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「……だから、何だってこうも平和に寝ているかな、このオトコは」
帰宅した彩は、来るという予告もなしに貴樹が勝手に上がり込んでいたことよりも、その行動に驚いた。そして、呆れて苦笑するしかなかった。
貴樹は、一度もここに泊まって行ったことがない。それに、今まではそういう関係を求められたこともなかったから、貴樹は彩のベッドに近づいたことはほとんどない。近づいたとしても椅子か背もたれ代わりで、そういう対象として見られていないのではないかと思うくらいにその手の雰囲気とは無縁だった。
なのに、今、彩のものであるはずのそこを占領して、貴樹はすーすーと気持ちよさそうに眠っている。この前、貴樹の言い分も聞こうとせず、一方的に電話を切ったのは彩のはずなのに、そんなことはなかったかのように、貴樹は当たり前のようにここにいた。しかも、その後は電話もメールも無視したというのに。
「こんなの、私がバカみたいじゃない」
むかつく、とつぶやいて、彩はベッドの脇に座り込む。そこから手を伸ばして、呑気に気持ちよさそうに寝ている貴樹の鼻を摘んでやった。
「う……んん……っ」
何だよぉ、と、抗議の声を上げて、貴樹が目を開ける、
「あ、あれ、彩……?」
「なんて図々しいのよ。私は怒っているんだからね」
慌てて起き上がった貴樹を軽く睨みつけて、彩はつんと横を向いた。
焦った貴樹はベッドから飛び出そうとしたが、ブランケットに足を絡め取られて無様に転げ落ちた。
「いってーっ!!」
「……何やってんの……」
落ち着きのない子供のような貴樹の態度に、彩は呆れた溜め息をついた。先日のことを気にしているのかいないのかもわからない貴樹に、自分が何に怒っていたのかということすら、どうでもよくなってしまったのだ。
貴樹が何を隠しているのか、知りたいとは思う。けれど、その内容を知ったところで、何かが変わるとも思えなかったのだ。何を隠していようとも貴樹は貴樹で、何も変わらない。そんな気がした。
そう思っている彩の前で、貴樹はあたふたとブランケットを畳み、ちょこんと居住まいを正して彩の前に正座した。所在なげに周囲を見回して、ベッドに寄りかかっていた黄色いくまのぬいぐるみを抱き寄せる。
久しぶりに、よく眠った気がする。眠った時間は数時間程度だというのに、すっきりとした目覚めだった。身体の奥に残る疲労感は完全に消えてはいないが、それでも、ここ数日の目覚めに比べたら大違いだ。
「……ねえ」
「えっ」
「顔色、悪くない? 大丈夫なの?」
「あー、えっと……少し、仕事で疲れてて」
そればかりは嘘のつきようがないから、正直に答えた。
「……腕」
「へっ」
「点滴でもした?」
やばい、と思ってその跡を隠したが、既に遅かった。むき出しになった腕に貼られた小さな絆創膏に、彩はじっと視線を向けていたからだ。
「あー、その、これは、マネ……じゃない、職場の人に無理やり病院に連れて行かれて……」
「そんなことになるくらい、仕事が忙しかったの?」
「いや、だから、俺は別に平気なんだけど、心配性の人が」
どう説明すればいいのだろう、と考えながらぼそぼそと喋っていると、彩がすっと近くに寄って来た。
「貴樹」
その声音には、この前の電話の冷たさは欠片もない。 見上げてくる瞳に、どきりとする。その眼差しにどこかほっとして、今なら話せるかもしれないと思って、貴樹は彩の名を呼んだ。
「……彩、俺、あの」
言い出しかけた、その瞬間。
彩の指先が、貴樹の頬に触れた。そのことに驚いて、貴樹は動きを止める。
ゆっくりと近づけられる、唇。え、と戸惑いながらも、それを拒む理由なんてなかった。触れた唇は少し冷たくて、それでいて、温かさがあった。頬を撫でる長い黒髪に、貴樹は続けようとした言葉を飲み込んだ。
黄色いくまを抱いていた腕を解いて、そっと彼を横に置いた。そして、ためらいながらも彩の背中に腕を回した。
甘やかに触れ合う唇は、やがて深く熱く、熱を帯びて。
「ねえ、許して、くれるの……?」
何を、とは聞かなかった。
絡まる吐息に、思考があやふやになる。自分の声さえ、どこか遠くで聞こえてくるような、甘い錯覚。
