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そいつからメールが来たのは、その夜のことだった。
彩はシャワーを浴びて出てきたところで、メールの着信を告げるように点滅する携帯に気づき、携帯を開いた。たまに来るメルマガかと思いきや、メールの送信者の欄には、昼間の豆腐野郎の名前がある。
あの男は、ちゃっかりと自分の名前も登録しておいたらしい。
そのまま削除してしまおうかとも思ったが、さすがにそれは悪いような気がしてやめた。いくら何でも、読みもしないで削除はひどい……かも、しれない。存在ごと消去しようと思ったのは事実だが、成り行きで奢ってもらってしまったのも事実で、何となく気が咎めてそのままだった。
とは言え、昼間のあの様子からすると、いきなり馴れ馴れしい文面がある可能性もある。彩には理解できない顔文字だとかが乱舞していそうな、そんなイメージだ。
だが、恐る恐る開いたメールには、昼間の印象とはまるで違った丁寧な文章が並んでいた。
それは、昼間の自分の行動の非礼を謝罪する文章から始まっていた。そして、そのお詫びとお礼とを兼ねて食事をご馳走したいので、都合のいい日程をいくつか教えて欲しい。その中でこちらが合わせられる日程をお知らせします、と結ばれていた。
昼間の印象からはまるで別人のような、丁寧で落ち着いた言葉で書かれたそのメールに、彩は考え込んでしまった。
あの外見や行動と、このメールの礼儀正しさとが、どうやっても結びつかない。
あれで、意外と生真面目だったりするのだろうか、とは考えたものの、彩は返信メールを書くことはなかった。何を書いていいのかもわからなかったし、いきなり食事に誘われても、どう反応していいか困ったからだ。それに、スイート何とかの話を食事中に延々とされても嫌だ。そんな話題で盛り上がるのは、大輔だけで充分である。彩には、それ以上その話題を受け入れるキャパシティはないのだ。
放っておこう、と決めて、彩はそのまますっかり忘れてしまっていた。
彼から二通目のメールが来たのは、それから、十日ほど後のことだった。
そのころには彩は彼のことなどすっかり忘れていて、誰だこいつ、の一言で切り捨ててあっさり削除するところだった。
寸前で気づいてメールを開くと、前回と同じようにあの時の様子からは想像もつかないような几帳面な文面が、そこに綴られていた。
その内容は、返事がないことから、彩が怒っているのではないかと心配しているものだった。おろおろしているのが画面越しに伝わってくるようなそれに、彩は思わず笑いそうになる。
最後に、同じように食事を誘う言葉があり、このメールに返事がなかった時には、今度こそアドレスも名前も全て削除するので心配しないで下さい、と付け加えられていた。どうやら、本気で彩が怒っているのだと解釈しているらしい。
「……気にしているらしいのは、意外かな」
そんなことを気にするようなタイプには、見えなかった。何しろ、初対面がアレで、第一印象としては最悪の部類に入る。見た目の派手さも手伝って変な先入観を持っていたが、もしかすると、思っていたよりもずっと真面目に物事を捉えている人間なのかもしれない。だとすれば、豆腐などと称してしまって悪かったかもしれない、と、彩は少しばかり反省した。
とは言え、そもそも、そんな印象を与えるような真似をしたのは向こうなのだから、それはそれで仕方のないことだ。
だが、第一印象をいつまでも引きずっていても、こんな生真面目にメールをしてくる相手には失礼だ、と考え直す。失礼な相手に払う礼儀はないが、礼儀正しく接してくる相手には相応の返事を返すのが礼儀だ。
そうなると、最初のメールを無視してしまう形になってしまったのが、少しばかり気が咎める。
彩は少し考えてから、東城貴樹宛てに簡単にメールを書いて送信した。
