003
「あ〜、天国だわ」
着回して生地が伸びたTシャツが、こんなに気持ちの良いものだとは思わなかった。
いつも凉花が寝転がっているベッドへ、本人の真似をして飛び込む。
なんの変哲もないベッドがかくも心地好く幸福感を満たしていく。心から幸せだと断言できる。
肌触りの良いタオルケットを抱き締めて、深呼吸をする。
「……凉花の匂いがする」
厳密に言えば、きっとそれは柔軟剤の匂いなんだろうけれど。オレンジのような、柑橘系の匂い。そういえば凉花はオレンジが好きだって、前に言ってたような気がする。もしかしたら本当に凉花からオレンジの匂いがしてるのでは。
幸福で思考が麻痺してるのか。考えようとはしていないのに、新幹線の電光掲示板のニュースのように勝手に垂れ流れてくる。
今、凉花は何をやってるのかしら。
ふいにタオルケットから顔を離してハッとする。
「まただ……」
そう、またなのだ。
真冬には最近、悩み事がある。
「また凉花の事を考えてたわ」
ふと気付くと最近、いつも頭に浮かんでくるのは三島凉花その人。何故だろう、と真冬は答えの出ない自問自答を繰り返す。
或いは答えに気付かないふりをしているのか。
確かに、好きだ。凉花の事は紛れもなく好きだ。
でもそれは『友達』としての好き。甘ったるいラヴなんかではなく、甘酸っぱいライク。
真冬は臆していた。もしこの感情が『愛』や『恋』の類だとしたら、それは凉花に対して酷い裏切りだと感じていた。
――でもな……
しかしながら、そんな面倒なこと抜きで凉花の事を考えても明確な答えは出なかった。
宮守五十鈴さんが好き、漠然と頭に思い浮かべる。
高校生になり、まともに損得勘定を抜きにして話しかけてくれたのは彼女だけだった。
森ゆかりからプレゼントされた大切なハンカチを放課後探していたら、彼女が人脈を生かして見つけ出してくれた。あの時の事は一日も忘れない。
別にこんなエピソードくらい言える。
でも何故か、凉花には聞かれたくなかった。
エピソードについて聞かれたくなかった訳ではない。
『宮守五十鈴』について聞かれたくなかった。
さっきは失敗したな、と真冬は反省する。
宮守の事を聞かれてふいに機嫌を損ねてしまった。
自分はとんでもない程、不器用だと真冬は分析する。小手先に限っては、器用な方だが。料理は出来るし、ピアノだって得意だ。スポーツも色々な部活に誘われる程、人並み以上には出来てる自信もある。
ただ感情表現や人付き合いだけがどうにも上手くいかない。原因は知ってる。でも真冬自身ではどうにもならないのも分かっていた。
――我侭言って両親に引っ越して貰ったんだもの。これくらいは自分で……
いつも真冬はそうだった。どうしても傷付きたくない時は、凍土の奥底へ本心を隠してしまう。
悶々としながら一つ溜め息をつく。深呼吸。
凉花が身体に溶けていく。
「そもそも、ゆかりが悪いのよ」
誰にでもなく、一人言い訳をする。
しかし、そんな言い訳もあながち間違ってもないのかもしれないのだ。
ある日、何時ものようにゆかりへ凉花について話していた。これは真冬にとって当たり前のことだったし、ルーティンみたいなものでもあった。
いつもは微笑みながら話を聞くだけのゆかり。
そのゆかりが、この間言った一言が頭から離れない。
「好きなんですね、三島さんのこと」
ゆかりからしたら、『友達』として好きなんですねということだったかもしれない。
しかし、どうも含みのある言い方が気になった。
森ゆかりという人物は“魔女”のような女性だと真冬は認識していた。他人の心を覗く天才なのだ。
そんな彼女が、悟ったように言い放つのだ。
含みを持たせて、言ったような気がした。
それからと言うもの、凉花が気になって仕方が無い。
最近、凉花の手を握ると凄く落ち着く。暖かくて柔らかい手の感触が一時も忘れられない。
正直な所、少しやましい思いもある。胸の高鳴りがあるのも事実。この感情がバレてないか、そういうスリルも助長しているのかもしれない。
しかし、凉花は怪しむことなく手を差し伸べてくる。そんな凉花をいい事に、快楽に負けて利用してしまう。いつも罪悪感で苛まれるが、やめられない。
