95”raychko”
〜桂木玲子〜
私は鉄格子の中に閉じ込められている。
産まれた時からずっとそうだった。
鉄格子の外を知らないわけではない。
棒と棒の隙間から、鮮やかな世界が顔を覗かせることもあった。
けれどもこの牢獄の中にいれば生きるのに困ることは無かったし、それなりに満足して生きることが出来た。
ある時私は、産まれて初めて鉄格子に触れる。
父様に、私はどうして他の子供と遊んではいけないのかと質問した。
鉄格子は冷たかった。
お仕置きという単語の意味を知ったのも、丁度その時だった。
それ以降、私はなるべく鉄格子は視界に入れないように生活した。
それからどれ位の時間が経っただろうか?
私は鉄格子の中でさせられる訓練にも慣れて、躊躇なく人を殺せるようになった。
その頃から、お祖母様が時々私の牢に遊びに来るようになった。
お祖母様は、まるで魔法のようにするりと鉄格子をすり抜けて、私に何度も会いに来た。
ある時は殺した人の顔から、またある時は本棚の中から、トイレの中から飛び出して来た事もあった。
私に会いにくる度に、お祖母様はイタズラっぽい笑顔で一杯のコーヒーを残していった。
コーヒーは温かかった。
牢屋の冷気で冷えてしまわないように、私はいつもそれを急いで飲み干した。
少しの間だけ、体が熱を取り戻す。
けれど、すぐにまた打ちっ放しのコンクリートに熱を奪われる。
その度に私は父様に気がつかれないようにコーヒーをせがんだ。
…勿論、そのコーヒーは実際に体の中に入れることが出来ないものだということはわかっていたし、お祖母様が死んでいることも知っていた。
でも、そんなことはどうでも良かった。
それが手に入るなら、私は何もかもがどうでも良かった。
それ程に、存在しない筈のコーヒーは、暖かく、甘く、そして苦い。
父の手によって、ついに私は牢獄から解き放たれた。
けれど、今度は首輪を繋がれてしまった。
何かとても大きなことの中の歯車に、私は組み込まれているらしい。
けれどそれを知ろうとして這い回ると、首輪に繋がれた鎖に引っ張られて首がもぎれそうになった。
私はちゃんと言われた通りに仕事をこなした。
お手と言われたらちゃんと右手を動かしたし、待てと言われたら、空腹で気を失いそうになっても待ち続けた。
仕事を割り当てられてから間も無く、私はその人に出会った。
名前を嘉賀京之介という。
その人は私に服を着せた。
産まれて初めて、父様が選んだもの以外の服を着た。
その時からずっと、私はどこかがおかしい。
指示をされていないときは、私はなるべく自分のしたいことをしようと思った。
けれど、ずっと牢屋の中にいた私は、そもそもしたいことをそれ程見つけられなかった。
唯一、コーヒーのことは好きだったので、その話しをした気がする。
それがいけなかったのかもしれない。
父様は、あの人ごと私を焼き殺そうとした。
私は首輪に繋がれている。
私の側には、それを壊してくれそうな人がいる。
けれど、首輪を壊してしまったら、私の首に壊れた首輪が食い込んでしまうだろう。
痛いのは嫌。
…私は、一体どうすれば良いんだろう?
父様の言う通りにして、この人を殺せば、私は痛みも自由もない日々を過ごすことが出来る。
けれど、どうしてだろう?
この人は殺したくない。
初めて殺せと言われた時に覚えた抵抗とは全く違う。
私は、この人に死んでほしくないんだ。
「…どうしたら、いいの?」
「どうしたらって……まあ、決められないんなら、俺が引っ張っていってやる。
お前のオヤジをぶっとばす。
んで、お前は世界が滅亡する迄の間喫茶店を経営する。
その間はお前の自由だ」
「…自由」
「そうだ。
どこの馬の骨ともしれん男とイチャコラしてもいいし、世界一のカフェマスターを目指してもいい。
アンゴラウサギになってみるってのもアリだな」
アンゴラウサギ?
どんなウサギなんだろう?
この首輪が外れたら、それも知ることが出来るのだろうか?
「どうだ?
最高のハッピーエンド…とは言えねぇけど、まあ、それはそれで楽しそうだろ?
ってことで、さっさとあの野郎を追い掛けるぞ」