002
「じゃあ、朝礼終わり。委員長」
「起立、気を付け、礼」
弾けるように教室の空気がざわめく。皆、ナディーヌが気になって仕方が無いようだった。
しかし、ナディーヌはそんな事はどうでもいいのか、笑顔という仮面を顔に貼り付けたまま、一限目の授業の準備を始める。
「真冬、ナディーヌさんとは小学生のクラスメイトだったの?」
俯く真冬を気遣うように、おずおずと真冬が問いかけた。その言葉に真冬はハッとする。
「え、ええ。少しね」
ナディーヌに気を使うように小さく答えた。
右に座るナディーヌをきょろきょろと気にするように、その様子からは動揺も伺えた。
「……別に言いたくない事ならいいけど、何かあるなら相談してね」
凉花はそれだけ言うと、珍しく教室を出て屋上へ行かずに教科書を広げる。
今のは失敗しただろうか、凉花は思案する。
真冬から自分で悩みの種を打ち明けて来る事なんてあるのか。しかし、無理矢理聞くような雰囲気でもないのはわかる。それより、さっきの台詞は流石に臭すぎたか?
凉花はぐるぐると目まぐるしく思考した。が、結果は出る訳もなく。
「はぁい、始めるわよ〜」
いつの間にか教壇に立っていた現国の担当教師が二度手を叩いた。先程の朝礼終わりのような、無機質で機械的な挨拶の作業をクラス委員長が済ませる。
それは昼休みだった。
休み時間の度にクラスメイトに囲まれていたナディーヌが軽い足取りで真冬を超えて、凉花の元へと駆け寄ってきた。
「ご機嫌よう、三島さん」
窓からさんさんと降り注ぐ太陽光を、その自慢の白金の髪に反射させながら。
「あ、ナ、ナディーヌさん。どうも」
「あら、わたくしの事なら親愛を込めて『ナディ』と呼んでくださいませ」
多少、演技のような大袈裟なアクションを交えて、凉花の両手をしたたかに握る。
親愛。聞き覚えのある単語。凉花はぼんやりと頬にキスされた事を思い出し、落ち着かない様子だ。
「……ナディ」
「ええ、それでいいですわ」
「わ、私になんの用?」
訝しげに、しかし不快感を与えない程度に出来るだけ明るく、作り笑いをして凉花が問う。
「一緒にお昼ご飯を食べてくださいませんか?」
「私と!?」
意外な言葉に目を丸くする。
凉花は周囲を見渡すと、ナディーヌとお昼を共にしようと躍起になるクラスメイト達がこちらを凝視していた。その異質な教室の空気に凉花は怖気づく。
ふと宮守が視界に映る。いつもお昼休みになると友人達に囲まれている宮守がポツンと机に座り、こちらを見ていた。
目で訴えてくる。宮守もまた教室の空気に異変を感じている一人であった。
ナディーヌは授業間、たった数十分の休息の間にクラスメイト達の心を奪っていた。男子生徒も、女子生徒も関係なく、掌握してしまったのだ。
そのカリスマ性は尊敬を通り越して、もはや恐ろしい。凉花も宮守も、未だ原因こそは分からないが、真冬の怯えを見て警戒していなければ、きっと心を掴まれていただろう。
凉花は得体の知れない恐怖にゾッとした。
「わたくしとランチは嫌かしら?」
眉を潜めてナディーヌが落ち込む素振りを見せる。
「えぇと……」
隣に座る真冬を見る。すると真冬はこちらを伺う訳でもなく、勢いよく立ち上がると鞄を持って教室の外へと消えてしまった。
「真冬、ちょっと……」
真冬を追いかけようと慌てて席を立つ。
しかし、それをナディーヌが阻んだ。ぱしっと凉花の腕を掴む。
「ねぇ、お昼一緒にしましょう?」
顔こそ笑顔だが、無言の圧と言わんばかりににこにこと凉花に微笑む。
ここまできたらと、凉花はとうとう折れる。
「……わかった。じゃあ、着いてきて」
凉花はクラスメイト達の羨望半分妬み半分の、嫌な視線を掻い潜って教室の外へ出ようとする。
途中、宮守とすれ違う。机に座る彼女は、心配そうな目で凉花を見上げていた。
「大丈夫」と短く一言だけ交わす。
ナディーヌを引き連れて行くのは、誰も来ない屋上だ。その方がお互いにやりやすいと思った。