「……麻薬みたいなものなのかしら」
至って真面目に呟く。この有耶無耶な気持ちをはっきりさせないと前へ進めないような気がする。
「早く帰ってこないかしら」
思考を放棄して、タオルケットへ潜り込んだ。
雪代真冬十五歳。絶賛思春期真っ盛りである。
◇◇◇
「ただいまー!」
鉄製の重い扉を勢いよく開ける。
凉花はスーパーの買い物袋を片手にぶら下げながら、雑にサンダルを脱いだ。
「真冬〜?」
部屋の奥から声が聞こえず、訝しげに真冬を呼ぶ。
自室に行くと、タオルケットがこんもりと盛り上がっていた。
「お〜い、真冬さ〜ん……」
静かにタオルケットを剥ぐと、胎児のように真冬が小さくなって目を瞑っている。
「……寝てるのか」
真冬は気持ち良さそうに小さな寝息をたてる。
時刻はあと一時間もすれば夕日が沈むくらいだった。
料理を作り終わったら起こせばいいかと思いつつも、その白雪姫の様な美しい寝顔から目が離せない。
「そういえば、真冬の寝顔見るの初めてだな」
ベッドに腰掛ける。何となく髪を触ってみる。
長い黒髪にサラサラと指が通っていく。
「やっぱり高いシャンプーとか使ってるのかな」
自分の短い髪を触って比較してみると、本当に真冬の髪が羨ましくなる。
入学してすぐに、なんとなく髪を染めてしまった自分の茶色の髪。少し軋みがあるような感じもした。
「黒に戻そうかな」
真冬がゆかりさんに「黒の方が似合う」と言っていた事を思い出す。何となく羞恥心がわく。別に真冬の為に戻すのではない、と自分に言い訳してみた。
「……さ、とりあえずご飯作っちゃお」
ぽんぽん、と真冬の頭を撫でる。静かに立ち上がると、凉花は一人でキッチンへ向かって行った。
◇◇◇
気付いた時には視界は真っ暗だった。
「……?」
意識が覚醒しない真冬は目だけ辺りを見回す。
ぼんやりと小さなテレビが見える。ただし、電源は入っていない。音楽プレイヤーの赤く光る電源だけが唯一の光源だった。
――あぁ、凉花のベッド寝てしまってたのか。
起きていた時の記憶を辿る。そう言えば、凉花の事を考えていたら急に眠気が襲ってきて……
「起きた?」
不意に隣から声がした。反射的に顔をそちらに向ける。凉花がベッドに腰掛けていた。
「いやぁ、気持ち良さそうに寝てたから起こせなかったや」
笑い混じりに凉花が頬をかくのを暗闇に目が慣れてきた真冬が確認する。
「ご、ごめんなさい、寝るつもりなかったんだけれど……」
「いいよ、いいよ! 私もスーパーから帰ってくるの少し遅くなったし。夕暮れに寝るの気持ち良いよね〜」
「今、何時かしら」
真冬はベッドから身体を起こして小さく背伸びをする。
「何時だと思う?」
「ん〜、七時過ぎ?」
「残念、九時前でした!」
「ええ!? 嘘!?」
思わず頭が混乱する。
九時前と言うことは二時間から三時間は寝てしまったのか。申し訳なさが込み上げてきた。
「本当だよ。熟睡だったね」
凉花がけらけら笑う。
「か、帰るわ!! こんな時間まで本当にごめんなさい!!」
慌てて立とうとするが、意識は覚醒しても身体がついてこない。ぐらりとよろけて、またベッドへ着席してしまう。
「ちょ、何やってんの真冬! 危ないって! 別に大丈夫だから落ち着いて」
「え、ええ、ごめんなさい」
「真冬、寝起きからご飯食べれないよね?」
「ご飯……?」
「ほら、今日ご飯食べてくって言ったじゃん? 作っておいたんだけど」
「あ!」
「思い出した?」
「え、ええ……でももう遅いし……」
「今日、泊まってけば?」
「へ?」
思わぬ提案に変な声が出た。
「もう夜遅いし、どうせ明日もくるでしょ?」
「いや、でも……」
「いいじゃん、話したい事もあるし! ね?」
「き、着替えとかないし……」
「貸してあげるよ、はい、ゆかりさんに電話して」
そう言うと、真冬の携帯を凉花が差し出す。
「え? なんで貴女がゆかりのこと……」
「はいはい、その話は後でね〜」
結局、彼女の勢いに負けてゆかりの携帯に電話を掛けてしまった。
人生初の友人宅へのお泊まりが決まった。
寝起き三分足らずの出来事であった。