003
結局のところ睡魔なんて、この世の大魔王みたいな凶悪な敵には勝てるはずもなく。
背中と胸に心地良い人肌の体温を感じながら、凉花はとうとう念願の微睡みの世界へ帰還して行った。
部屋に小さく響くのは仲良く寄り添う少女達の寝息。
そこに近づく不穏な影には気づけるはずもなく。
鉄製の扉がぎぎぎと軋みをあげながら開いた。
おどろおどろしく影が侵入する。ゆっくりと音を立てぬように細心の注意を払いながら、その影は居間へ歩みを進める。
時刻は正午をちょうど少し過ぎたとき。
居間を見渡すが、部屋の主は見つからない。本当に鍵を閉め忘れて出掛けてしまったのか、侵入した鍵は怪訝そうに思慮した。それともまだ寝ているのか?
凉花が眠る部屋を恐る恐る覗く。
「まだ、寝てたのね」
呆れのような、安堵のような息をほっと吐いたのは雪代真冬。タオルケットの膨らみから凉花の姿を確認すると、一気に引き剥がした。
◇◇◇
何が起きたのか理解出来ない。横になっていた格好から頭だけを勢いよく起こして、目を白黒させる。
そして、雪代真冬の姿を確認した。しかし、それは夢か幻か。認識するまでに数秒のタイムラグ。
「ま、真冬!?」
思わず声を荒らげてしまう。まさか、真冬が来たとは。
想像もしなかった凉花は困惑した。
しかし、一番困惑しているのは雪代真冬その人だろう。
タオルケットを握りしめながら、必死に状況を把握しようと目を丸くしていた。それも仕方が無いことだ。
真冬の目に図らずも飛び込んだ光景。
丈の短いハーフパンツからあられもなく露出している凉花の太腿に絡みつくように脚を入れているのは気持ちよさそうな寝息を立てる夏紀ナディーヌ。
これはいい。百歩譲ろう。そして、そのナディーヌが腕枕をして安心しきったように頭を預けていた三島凉花。
……まだ我慢できる。1万歩譲って、ここはいい。置いておこう。
そのナディーヌが凉花のTシャツに手を入れて、胸をがっしりと掴んでいるではないか。
これはまるで――
「情事が終わった後」
ぽつりと真冬が呟いた。
何を言ってるんだコイツはと凉花は眉を潜めるが、それも数秒。自分の姿を確認する。
サァァッと血の気が引いたのを感じた。
「ち、違っ!!! ナ、ナディ、起きて、待って真冬、これはね」
慌てて胸を掴むナディの手を振りほどき、身体を起こす。
しかし、その慌てようはまるで浮気現場を見られただらしない夫そのもの。
「……な、なにが違うのかしら」
ぴくぴくと青筋を浮かせながら、必死で激昴を押さえ込もうとする真冬。
「あ、あのね! ナディ早く起きろ!!!」
荒々しくナディーヌの肩を揺すると、金色の長い睫毛を気だるそうに擦りながら目を覚ます。開けきらない目を伏せて、ふぁあと一つ大きな欠伸。
「何ですの、騒々しいですわね……って真冬?」
一気に脳が覚醒する。ぱちくりと瞬きをして、真冬の姿を確認すると不思議そうに見つめた。
「おはよう、夏紀。随分と仲がいいのね」
「あら、嫌ですわ。昔みたいに『なでぃちゃん』と呼んで下さらないの?」
「……そんな事より、何か言う事はないのかしら?」
その言葉で隣に情けなく佇む凉花を見る。あぁ、と言った様子でくすくすと笑い始めた。
「別にありませんわよ? 親愛なる友人の三島さんと一緒に寝ていただけですわ。なにか問題でも?」
「親愛なる友人とは、淫らな事もするものなのね。初めて知ったわ」
露骨に苛々と腕を組む。今にも真冬の豪腕が唸りそうなそのやり取りを、はらはらと凉花は見ることしか出来なかった。
「淫らな事? あら、何を仰っているのかしら?」
わなわなと震えながら真冬は口を引き攣らせる。
「二人で絡み付いて、腕枕もして、挙句の果てには服の中に手を入れて……貴女、言い逃れ出来るとでも思っているの?」
ギロリと吊り上げた目で凉花を睨む。思わず「ひぃ」と情けない声をあげて丸くなった。