返事が遅れたことへの謝罪と、食事を誘ってくれたことへのお礼。都合がつく日をいくつか選び出して書き添えただけの、事務的なメールだ。さすがに、最初に来たメールの存在すら忘れていましたと正直に書くことはできず、返信が遅れたのは私生活が忙しかったせいだ、ということにしておいた。その方が角も立たない。
意外と、あれでもただの馬鹿ではないのかもしれない。
送信を終えた携帯を閉じると、彩は明日に備えてさっさとベッドに入ったのだった。
その、頃。
都内某所にある放送局の控え室で、貴樹は携帯を睨んで考え込んでいた。
ついさっき、ずっと待っていたメールが来たものの、開いて読む勇気がないのだ。
「……何やってるの、貴樹」
「いや、別に……」
「さっきから携帯睨みつけているけど、睨んでいるばかりじゃメールは来ないわよ。それに、もうすぐ本番なんだから、気持ちはちゃんと切り替えてね」
「……はぁい」
本番を前にして嫌なメールを見て凹んでしまうのはどうかと思ったが、二時間もある生放送の間、メールの内容が気になってそわそわしているというのは、もっとずっと性質が悪い。気合を入れてメールを開いて見ると、それはたいして長いものではなく、内容も、貴樹が恐れていたほど辛辣なものではなかった。
貴樹はあからさまに安堵の溜め息をつき、早く用意をしろと急かしに来たマネージャーが不思議そうな顔をするのを、笑って誤魔化した。
「よっし、東城貴樹、いざ出陣!」
「……あんまり最初から飛ばさないでよ。二時間もあるんだからね。途中で燃料切れとかしたら、シャレにならないでしょ」
「わかってますよー」
これから臨むのは、毎週レギュラーで受け持っている、深夜のラジオだ。これから、二時間の生放送。最初から飛ばして行ったら、途中でテンションが落ちてしまうのは目に見えている。これまでの経験でそういう痛い目を見ているから、マネージャーが警戒するのも理解できなくはない。
普段なら、そんなマネージャーのお小言に少しばかり苛立ちを覚えるところだが、今日は気分がいい。これなら、最初から最後まで高いテンションを保っていられそうな気がする。
貴樹は所定の位置に座ると、いつも以上に調子よく喋りだした。
「皆さん、こんばんはー! REAL MODEの東城貴樹です! 今夜も都内某所のスタジオから、完全生放送でお送りします。これから二時間、俺のお喋りにお付き合いください。まずは一曲目、REAL MODEで、〝テクニカル・ジョーカー〟をお聴き下さい」
今現在、世間では大人気のはずのプロデュース・ユニット、REAL MODE。そのメイン・ヴォーカルであり、プロデューサーである天宮順平を核とした製作集団が世に送り出す楽曲を歌うための、唯一のメンバー。それが、東城貴樹だ。
時間に追われるばかりの殺人的スケジュールを笑顔でこなし、どんなに突っ込んだインタビューも得意な軽妙なトークではぐらかす、最近のヒットチャートの常連。成人男性としてはやや小柄な部類に入るが、整ったルックスと生まれ持った天性の声の魅力は人々を惹きつける。バラードで甘く囁くような甘い歌声を披露したかと思えば、次のロックナンバーでは叩きつけるような力強いシャウトを聴かせる、魅力溢れるヴォーカリスト。
しかし。
彼の実態は、と言えば、あまり大きな声で吹聴できるような代物ではなかった。彼を楽曲やインタビューでしか知らないファンが聞いたとしたら、滂沱の涙を流してイメージを狂わされたと嘆くに違いない。
彼は、ただのオタクだった。アニメやゲームの美少女をこよなく愛し、二次元の美少女を『俺の嫁』と宣言し、たまのオフには溜め込んだアニメの録画を見るか、アキバに行ってエロゲやフィギュアを買いあさるような人種である。どこからどう見ても、真性のオタクにしか見えない趣味だ。
