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苦しそうな吐息に、私は薄暗い照明の中で目を覚ました。左に顔を向けると、ヴィクトールがうなされている。その向こうに、右を向いているジョンの顔が見えた。
「…起こす?」
「…うーん」
小声で尋ねると、眉を寄せられる。その間もヴィクトールの口からは、ぜいぜいと生暖かい息が短いスパンで吐き出されている。超苦しそう。私は体を起こした。ジョンも反対側で体を起こす。
見下ろした体は、猫としては大きかったけれど、人間と比べればやっぱりずっと小さかった。昼間よりも夕方、夕方よりも今、小さくなってる気がする。縮んでんのかヴィクトール?…いや、まあ、そうじゃないんだろうけど。私の気分的な問題なんだけど。
「起こさないにしろ…こうどうにか…とりあえずアクションを」
「…さりげなくな」
「あっ!ぶつかっちゃった」
「全然さりげなくねえよ」
とんとん、と軽く指先でヴィクトールの首のあたりを叩く。台詞はともかく動きはさりげなかったはずだ。少しでもうなされる度合いが減少しないかと息を潜めて見守っている私とジョンの前で、ヴィクトールは呻いてからゆっくり瞳を開けた。あ、やばい、起こしてしまったようだ。薄闇の中で、金と銀の双眸がきらきらと光っている。
「い、いやあヴィクトール、綺麗な瞳ですね」
「お前は何を言っているんだ」
「…え…?」
私は焦って、ジョンは呆れて、王子様は寝起きである。オレンジ色の光の下でヴィクトールは立ち上がり、首をぷるぷると左右に振った。起こしてしまって申し訳なかったな、と反省したので、私は出来るだけ声を潜めた。
「すみません、ぶつかりました。何でもないんです」
「いいえ」
ヴィクトールは少し、可笑しそうに言った。私とジョンに交互に視線を向けてから納得したように頷く。
「おおかた、私がうなされていたんでしょう」
「うっ」
即バレである。悪い夢でも見ていたのだろうか。それならまあ、結果的に起こしてしまったけれど、見続けているよりましだったのかもしれない。どうやら怒ってもいないようだし。
「起こしてしまって、申し訳ありません」
「いいえ、ありがとうございます…助かりました」
くたりともう一度倒れたヴィクトールを、ジョンと2人で覗き込む。少し疲れているようだった。まあいろいろあったしね。私とジョンだって疲れている…のか?いやわからない。こう、普段からいろいろありすぎるせいで耐性ついてるし、それからあれだ。2人でいれば何とかなる、と思っているから。
ヴィクトールはそうは思っていないだろう。何せ私とジョンはモブ顔である。護衛っつってもなーこいつらじゃなー夜も眠れねえなーとか思っていても仕方がないのである。
「頑張りますよ私たち」
「ああ…ええ、よろしくお願いします」
「とりあえず、見張りでもしましょうか?寝ないのも得意なんですよ」
そういう経験があるものでね…!得意げに言う私に、ヴィクトールはぷるぷると首を振る。
「いいえ、そういうわけには」
「不安が解消されれば、少しは眠れるかもしれませんよ」
遠慮するヴィクトールに、反対側からジョンが言う。もはや営業トークである。こんなにお役にたちますよ!という売込みである。ヴィクトールは可愛いからな…なんでもしてあげたくなっちゃう!もしかしてこれが王族というものなのか。恐るべし。
「いいえ…不安で眠れないわけではありませんよ。……後悔で眠れないのです」
そう言って、ヴィクトールは目を閉じた。黒一色の彼の容貌の中でその瞳はすごく印象的で、眠っているヴィクトールが小さく見えたのは私の気分のせいだけじゃなくて、目を閉じていたせいもあるかもしれない、と気づく。
「私がもう少し有能であれば、今頃…いえ、何度もすみません…こんなこと、言う必要がないと、分かっているのです。もう寝ますよ、次は大丈夫」
