9
(……どうしよう)
彩は貴樹が置いていったケーキの箱を前に、固まっていた。
いきなり、告白された。
嬉しかったけれど、驚いた。そういう展開を期待したりしなかったと言えば、それは嘘になる。だが、こんな坂道を転がり落ちるかのような急展開など期待していない。何より、もう少しゆっくり進んでいけばいいのに、と思っていたことが全て吹っ飛んでしまった。大体、大輔に描いてもらったラフ画だって、まだ渡せていないというのに。
あまりのことに、とぼけた返答をしてしまったことを思い出すと、何だか地の底まで埋まってしまいたくなる。
彩は溜め息をつくと、目の前の箱を恨めしげに眺めた。
明日は仕事が早いからこれで、と言って、貴樹はすぐに帰ってしまった。せっかくお茶を淹れたのに、ほとんど手付かずだ。持って来たケーキの箱は、開けられてもいない。開ける隙もなく、彼はあたふたと帰ってしまったからだ。
滞在時間は一時間にも満たなかった。
まるで、あの言葉だけを言いに来たかのようなその振る舞いに、尚更、どうしたらいいかわからない。
しばらく仕事で忙しいと言い残していたから、彼としてはその前にというつもりだったのかもしれない、と思う。だけど、だからって、あれはないと言いたくなるのは我儘だろうか。何だかケーキを渡しに来たついでのような言い方にしか思えない。
貴樹にとってはケーキこそがついでだったのだが、そんなことまでは彩には伝わらない。
彩はしばらく考えていたが、思いついたように携帯を取り上げた。時間は遅めだが、どうせ、不規則な生活をしている相手だ。別にかまわないだろう。
いつものように幼馴染の番号を呼び出すと、ワンコールで出た。よっぽど暇なのか。
「大輔、今、暇?」
「暇じゃないが逃亡したい」
「何それ」
「ちょっと煮詰まっていてなぁ……。で、何の用?」
「煮詰まってるなら、甘いものでも食べに来ない?」
「……ふうむ、彩もいろいろとあるんですな?」
どうやら、大輔は面白がっているらしい。最初に話してしまったがゆえに、だろうか。彩が何かを話したいのを察して、からかうような口ぶりで先を促した。
「告白されたの」
「オタクにか」
「オタクって……」
「んじゃ、あすかたんは嫁男」
「それじゃもっとひどい」
「……オタクのくせにリア充か」
大輔はひとしきりぶつぶつ言っていたが、すぐに行くと言って電話を切った。
大輔が住んでいるのは、彩のアパートのある駅からふたつほど離れた駅が最寄り駅になる。別に示し合わせたわけでもないのだが、最初からその立地だ。そのせいで、実家を離れてもお互いに行き来するのは変わらない。
いっそくっつけばいいのに、と母親から言われたこともあったが、彩にとって大輔は兄のようなものだったし、大輔にとっては妹とさして変わらない。家族のような相手にそんな色めいたものを期待されても困る。大体、もし、そうなったとしたら、こんなふうに頻繁に入り浸っていたら逆にまずかろうとも思うのだ。
三十分と経たないうちに、大輔がやって来た。時間が時間なだけに、電車ではなくバイクで来たらしい。
いつものように上がり込んだ大輔は、テーブルの上に鎮座したままのケーキの箱に目を丸くした。
「何コレ」
「持って来た」
「オタクが?」
「いつまでオタク呼ばわりなのよ。まあ、その通りなんだけど。あー、大輔、どれ食べる?」
実は結構甘い物好きの大輔は、さっさと自分で箱を開けて吟味している。取り分けるためにお皿を渡すと、やけに真剣に悩んでいた。
「いくつ食っていい?」
「別に、好きなだけ食べていいよ。欲しければ持って帰って。いくら何でも、私一人じゃ食べきれないから」
「おお、マジで? 彩はいいヤツだ。ついでにオタクもいいヤツだ。さすが俺のあすかを嫁認定するだけある」
本気なんだか冗談なんだか、大輔は上機嫌だ。
二人でケーキを突付きながら、いろいろと話をした。話題は主に貴樹のことで、最初は適当に聞き流していた大輔も、謎めいたオタク青年という下りに「ネタになる」と目を輝かせた。それっぽいキャラが彼の作品に登場するのも、時間の問題かもしれない。