何度となくキスを、する。間近で見る彩の顔は、やっぱり可愛いと思った。
そして、久しぶりに誰かのぬくもりと共に眠った夜は、蓄積した疲労や悩みを全て洗い流すための充分な休息を与えてくれたような気がした。
翌朝、貴樹は腕にかかる重みで目が覚めた。
まだ眠っている彩の下から、彼女を起こさないようにそっと腕を抜いて、静かにベッドを降りる。昨日のまま散らかされた室内に苦笑して、床に滑り落ちてしまっている便箋を拾い集めてテーブルの上に置いた。
「……言いそびれちゃったなぁ、結局」
はあ、と溜め息をつく。
このまま余韻に浸っていたかったが、今日は午前中に取材が入っているはずで、ぐずぐずしている暇はなかった。一度家に帰って着替えて、出直さなければならない。本当だったら、昨日は泊まるつもりなんてなかったのだから。
彩が目を覚ます前に出て行くのは、気が進まなかった。だからと言って、眠っている彩を起こすというのも、気が引ける。
貴樹は少し考えて、たった今拾い集めた便箋に、彩に宛てて短い手紙を書いた。
それから、放り出してあった服のポケットから、彼女にどうしても渡したかったものを取り出して、テーブルの上に置く。
貴樹がそこに置いたのは、自分のライブのチケットだ。現在回っているツアーの、東京最終公演分のもの。一般で手に入れようとしたら、熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられるだろう、プラチナ・チケットになる。
まだ話すことはできなくても、いつかは彩にライブを見てもらいたいと思っていたから、貴樹は栗原に頼んで彩の分のチケットを確保してもらっていた。だけど、ここに至るまで渡す勇気も話す勇気もなくて、結果として渡すのがぎりぎりになってしまった。
拙い自分の言葉で話すよりも、実際に目にしてもらった方が話は早い。そのために貴樹が用意した、彩のための席だった。
本当の自分を、見て欲しい。自分が好きでたまらない場所を、命を懸けているとまで言われるライブを、彼女にも共有して欲しかった。
それは、賭けだ。
正直、怖い。もし、失望されてしまったらと考えると、震えそうなほどに。それでも、これ以上は隠しておけないし、隠しておきたくない。何よりも、彩に自分を見て欲しかった。REAL MODEの東城貴樹という、もう一人の自分を。そして、確かにそれも貴樹自身であるということを、認めて欲しかった。
しばらく出て行くのが嫌でぐずぐずしていたものの、本格的に時間がギリギリになってきたことに気づいて、貴樹は渋々ながらも立ち上がった。
起きてくれないかなー、と、尚も未練がましく彩を見て、かと言って寝ているのを邪魔するまでの度胸はなくて、額にそっとキスをするだけに留めた。
「……ごめん。起きたら、怒るよね」
ずっとここにいたいのが本音だけれど、それをしてしまったら自分で自分が許せなくなる。
だから、貴樹は彼女の眠りを妨げないように、足音を立てないように部屋から出た。
目を覚ました彩は、貴樹がいないことに驚いた。こんなタイミングで勝手に帰るなんて、と少しむっとしたが、置いてあった手紙に気づくと、その評価を少し変えた。
彼には彼の事情があるのだと、わかってしまったからだった。
『彩へ
本当は、起きるまで待っていたかったけど、早い時間から仕事が入っているので今日は帰ります。俺はいいけど、セッティングをしてくれている他の人たちに迷惑がかかるから。
そういうのは、仕事をする身としてしてはならないと、俺は思っているから。
俺に言いたいことは、いっぱいあると思う。俺も、彩に言わなければならないことがある。
言えなかったことがあるのは、信頼していないとか、そういうのじゃないです。俺が、臆病だっただけです。
近いうちに全部話そうと思っています。だから、今だけ、許して下さい。
一緒に置いてあるチケットは、彩にどうしても見てもらいたいものです。
俺は、彩と、その時間と場所を共有したい。そう思っています。
もし、この日に来てくれるのなら、先に会場に入って待っていて下さい。
開演時刻には、絶対に行くから。
追伸
もし可能なら、ミサカ先生も誘ってください!
貴樹』
最後の一文だけ、余計だった。ある意味、貴樹らしいと言えば、そうなのかもしれなかったけれど。