今の絶賛のお気に入りは、スイートキューティというアニメだ。いわゆる魔法少女ものの範疇だが、深夜帯に放送していたアニメだから、厳密には子供向けではない。魔法少女という響きで侮って見ていると、痛い目を見る深い話だ、と、貴樹は思っている。その中でも、貴樹はヒロインの親友ポジションにいる『あすか』がお気に入りだった。今現在の『俺の嫁』だ。
もちろん、そんなことを表立って喋っては、せっかく作り上げたイメージが崩れる。マニアの常とでも言うべきか、元来はお喋りな貴樹ではあったが、言いたいことの半分も言えないのでは身体に悪い。にっこり笑って用意された台本を読むことを了承してはいても、もやもやとしたものは確実に増えて行く。
ああ、これがストレスってヤツなのかな、と、思ってしまうのは仕方があるまい。
(大体さぁ、俺を流行に乗せようってのが無茶な要求なんだっての。自慢じゃないが、俺の家のテレビはゲーム画面とアニメしか映さんのだぞ。イメージが崩れるから喋るなって言われても、俺がオタクなのは変えようのない事実だってのを認めろよな……。アニメとエロゲが好きで悪いのか。人に迷惑かけてるのか? そもそも、そんなのがばれて離れて行くようなファンなんて、俺のことなんかそんなに好きじゃないのさ)
流れる自分の曲を聴きながらいじいじとそんなことを考えている自分の後ろ向きな思考も、実は嫌だ。だから、マネージャーのいうことにも一理あると思って、おとなしく従っている。完全に彼女の言葉を否定できないからこそ、納得のできない部分があっても従うべきだと判断しているのだ。
歌うことは、好きだ。
歌は自分の天職だと、思っていることも本当だ。
だから、ここで失敗して終わりたくない。自分の趣味を知られることは痛くも痒くもないが、それが原因となって歌えなくなるという未来があると考えるのは、ぞっとする。
それだけは、絶対に嫌だった。
とは言え、発言を制限される生活はかなりのストレスをもたらすことに、違いはなかった。趣味のことになると普段の何倍も饒舌になってしまう貴樹としては、かなり辛い。ふとした拍子に、うっかり爆発してしまいそうになることもある。
正直になれる場所が欲しい、と思うことがある。自分をただの『東城貴樹』とだけ見て、話をしてくれる、そんな友だちが欲しかった。素の自分に戻ることができるのが、隠れアカウントでつぶやくツイッターだけだというのは悲しすぎる。
そりゃ、地元に戻ればそういう友だちはいる。こんなに有名になる前にできた友だちだって、少ないながらも存在する。それでも、彼らは『REAL MODEの東城貴樹』を知っているわけで、当たり前のことでも少し寂しい。
(あれだけテレビに出ているのに、俺のことを知らない人もいるんだな……)
貴樹自身、自分はそれなりにトップに近い場所にいると思っていた。
それは自惚れでも何でもなく、事実として存在しているものだったからだ。テレビに出ていない日なんて数えたこともないし、そうではない自分なんて、今は考えられなかった。
なのに、彼女は自分を知らないと言った。あの言葉に、嘘があったとは思えない。おまけに、頭に豆腐が詰まっているとまで言ってのけたのだ。
腹が立つよりも何よりも、純粋に疑問に思った。
あれほどまでにテレビに出ているのに、自分を知らない人間がいることへの、純粋な疑問だ。けれど、それはすぐに興味に変わり、その気持ちは、今や何とも表現し難いものになりつつある。
最初は、彼女が自分を知らないということに、本当に驚いたのだ。
迂闊に一人で出歩くと、即座にとんでもないことになるのは経験済みだ。さすがにそんな場所にいるとは思われないのか、アキバでうろついている時に見つけられたことはないが、普通に歩いていて見つかることはよくある。一応、変装らしきものをすることはするのだが、ファンにかかればそんなものはあってもなくても同じことらしい。この前、彩と初めて会った時にしても、一人でぶらぶらしていたらファンに見つかって追い回されて、どうにか逃げるために飛び込んだのがあの喫茶店だった。