「うん、俺はさ、そいつはそんなに悪いヤツじゃないと思うよ。基本的に、オタクって自分の興味のないことはどうでもいい人種だからね。そいつが彩に本気だから、そういう行動に出るんだろうし。まあ、オタクのくせにリア充は爆発しろって感じだが」
そう言って、大輔は三個目のケーキを胃に収めた。見ているだけで太りそうな食べっぷりだが、こんな食生活でも昔から体型がほとんど変わっていないのは羨ましい限りだ。
「告白されて、それで嫌じゃなかったんなら、付き合えばいいと思う。んで、ネタの提供もよろしく」
いろいろ煮詰まってたからちょうどよかったー、と、大輔は爽やかな笑顔でのたまった。
そして、二人の思いを他所にREAL MODEの全国ツアーは始まってしまった。
今までの貴樹だったら、何も考えずに喜んでいたに違いない。ツアーは好きだ。ツアーと言うよりも、ライブという空間が好きなのだ。それに、あちこちに行って美味しいものが食べられるのは素直に嬉しい。
初日から、大阪2DAYS。そこから移動日を一日挟んで、四国四県を回って、一度東京に戻る。それから、東京近郊で一日か二日おきに数公演。初日の大阪から九連泊の強行スケジュールの上、その次もほとんど休む暇がない。しかも、一公演につき二時間半のライブを全力でこなすのである。
駅や空港に見送りに来るファンには、嫌な思いをさせたくない。できるだけ笑顔を見せたい。そう思っても、そのうち引きつって来そうだなと鏡を見ながら思う。
始まる前は何とかなるような気がしていたけれど、それは、随分と甘い考えだったのかもしれない。彩に会う時間を取るどころか、電話もメールもろくにできないだなんて、ありえない。まだツアーは始まったばかりだし、ある程度の余力はあるつもりだったけれど、徐々に蓄積されていくものがあることは否めない。毎日のようにこなすライブが、精神的・肉体的に全くダメージを与えていないとは言いきれなかった。
せっかく付き合ってもらえることになったというのに、これでは、意味がない。
「……甘かったなぁ」
はああ、と、大きなため息をひとつ。
移動した先の、ホテルの部屋だ。シャワーを浴びてから、ベッドに転がって天井をぼんやりと見上げる。まだ、今日のライブでの余韻が抜け切らない身体は、シャワーの熱とは違う熱さで火照っている気がした。
貴樹は、ライブという空間が大好きだった。今でこそホールクラスの大きな会場でしか公演できないが、最初は小さなライブハウスから始まった。その時から、自分が歌っているその場でダイレクトに反応が返って来る瞬間は、何よりも興奮していた。あの瞬間のために、自分は歌っている。そんな気がするほどに。
もう少し落ち着いてから、彩にメールを書こう。そう思いながら、ベッドサイドのテーブルに放り出してあった携帯を取り上げる。
受信フォルダを開くと、彩からのメールがある。夕方に届いていたもので、ステージが始まる前に既に内容は読んでいたけれど、またそれを開いて読んでしまう。
彩からのメールだというだけで、何となく嬉しいのだ。たとえ、その内容が他愛のないもので、今日の献立などがずらずら書いてあるものであったとしても、だ。
彩は、料理も好きらしい。食べたいなーとメールをしたら、今度食べさせてくれると約束してくれた。その日が待ち遠しくてならないと更にメールをしたら、今日の献立はこれです、なんて返って来たのだ。
彩からのメールが、当たり前に来ること。それが、とても幸せで、嬉しかった。
結局、彩には、本当のことを言えないままだった。貴樹がしばらく留守にすると言うと、彩は不思議そうな顔をしていた。仕事で地方に行くのだとだけ言ってみたが、それ以上突っ込んで聞いてこなかった。突っ込まれたとしても、その先の言い訳を用意していないから、しどろもどろになってしまったかもしれないけれど。たぶん、その場はそれで納得したのだろう。
だが、そんな理由もない留守が長く続けば、不審に思われることは間違いない。この状況は、半年続くのだ。かと言って、本当のことを告げる勇気も、まだ持てずにいた。
それはまだ、少しだけ怖くて覗くことのできない未知の領域だった。
だいぶ久々になりました。
次はもう少し早くできるといいな、と思っています。