くたりと倒れた小さい黒い体に、思わず手が伸びていた。ぽんぽんとその背をなでて、驚いた様子でがばりと顔を上げたヴィクトールに驚く。
「ああ、すみません、嫌でしたか?」
「いえ、…嫌と言うわけでは」
「ええと…眠るまでこう、撫でるのは、セント・エトワールの方では一般的で…そうですね、あと物語も一般的です」
「そうですか…」
「そうです!ジョンの滑らない話、お聞きになりますか!」
えっ俺!?とジョンが言っている。そうだお前だ。滑らない話なん聞いたことないけどどうにかしろ。私は視線で語りかけたが、ジョンはひたすら首を左右に振る。くっ…やるときにはやるけど能力以上のことは出来ない男、それがスミス・ジョンである。無念。
ヴィクトールは笑ったようだった。
「大丈夫です、ありがとう」
「すみません、ジョンのせいで」
「あ、はあ…ええ、俺のせいで」
丸まった背中を右手でなでながら、私は左手で頬杖をついた。ジョンはその向こうで起き上がってベッドに背中をもたれかけさせ、ホルスターから拳銃を取り出して手入れし始めた。暇な時はいつもそうしていることを私は知っているが、ヴィクトールは知らないだろう。でも、無音な中で瞳を閉じるよりずっといい。
しばらくして、ヴィクトールはもう一度目を開けた。眠れていないことはわかっていたので、私もジョンも驚かない。
「どうしたんですか」
「貴方がたが眠れないのは困りますね」
「そんなに困りませんよ」
本当は、サンズ王国の時とは違って薬を持ってきていないし、術での回復には限界がある。でも、それは些細なことである。
「どうしましょうか。いっそ、もう行動を始めます?夜闇にまぎれるのも、情報収集の方法としては悪くないです」
「そ、それは…捕まるかもしれませんし」
「そうですか…確かに犯罪行為はなるべく避けるように言われてますしね」
「はあ…」
曖昧に口を濁してから、ヴィクトールは不思議そうに言う。
「セント・エトワールの人はみんなそうなんですか?」
「そう、と言いますのは…犯罪行為は少なめですよ」
「違いますそこじゃないです。…みなさん、とても親切で」
「そうですか?」
「ええ、そう思います」
そうだろうか。私はヴィクトールの知っているセント・エトワール人を思い描く。私とジョンと、ノキア先生と…あの紫の服のマダムか。他にも親切な目にあったのだろうか。ヴィクトールがどこか屋外に転移させられたとしたら…野良猫に餌をやるタイプの人間は、うちの国には割と多いかもしれない。
まあ猫には親切だな、と納得する私に、ヴィクトールは続ける。
「マリーもジョンも、ノキアも、人が良すぎます」
「うーん…そんなことはないと、思いますが」
「いいえ」
「そうですねえ…情けは人のためならずってところじゃないですか?」
「なんですか、それ?」
「ああ、ルーゼンでは言わないんですか。他人に親切にしていれば、巡り巡って自分に返ってくるって意味ですよ」
「へえ…」
「ヴィクトールがノキア先生や私たちの協力を簡単に得られているのは、これまできちんとやってきたからですよ。だから助けになりたいと思うんです」
「…いえ」
ヴィクトールはかたくなに、納得いかない顔をしていた。全く、本当に困った王子様である。でも私は彼のこういうところが嫌いじゃないし、きっとノキア先生もそうだったのだろう。
そういえば、どうしてヴィクトールはすぐにノキア先生に助けを求めなかったのだろうか。まあ喋れなかったし、さすがのノキア先生も突然来られては猫ではなく王子だってことは見破れないと思ったのか…出来そうだけどなあノキア先生なら。
ジョンがぱちりと音を立てて銃をしまった。それからヴィクトールの顔を覗き込む。
「すべらない話はできないですけど、これまでの僕たちの話をしましょう」
「え、ええと…」
「眠くなったら寝てください、遠慮なく」
一番直近だと、手ごわい黒猫を捕まえる任務ですかね…と真面目くさった顔でジョンが喋り出すのを聞きながら、私はビロードのような背中をなで続けた。