「あらやだ怖いですこと。私達は二人で寝ていただけよ? わたくし、いつも人形を抱いて寝るから、ついね。服の中に手が入っていましたか? あぁ、申し訳ないですわぁ、三島さん」
白々しく演技をするナディーヌは申し訳なさそうに凉花の手を取る。凉花は余計な事を言うまいと、ナディーヌに押され気味に大きく頷いた。
「そ、れ、と、も」
ナディーヌは続ける。
「“仮に”、私達がそういう関係であったとしても、何か問題があるのかしら?」
“仮に”を大きく誇張して、挑発的な目つきで真冬をにやにやと見つめる。すると、真冬がふんっとそのナディーヌを鼻で嘲笑った。
「『凉花は私のものよ!』」
ハッと呆れたように両手をあげて、大袈裟なアメリカンポーズ。
「と、でも言って欲しいのかしら? やり口は昔から変わってないのね」
「何を仰ってるのかさっぱり」
「申し訳ないけれども、凉花は私の所有物なの。正真正銘の『私のもの』ね。貴女が手を出せる程、簡単な話じゃないわ」
「……何を仰ってるのか、本当にわかりませんわね」
「馬鹿な貴女でも分かるよう一から説明すると、凉花は私に全てを報告する義務があるの。そして、私はそれを承認、却下出来る権利がある。恋愛事でも例に漏れずよ。だって私は凉花と『所有物の契約』を交わしたから」
そんな事は契約した覚えがない!!!
凉花は真冬のデタラメ過ぎる話に、口をあんぐりと開けて唖然とする。いや、真冬の思考回路だと“所有物”の約束はそういう事になるのか!?
言ってのけた真冬はと言うと、勝ち誇ったように腕を組んでナディーヌを見下ろしている。
「まぁ、こんな契約は無くても私には凉花の行動に口を出す権利があるの」
「……は?」
ナディーヌが不機嫌そうに聞き返す。
一呼吸置いて、真冬は口を開く。
「だって、私と凉花は親友だもの」
いとも簡単に言った。それが二人の共通認識であるかのように。
凉花から今まで曇っていた、真冬への想いが晴天のように晴れていくのを感じる。
今まで、真冬と親友か、本当の友達なのかなんて悩んでいた事が、その一言で馬鹿馬鹿しく感じた。
「……馬鹿じゃねーの」
俯いたナディーヌがぽつりと呟いた。
バッとベッドから立ち上がり、真冬に向かっていく。様子が普段とはまるで違う。
「何が“親友”だよ。……絶対にお前を滅茶苦茶にしてやる」
「ええ、やれるものなら。でも残念ね、今回の私は友人に恵まれてるの。小学校の時のようにはいくと思わない方がいいわ。“独りぼっちのお姫様”」
そう言うと、ナディーヌは真冬を荒々しく押し退けてドタドタと帰ってしまった。
呆然とその様子をベッドから眺めるしか出来なかった凉花。
「……ふん、いい気味よ。気持ち悪い仮面を被って」
「な、何がなにやら」
ここで初めて真冬との会話が成立する。
「あれが、あの女の本性よ。腹黒くて質の悪い、腐ったやつ」
「そ、そうなんだ」
「さ、て、と」
一連の流れに区切りを付けるように、ニコリと真冬が微笑む。訳もわからず凉花も頭にクエスチョンマークを浮かべながら、ぎこちない笑みで返す。
「次は、貴女の番ね」
そして、近づいてくる。閻魔大王も凍りつく、絶対零度の雪女。細める瞳の奥には、触るもの皆凍りつかせる蒼き炎が蠢いて。
ゆらり、ゆらりと人の心を手放す真冬は、獲物を見つけた妖怪『雪女』そのもの。
火照った身体の熱が一気に奪われ、身震いしたのは悪寒か恐怖か。
ベッドの端にじりじりと後ずさりをするが、すぐに壁に到達して、それも二三歩の悪あがき。
ぎしりとベッドを踏んで、近づく真冬。
口角をあげて、これからの惨劇を楽しむよう。
「ま、待って、あれには訳が」
「言い訳は地獄で聞くわ」
そして片手で頭を掴まれ、下される氷結の採決。
ギリギリと力が徐々に加わり……
「いっ、いた、痛たたた!!!!!」
その日、凉花のこめかみには真冬の指跡が一日中付いてたという。




