001
真冬は駆けた。
ひたすら、“彼女”から逃げ延びる為に
恐怖に支配されたその身体をめいいっぱい動かした。
引っ張られる凉花と宮守は、そんな真冬にどこか恐ろしさを感じる。
「ま、真冬!! ゆかりさんはいいの!?」
真冬の足取りは駅の方へと向いていた。
河川敷からは大分離れている。
凉花は真冬の手を大きく引いて、彼女の足を止めた。運動の得意ではない宮守はへたり込むように、しゃがんで肩で息をしている。
「はぁ……はぁ……」
まるで怪物に目をつけられた、小さな小動物のように。恐怖という二文字が植え付けられた真冬の目は酷く頼りなく、荒い息は有酸素運動のせいだけではない気がした。
「ゆかりさんも、一緒に帰った方が」
「あれ? 私の話してた?」
背後から軽妙な声が聞こえてくる。
にこにこと朗らかな笑みを浮かべてゆかりがやってきた。先ほどの“仕事”の表情とは違う。凉花や宮守の知っている、“普段”のゆかりであった。
「ゆかりさん!? さっきからなんで居場所わかるんですか!?」
「まぁ、これとか色々ね」
無線機のような、浴衣には不釣り合いなごつごつとした機械をちらつかせる。恐らくそれはGPSか、なにかだという事は何となく凉花でも察しがついた。
「それより、どうしたの?」
ゆかりが凉花の背後で怯えている真冬を覗く。
酷く焦燥しきったその様子を少し訝しんだ。
「いや、なんか……」
「ゆかり」
凉花の声を遮るように真冬がゆかりを呼ぶ。
「夏紀が、会いに来た」
『夏紀』という言葉を聞いた途端、前にいる凉花を軽く押しのけて真冬の肩を抱く。
「大丈夫、落ち着いて。まだこの近くにいるの?」
「河川敷の方に」
ゆかりが思案するように少し目を伏せる。
この状況は好ましくないもの、いや、最悪なものだという事は二人の様子から容易に察する事が出来た。
「帰ろう、真冬。ごめんね、凉花ちゃん、宮守ちゃん。ちょっと先に帰るから」
顔は相変わらず険しいままで。凉花らの返答を聞く前に、ゆかりは真冬よ肩を抱いて駅へと歩いていってしまった。
呆然と取り残される二人。
「……何だったのかな」
ぽつりと宮守が呟く。凉花は事態を飲み込めず、目を丸くしたまま首を傾げた。
真冬達が夏の夜に消えるように見えなくなる。
花火の音はとうの昔に消え去り、続々と人混みが駅へと移動し始めた。
まるで凉花と宮守だけが、その空間に置き去りにされたような胸のざわめきを感じる。
金髪の彼女の笑みが不気味に思い出される。不穏な夏祭りが終わりを告げ、そして嫌な予感だけが漠然と凉花の心に残った。
◇◇◇
あの日から真冬から連絡は無かった。
一度だけメールを送ったが、返信すらない。
「まぁ、学校に行ったら会えるよね」
凉花は丁寧にクリーニングされた、パリッとしたワイシャツに袖を通す。
あれから5日が経った。今日は久しぶりの登校日である。
いつもなら多少の遅刻も厭わないが、今日だけは早く学校へ着きたかった。真冬が心配で仕方が無い。朝になるとひょっこり、いつもの様に嫌味を言いながら玄関に立っているんじゃないかと淡い期待も持っていたが、それは案の定叶わなかった。
普段より二十分も早く自宅を出る。
歩みは軽かった。真冬がきっと待っているから。
学校はいつもより賑やかだった。
多くの人が久々に会う友人達と話を咲かせて、夏休み前とはまた違う浮かれ気分でいる。
しかし、凉花だけは違った。
教室に入るや否や、真新しい制服だらけの空間を隅々まで見渡すが、真冬はいなかった。
始業時間まであと十五分程。
まぁ、あと数分で来るかと、誰と挨拶を交わすわけでもなく一番奥の窓側の特等席に腰をかける。
ちらりと携帯を確認したが、真冬から連絡は無かった。
数分後、宮守が教室に入ってくる。
相変わらず人気者の彼女はあっという間に友人達に囲まれてしまった。
凉花はそんな宮守と目と目だけで小さく挨拶を交わす。宮守は凉花の隣の席を確認したので、凉花は小さく首を横に振る。
宮守も真冬を心配する一人であった。
(まさか、今日来ないのかな)
