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「あれ、彩。何だか楽しそうだね」
大輔から仕事で近くに来たから一緒に食事をしようとメールがあって、彩は二つ返事で了承した。
特に用事がなければ、大輔からの誘いを断ることはない。大輔との会話での話題が本当の意味で噛み合うことはほとんどないのだが、それでも、気心の知れた友人である事実には変わりはない。それに、お互いに実家から離れている身としては、何となく大輔との仲を疎遠にはしたくないという感情があるのだ。
それに、大輔に会ったらちょっとだけ頼みたいことがあった、というのもある。
先日、貴樹と初めて食事に言った時に、彼が口を滑らせた「サインがもらえないか」という台詞を、彩は覚えていたからだ。
待ち合わせ場所に入って来るなり、大輔は彩を楽しそうだと評した。自分ではそのつもりはないのだが、そんなに楽しそうに見えるのだろうか。
「そう見える?」
「うん、見える。彩のそういう感じ、久々に見たかも」
そう言いながら大輔は彩の向かいに腰を下ろし、注文を取りに来た店員にちょっと待って、と声をかけた。
「彩はごはん食べた?」
「ううん、大輔が来てから決めようかと思って」
「ごめん、誘ったくせに遅れて」
「大丈夫、そんなに待ってないし」
「ふうん……まあ、それならいいけど」
大輔はメニューを開いてひとしきり悩んでから再びウェイトレスを呼び、注文を告げる。彩も同じように注文すると、大輔は一息ついて水を一気に飲み干した。
「……相変わらず食べるねぇ」
「んー、ここ数日、家に籠もってたからさ。今朝納品したばっかで、ろくなもん食ってなかった」
「それって、例のスイート何とかってアニメの仕事?」
「それもあるけど、何、彩も興味持ってくれたの!?」
見当違いのことで目を輝かせた大輔に、彩は溜め息をつく。
「そうじゃないってば。まあ、興味があるってのは、完全な間違いってわけでもないのかもしれないけど……」
興味があるのは、スイート何とかを好きだと言っている『東城貴樹』という存在に対して、だ。その興味がどういう名前のつくものなのか、彩自身、自分の感情をきちんと把握してはいなかった。
「オトコか?」
にやにやと笑いながら、大輔が聞く。
「何でそうなるの」
「だって、彩は俺の仕事になんか欠片も興味ないだろ」
「う……」
それは事実なので、言い返せない。彩は目を泳がせ、次の言葉を探す。
「でも、別に、右から左に聞き流しているわけじゃないけど」
「そんなのわかってるよ。でなけりゃ、俺と幼馴染してないと思うし。……で」
そう言って、大輔はにやりと笑った。
「スイートキューティに興味があるってことは、そいつもオタクか?」
「たぶん……」
「たぶんって、何じゃそりゃ」
「だって、知り合ったばかりだし、よくわからないんだよね。でも、あんたの絵が好きなのは本当だと思う」
「……ちょっと待て。そもそも、オタクのそいつと彩が知り合うきっかけってのが思いつかないんだが」
大輔の中では、まだ見ぬ貴樹は勝手にオタク認定されたらしく、大輔は首をひねった。
「まあ、俺の絵を好きだって言ってくれてるのは歓迎なんだが……」
「本当に偶然なんだよ。だから、自分でもわけわかんない。偶然だし、その上失礼だし、でも……」
「運命の出会いだと感じてしまうくらいにときめいた?」
「そ、そんなわけないでしょ!」
その時、彩の携帯がメールの着信を知らせる。大輔に一言断って画面を見れば、相手は貴樹だった。
内容は前回のお礼と、また機会があったら会いたいという簡単なメールだった。たったそれだけのことなのに、何故か、妙に浮き足立った気持ちに襲われる。
携帯を閉じた彩は、目の前の大輔がニヤニヤしてこちらを見ているのに気づいて彼を睨んだ。
「何よ」
「……いや、嬉しそうだな、と思って」
「そんなこと」
「あるよ」
と、大輔は彩の言葉を遮る。それから、顎に右手を当てて少し考え込むようにし、にんまりと笑う。
「ちょっと、幼馴染としては、そいつのことが気になるなぁ。んじゃ、そいつに会う口実を俺が作ってやろうか」
「は?」
「今度、スイートキューティの関連で原画展やるんだ。それの打ち合わせもあって、今日は出て来たんだけどさ。招待券送るから。一般公開前日の」
「え……」
「それと、ラフでよければ一枚くらい描いてやるよ。そいつの好きなキャラ。誰が好きなんだよ?」
「あすか……だと、思う、けど……」
確か、貴樹の口走っていた名前はそれだったはずだ。貴樹との会話を思い出しながらそう答えれば、大輔はふんふんとうなずいた。
「あすかね……おっけ、ちょっと待ってて」