「まぁ、ここって禁止されてますわよね?」
屋上を物珍しそうに見渡すと、ナディーヌはくすくすと笑って見せた。
「人がいない方が話しやすいでしょ」
凉花は心を決めて、ナディーヌに向き合う。
口をきゅっと固く結ぶ。額に冷めたい汗を感じる。
「ふふふ、わたくしは別にいいのだけれど。何か聞きたい事でもありますの?」
そんな凉花を嘲笑うように、一歩凉花に近づいた。
「ナディは、真冬のなんなの?」
逃げちゃ駄目だ、凉花はじっとナディーヌを見つめた。思えば今まで逃げてばかりだった。
小中学生は嫌われたくない一心で本心を隠しながら、やり過ごしてきた。高校に入学してからもだ。
早々と授業から逃げて、サボり癖がついた。そして、クラスメイトに馴染めず、ますます教室に居づらくなった。
誰にも、嫌われたくなかった。
でも、それ以上に皆に好かれたかったのだ。
――今は、違う。
大切な友人が出来たから。
その友人が困ってるなら、自分が立ち向かう。
「……へぇ。思ったより、強い方でしたのね」
「答えて、ナディ」
「そうね、真冬からは聞いてないのかしら?」
「うん、何も」
「あら、意外と貴女達って仲良くないのね」
ずきりと心が痛んだ。
違う、そうじゃない。凉花は自分自身に言い聞かせる。一つ深呼吸をした。
ナディーヌは人の心の隙間に入り、取り入ろうとする天才だった。
気を少しでも許せば、持っていかれそうだ。
「いいから、答えてよ」
敵対心を露わに、凉花は踏ん張る。
「あら、怖いですわ。そうですわね、私は真冬と友人よ? 小学校時代のね。朝礼の時、聞いてなかったのかしら?」
茶化すようにナディーヌは凉花に身体を触れる距離まで詰め寄ると、舐めるように見上げてきた。
「そうじゃなくて。……虐めてたんじゃないの」
確信と言える程、根拠はない。無かったが、真冬の怯えようを見るに遠からず外れてはない筈だ。凉花は強く言ったつもりだが、ナディーヌはその“迷い”を容易に見破ったようだった。
「ふぅん。三島さん、確信もないのにそんなことを仰るのね。酷いお人だわ」
くすくすと嘲笑う様子は変わらない。じりじりと近づくナディーヌ。一歩、また一歩と凉花は下がってしまう。そして、とうとう扉まで追い込まれてしまった。思わず弱気になる。
「で、でも……」
「三島さん、綺麗な肌ですわね」
にこりと微笑んだ。しかし、その笑みは凉花にはまるで悪魔のように感じられる。
真冬と初めて目が合った時のような恐怖心が、足元から急激に込み上げる。膝の力が抜けて、へなへなと扉によし掛かったまま、座り込んでしまう。
ナディーヌは覆いかぶさるように凉花の耳元へ顔を近づける。
「ねぇ、傷付けてもいい?」
ゾクリと悪寒が走った。息が荒くなる。突き飛ばそうとした手に上手く力が入らない。
「い、嫌……」
声すら上手く発せない。
全ては彼女に支配されつつあった。
「可愛く、付けて上げるわね」
首元に歯が突き立てられる。彼女の鋭利な八重歯が、柔らかな皮膚へゆっくりと食い込んでいく。
「や、やめ、やめ……」
全身が震え出す。今にも心が折れそうだ。いや、もう折れてるのかもしれない。
気付くと頬から涙が伝っていた。
「なんてね」
ナディーヌが首からパッと離れて、立ち上がる。彼女は愉しそうに涙を流す凉花を嗤っていた。
「ごめんなさい、つい虐めたくなる顔をしてたから」
悪気なんて一ミリもなく。
化け物を見るように凉花は息を荒らげながら、彼女を畏怖する目で見上げていた。
「いいわ、教えてあげる」
そして、ナディーヌは口角を釣り上げながら凉花に言い放った。驚愕の一言を。
「わたくし、真冬の恋人ですの」
世界が、時間が、空間が歪んだ気がした。
いとも平然と言って退けたその一言に、凉花は酷く眩暈がする。思考が追いつかない。
ただ、呆然とその事実を突き立てられるしか、凉花には出来なかったのである。