始業時間まで残り数分。嫌な予感が心を過ぎる。
しかし、それもすぐに杞憂と終わった。
教室が一瞬息を呑むような静寂に包まれる。皆、扉から入ってきた彼女に目を奪われていた。
「真冬!」
凉花はがたりと席を立って、真冬の元へ駆け寄る。凛とした彼女は、そんな凉花を見るとふっと笑っていつもの調子。
「あら、朝から尻尾を振って駆け寄ってくるなんて、貴女まるで犬みたいよ。まぁ、飼い主の私に媚を売ってくる可愛らしい所は評価してあげてもいいけれど」
「誰が犬だ!!!」
良かった、いつもの真冬だ。凉花は安堵した。
「連絡ないから心配したんだよ」
「あぁ、ごめんなさい。あの日、高熱があったみたいで。今日、治ったばかりなのよ」
「え!? 大丈夫なの?」
「ええ。それよりもお祭り、先に帰って申し訳なかったわね。後で宮守さんにも謝らないと」
「あー、気にしなくていいよ。でも宮守も心配してたから、体調不良だったことは教えた方がいいかとね」
「ええ」
何でもないような日常が帰ってきた様で、凉花はほっと心を撫で下ろした。
がらりと扉が勢いよく開く。担任だ。凉花は教室の正面に掛けられた時計を見ると、時刻はもう始業の時間だった。
「ほら、さっさと席に戻れぇ。……よし。おはよう、皆久しぶりだな。ちゃんと元気にしてたか?」
若干くたびれたスーツを着た初老の担任が軽く挨拶を済ませる。
「んで、今日はだな。実は新しい仲間がな……まぁ、転校生だな。ウチのクラスに入る。ナディーヌ入ってこい」
ざわつく教室。静かに開かれた扉。輝きを放つような金色の髪、ガラス玉のような青く丸い瞳。アルビノを彷彿させる白い肌。歓声があがる。
彼女はにこりと笑うと教壇へ上がる。
「じゃあ、自己紹介して」
「はい。皆様、初めまして。わたくしは夏紀ナディーヌと申します。ナディとお呼び下さいませ。宜しくお願いします」
手短に。教室にいる者は皆、美しい彼女に見とれてしまっていた。次第に拍手が伝播する。
「あー、ナディーヌはハーフだそうだ。皆、仲良くやってくれ。席はそうだな……」
「笹岡先生、出来れば雪代さんの隣がいいのですが。彼女とは小学生の頃、クラスメイトだったので」
ナディーヌが雪代を指名する。
雪代は、いや、凉花と宮守も、三人は驚きのあまり声すら出なかった。あの日の、事件とも呼べる、その根源であった彼女が転校してきたのだ。無理はない。
「あぁ、そういえば言ってたな。 まぁ、それなら。田中、そっちの空いてる席と、雪代の隣のその席な。代わって貰えるか?」
「は、はい」
「申し訳ないですわ」
男子生徒に微笑みながら謝罪をするナディーヌ。その様子一つ一つが様になっていた。男子生徒は照れながら席をおずおずと移動する。
そして、その席へ、真冬の隣へ。教壇を降りて、ゆっくり近づいてくるナディーヌ。
凉花はハッと気を取り戻して右隣の真冬を見遣る。
真冬は一つ固唾を飲んで、薄い下唇を強く噛んだ。
「真冬、大丈夫なの」
口早に小さな声で真冬に話しかける。
「ええ、最悪過ぎて言葉も出ないわ」
机に置かれた拳は強く握られ、震えている。
そして、ナディーヌがとうとう隣にやってくる。
席に座る真冬を見下ろす様に、立ちはだかった。
「奇遇ねぇ、真冬。まさか、同じクラスになれるなんて。運命なのかしら?」
真冬の耳元で、嘲笑うようにくすくすと耳打ちをする。クラスメイトは何の話をしているか分からず、ただ呆然とその様子を傍観していた。
「なにが奇遇よ……どうせ貴女が仕組んだのでしょ」
「あら、強気ね。この前みたいな怯えた表情を見せてくれのかしら?」
キッとナディーヌを睨む真冬。
「あら、怖いですわ。“四年前”とは全然違う」
その言葉を聞いて、真冬は一瞬動揺する。その動揺をナディーヌは目敏く見逃さなかった。
「やっぱり、虚勢でしたのね。楽しくなりそうね」
ナディーヌは真冬の耳元から顔を離すと、クラスメイト達にその天使のような微笑みを振りまいて席についた。
真冬はただ己の拳を見つめるしか出来なかった。