なんて言って、大輔は持っていたカバンからスケッチブックを取り出し、さらさらと描き始める。その表情はいつもとは随分と違って見えて、それが大輔の仕事の顔なんだろうなと思わざるを得ない。
大輔を異性として見たことは残念ながらないのだけれど、彼のこういう真剣な表情はとても魅力的だとは思っている。彼に恋人がいないのは不規則な仕事のせいなのか、彼のプライベートのディープさゆえなのか、謎なところだ。
貴樹のことを好きだとか、そういう気持ちは、正直まだわからなかった。
ただ、気になる。メールが来ると、何となく嬉しい。今はまだ、たぶん、それだけなのだ。
最初は、何だこいつ、という気持ちの方が大きかった。
頭の軽そうな、礼儀を知らないヤツ、と思ったことは事実だ。
だが、その後に見せた貴樹の態度は誠実だと思ったし、メールでのやり取りや交わした会話の端々から感じられる彼の性格は、その印象とは逆に生真面目なのかもしれないと思い直すこともできた。
それらを総合すれば、気に入っている、と言うのかもしれない。それが、今すぐに大輔の言うような関係まで飛躍するとは考えられないけれど。
「よーし、できた。鉛筆書きの雑で適当なラフだけど、少しは喜ぶんじゃないのか?」
そう言って大輔が差し出したスケッチブックには、見慣れた彼のタッチで可愛らしい女の子が描かれていた。適当な、と彼自身は言うが、彩にはそれのどこが適当で雑なのかがわからない。こういうものは、本当に才能なのだな、と感心するだけだ。
「相変わらず、大輔の絵は肉感がすごいね」
「むっちりして可愛いと言え」
「でも、ありがとう。……うん、あの人、かなり好きみたいだったから、喜ぶかも」
とは言え、この件をどうやって伝えればいいのか、彩は考えあぐねていた。
あんな、彼が途中でやめてしまった会話の端を拾って連絡したというのも、何となく言いづらい。かと言って、彼からの連絡を待っているのも、それはそれで変な気がする。
今までそういうこととほとんど縁がなかっただけに、どうしたらいいのか迷ってしまうのだ。
当の貴樹が、どうしよう、彩さんのこと好きになっちゃったかもしれない……と、似たようなことで平和に悩んでいることなど、彩は知る由もなかった。
そうして、互いに積極的なコンタクトを取るということもなく、日々は過ぎて行った。
そうなると却って連絡しづらくなるというもので、ツアー前の忙しさもあって、貴樹はますますコンタクトを取るのに躊躇するようになってしまっていた。時間が空けば空くほどぎこちなくなるだろうことはわかってはいても、いざ携帯を手にするとどうしても先に進めない。
そんな、ある日のこと。
今日は外での撮影なんだよなーなどと思いながら、寝ぼけ眼でのろのろと着替えていた貴樹は、いきなり鳴り響いた携帯の着信音にびくっと身体を震わせた。慌てて取り上げてみると、相手はマネージャーの栗原だ。
「もしもーし」
「あ、東城くん?」
「ふぁい」
手近にあった携帯補助食品の封を切って、口に放り込んでもぐもぐさせながら応答する。行儀が悪いのはわかっているが、時間がないし食事をするのも面倒だから仕方がない。
電話の向こうの栗原は、そんなことを気にした様子もなく、いつものようにきびきびと用件を告げた。
「今日の撮影、中止になったから。それで、オフにするから、今日は一日ゆっくりと休んでいいわよ」
「えっ、何で中止?」
「外、見てないの? 雨、降ってるのよ。残念ながら、野外での撮影はできないわね」
そう言われて、貴樹は起きてから初めてカーテンを開けた。そうして、窓の外が完全に濡れそぼっていることを知る。
「……ホントだ。すっげー降ってる。あれ、でも、中止? 延期じゃなくて?」
今日の撮影は外での予定で、雨天の場合はどうするかなんてことは、貴樹は聞いていなかった。それは栗原が把握していることで、貴樹はそれを聞かされてその通りに動くだけだからだ。
「撮影自体は延期よ。でも、今回の撮影はファンクラブの会報用のだから、スタッフにも無茶言えるから。会報に載せる分は、控え室のオフ・ショットで行こうってことになって。最近、ちゃんとお休みあげられていなかったし、休んでちょうだい」
「うわぁ、本当に? 今日一日休んじゃっていいの!?」
「いいわよー。ここ最近、ずっと、オフなしで頑張っていたし、ご褒美ってことで。ツアーが始まったら、休みたくても休めなくなるんだからね、マネージャー権限でプレゼントよ。ま、これ以降、休めないって覚悟しておいて。キリキリ働いてもらうからね」
それは、嬉しいような、嬉しくないような。栗原の常にない大盤振る舞いの裏には、何だか侮れないものが潜んでいそうで、実は怖い。