イメージされている東城貴樹であれば、絶対に立ち寄りそうもない場所。咄嗟に考えたにしては、成功だったと思う。当然、あの後、きちんとお店に連絡をして、迷惑をかけたことを告げ、謝罪はした。迷惑をかけたのは事実だから、謝るべきところは間違えてはならないからだ。
彼女は……彩は、おそらく、あの店の常連なのだろう。あそこで過ごす時間を邪魔されて怒っていたようだから、そうに違いないと思う。
あまりテレビを見ない人なのかもしれない、とも考えたが、それにしても、まるで認識されていなかったのが嬉しいのか悔しいのかよくわからない。
貴樹が出演しているのは、何も音楽番組に限ったことではない。バラエティだとか、トーク番組だとか、もらえる仕事にはできる限り応えたいとは思っている。何より、CMだってそこそこ出ているはずなのに、それすら認識されていないというのも何とも言えない。彩は、よほどテレビを見ない種類の人間なのだろう。
だが、考えてみれば、そういった相手は貴樹にとって貴重な存在だった。いろいろと聞かれずに済むし、イメージと違うことを口走ったとしてもがっかりされたりはしない。うっかり『俺の嫁』の話をしても、苦笑されるだけでドン引きされることはないかもしれない。
世間に与えているイメージには気を使え、と口をすっぱくして言われているのだ。鬼のようなマネージャーからは。
この放送が終わったら、ちゃんとメールに返事を書こう。と、貴樹はいつになくうきうきしながら思った。
彼女は、食事は何が好みだろう。
生放送中だというのに、貴樹の頭の中はお花畑だった。
まずは、友だちになることから始めよう。そして、彼女が自分の趣味に寛容であれと思う。スイートキューティのグッズを持っていたくらいだから、吐き気がするほどオタクを嫌悪しているとか、そういうことはないと思いたい。
その先にどうなるかはわからないまでも、貴樹は、そう決意したのだった。
(……メール? こんな朝っぱらから、誰?)
彩が朝起きてから携帯を覗くと、メールが来ていた。
送信時刻を何気なく見てみれば、午前四時半。普通の生活をしているのなら、夢の中だ。どういう生活サイクルの持ち主が、こんな少々常識はずれな時間帯にメールを送ってくるのだ、と思えば、差出人の欄は東城貴樹になっていた。
彩でなくとも、首を傾げたくなるのは常識の範疇で生活している者としては、当然のものだと思いたい。昨夜は多少なりとも感じていた罪悪感が、微妙に吹っ飛んでしまいそうだ。
少しすっきりしない頭でメールを開いて見てみると、最初に来たメールとほぼ同じ内容だった。要するに、食事に誘っているものだ。彩が都合のつく日程を書いたものだから、早速日時と場所を指定する旨が記されていた。
「……どうしろと」
指定されている日時は、明日の夜。予約はして話は通しておきますのでご心配なく、なんて、紳士めいた言葉まで添えられている。
ここまでされているのに、今更無視すると言うのも気が引ける。彩が思っている以上に、向こうがこの前のことを気にしているらしいことが伝わってくるからだ。
だが、問題は、向こうが指定してきた場所だ。
意外すぎて戸惑う、とでも言えばいいのかもしれない。急にこんな場所に呼び出されても、困る。第一、彩はこんな場所には縁がない。
指定されたのは、いわゆる一流ホテルのレストラン、だ。
名前は聞いたことがあるが、ここには行ったことはない。行こうと思ったこともない。職場の研修で一応のマナーは叩き込まれてはいるから、こうした場所に呼ばれて不自由を感じることはないが、問題はそこではない。
こんな場所に呼び出して何がしたいのか、彩にはさっぱり理解できない。第一、ここのレストランの値段は卒倒しそうなものがついていたような気がするのだが、どうしろと。
「……これは、もちろんあいつの奢りなんだよね……?」
でなければその場で帰る、とつぶやきながらも、彩は簡単にメールを打って送信した。
返事は、たった一言だけ。「わかりました」だった。