
宮守が持ってきたクッキーに手を伸ばしつつ、幸せを存分に噛み締める三人の夕暮れは、まだまだ終わりそうにはない。