それは、この業界に入って彼女がマネージャーについてからというもの、ずっと感じていることだ。天宮のことも怖いと言えばそうなのだが、彼の持つ怖さとは少し違う。
とは言え、久々のオフは嬉しい。仕事が午後から、とか、午前中だけで終わり、とか、そういう変則的なオフはあっても、一日休んでもいいなんて、本当に久しぶりなのだ。たとえ、その後にオフなしの日々が続くのだとわかっていても、ここは喜ぶべきだろう。
何をしようかな、と、貴樹は電話を切ってから考え込む。
雨が降っているのなら、外に出かけるというのはあまり現実的なプランではない。見ていない録画アニメはハードディスクの中に山と入っているし、買ったまま未開封で積んであるゲームもそれこそ10本を超えている。読んでいないマンガも、開いてもいない画集も、積んであるままだ。消化しなければ、そのうち雪崩を起こしそうだ。
それでも、こうして不意に降って沸いたような空白の時間に何を思うかなんて、今は決まっていた。
やりたいことも、やらなければならないことも、たぶん、ある。けれど、何よりも優先させたいことがあることを、知ってしまっていた。
どうしよう、と考えながら携帯のメモリーをいじって、彩の番号を表示させる。
メールのやり取りはしていたけれど、電話をするのは初めてだ。いきなり誘って、了承してくれるとは限らない。そもそも、彼女が休みだなんてことは偶然の確率に頼るしかない。彼女は会社員だと言っていたはずで、平日にスケジュールが空いているかどうかなんて、ありえないと理性では考えている。なのに、どうしてだかそうした方がいいような気がして。
「……もしもし?」
短いコールで、彩が応答した。
「あのっ、とっ、と東城貴樹です!」
第一声から自分の名前で噛んだ。締まらない始まりだ。だが、そこで後悔したって噛んだ発言が取り消せるわけではない。貴樹は気を取り直し、相手から見えるわけでもないのに携帯を片手に背筋を伸ばす。
「お、おはようございます!」
「……ああ、おはようございます。どうかしたんですか?」
「……あの、今日、暇ですか?」
「は?」
「もし暇なら、えっと……一緒に遊びに行きませんか?」
「……どこへ?」
彩に冷静に突っ込まれて、貴樹はうろたえる。
一緒にどこかに行きたい、ということまでは考えていたが、どこに行くという具体的な案は何も考えていなかったからだ。
「え、えっと……ゆ、遊園地とか?」
彩は一瞬沈黙して、電話の向こうで盛大な溜め息を吐き出した。
「いきなり電話してきて、それなんですか? 結構な大雨ですけど」
「……えっと、じゃあ、彩さんが行きたい場所があるなら、別にどこでもかまいません! 俺、車出しますし!」
別に、何が何でも遊園地に行きたいわけではない。どこにと問われて、咄嗟に思いついたのが遊園地だっただけだ。彩が行きたい場所があるのなら、そこに付き合うというのは別に悪くない選択だった。
貴樹が慌ててそう言えば、彩は少し黙り込み、それから、先を続けた。
「ねえ、スイートキューティが好きだって言っていましたよね」
「へ? え……ああ、はい、そうです」
まさか、彩がその話を覚えていたとは思わず、貴樹はうろたえた。
彩は、そのことに関して何を感じているのだろう。あの時、彼女は貴樹に対して何も言わなかった。貴樹が覚えているのは、彼女の幼馴染がその関係者であると言ったことに、自分が一瞬で舞い上がって我を忘れた恥ずかしい失態だけだ。
だから、彼女がその名前を出して来た時、貴樹は無意識に緊張した。
携帯を握る手が汗ばんで、思わず取り落としそうになる。
「この前、言ったと思いますけど……私の幼馴染が、その、スイートキューティっていうのを描いているんです。それで……その、彼に会う機会があって、その話をしたら、原画展のチケットをくれたんですけど……もし、今日、暇だって言うならそれに行きませんか?」
「え……」
ミサカダイスケの原画展の話は、貴樹も知っていた。でも、それは明日からのはずで、今日は招待客しか入れないのではなかったか。
「嫌ですか?」
「え、そ、そんなことない、です!」
あまりのことに自分の耳を疑っていた貴樹は、急に不安そうに聞き返してきた彩に我に返り、声を張り上げた。
スケジュール的にも合わないし、行けそうもないと最初から諦めていたイベントだ。それが、こんなタイミングで行くことができるなんて。
「でも、彩さんは仕事……じゃ、ないんですか?」
「……普段はそうだけど、今日は、ちょっと」
偶然でも何でも、よかった。
彼女が会うことを了承してくれて、しかも、自分を偽らないままでいることができる。そのことが嬉しくてたまらなかった。
大輔の描く絵のイメージはブリキさん。
出すつもりなかったのに、何か妙に気に入ってしまった大輔。