12
時間は、無情に過ぎていく。
約束した通り、北海道のお土産をたくさん買って帰ってきた貴樹は、彩から見てもひどく疲れた顔をしていた。お土産だけを渡しに来たのだと言って、家に上がることもなく貴樹は帰って行った。あまりに疲れていたようなので引き止められず、ましてや、あの空港での光景を問い詰められるような雰囲気でもなかった。
そして、そのまま、貴樹とは連絡が取りにくくなった。
携帯は圏外のことが多くなり、当然、自宅にはいないらしい。何度かけても、留守番電話が応対する。メールを送っても、三回に一回、返信があればいい方だ。たまに電話がつながって話せる時もあるけれど、それは貴樹からの一方的な都合でかかってくるもので、話せる時間も短く、当たり障りのないことを話すだけで精一杯だ。
空港で見かけた光景の理由を聞くこともできないまま、会えない日々は続く。あくまでも恋愛に対しては受け身でいた彩には、それがいわゆるやきもちであることに、最初は思い至れなかった。
貴樹と楽しそうに話していた女の子(貴樹の真意はともかく、彩にはそう見えた)は、どう贔屓目に見ても高校生くらいにしか見えなかった。いや、若く見えるだけかもしれないし、だったら同僚という可能性はある。だとしても、貴樹とはどんな関係なのだろうか、一緒にいた同僚らしき女性の関係者なのか、それとも違うのだろうか、と、何度も考える。会えないままでいる時間が長くて何も言ってくれないだけに、妙な妄想ばかりが膨らんでいく。
その想いは、どうしたって消えてくれない。
そんな自分に、苛々する。
それは、紛れもなく嫉妬で、そう思っている自分に愕然とした。
そんなめんどくさそうな恋愛ごとは、したいと思ったことはなかった。恋愛関係だけに依存せずに、二人で一緒にいるのが自然体のような、そんな恋人が欲しいと思っていた。貴樹となら、何となくそれが叶いそうな気がしていたのに。
それなのに、どうして、こんな。
考えれば考えるほど、頭が混乱していく。そして、そんなふうに考えてしまう自分が、とても嫌になる。
逆に考えれば、こんなふうに混乱しているからこそ、貴樹と会わずに考えられる時間を得られたことはよかったのかもしれないと思う。それでも、会いたいと思った。会わずにいることが、辛いと思った。
そんな時に、貴樹から短いメールが来た。
『今、ものすごく忙しくて、これまで以上に連絡が取りにくくなるかも。ごめん』
そんな短いメールだけで済まされてしまったことに、正直、むっとした。ものすごく腹が立った。
納得は、できる。仕事が忙しいのは、わかる。彩にだって、そういう時期がある。子供ではないし、全てが自分の都合で動くわけがないことも知っている。だけど、だからってメールひとつで済ませてしまえる神経が信じられなかった。
それでも、貴樹に会いたいと思ってしまう自分がいて、いつの間にか彼の存在が大きくなり過ぎていることに気づく。帰ってきたら何故か人の部屋で寛いでいたりする図々しさとか、そういうことが当たり前になっていたことを、知る。だから。
どんなに無理をしても、会いに来て欲しいと、その瞬間に思ってしまった。貴樹が会いに来てくれないのなら、自分からでも会いに行きたい。だけど、彩は貴樹が今どこにいるのかも知らされていなかった。
彼のこと以外、今は考えたくないのに。
彩は、しばらくメールの画面を睨んでいた。
自分の気持ちを整理し、やがてひとつの結論を導き出す。どうにもならなくても、どうにかしたいと思ってしまった。一人の存在にここまで振り回されるのなんて、初めてだった。
携帯を置き、わざわざパソコンを開くと、貴樹の携帯宛てに一行だけのメールを送った。パソコンから送ったのは、自分が自宅にいることをアピールするためだ。
そのメールを見て、貴樹が会いに来てくれることを、少しだけ期待して。
『今から来て』
彩が長い時間をかけて考えた、たった一言だけのメールは、クリックひとつで送信された。
メールの着信音が鳴る。
だが、ホテルの部屋でシャワーを浴びていた貴樹には、その音は聞こえなかった。肌への刺激が強いくらいの熱いお湯を頭からかぶって、身体から疲労を追い出そうとする。けれど、蓄積されてしまったそれは、熱いシャワーを浴びたくらいでは簡単に回復してはくれない。
「……さすがに、疲れたかも」
降り注ぐお湯の中に立ち尽くしたままで、小さくつぶやく。酷使のし過ぎでかすれてしまった声は、傍から聞いていれば痛々しいと顔をしかめられてしまうだろう。
連日のライブで酷使される身体と、声。いつも以上に気を使い、きちんと管理をしているつもりでも、移動の続くツアー中は思いもよらない事態が起きる。体調を崩すことだって、ありえないことではない。
だが、それを会場に集まったファンに悟らせるようなライブをするのは、貴樹のプライドが許さなかった。それは、プロとしてしてはならないことだと思っていた。
それでも、辛い時はある。身体はくたくたに疲れていて、ライブが終わった後には自力で楽屋に歩いて行けないほど、疲労している。両脇をスタッフに支えられて、やっとのことで楽屋に辿り着く。それでも、アンコールには応えて出て行かなければならない。自分を待っている人が一人でもいる限りは、そこで歌うのが自分の選んだ道だから。
辛い。苦しい。
一言では言い表せないほどに、身体がだるい。気分が悪い。身体が自分のものではなくなったかのように重苦しくて、ほんの少しの動作さえも億劫に思えるのだ。
貴樹は最大にしていたシャワーを止め、傍らに手を伸ばして用意しておいたバスタオルを取った。大雑把に水滴を拭ってそのまま部屋に戻ると、机の上に置いてあった加湿器のスイッチを入れ、ベッドへと転がった。しばらくすると、蒸気が噴き出して来る静かな音が聞こえ始めた。
他のメンバーは、イベンターの人たちと打ち上げと称して飲みに行った。一応、誘われはしたが、本調子ではない貴樹はそれを断り、ホテルの部屋で休むことにしたのだ。主役がいないのはどうかとも思ったが、ライブの後に外出できるような余力は、正直言ってどこにも残っていなかった。
ふと、携帯が気になった。
見てみると、彩からのメールが来ていた。珍しくパソコンからのアドレスで、不思議に思いながらもそれを開く。
そこにあったのは、たった一言だけのメール。
嬉しくて、それでいて、切ない。そのメールの希望通りには絶対にできないことを、貴樹自身が一番よくわかっていたからだ。
会いたい。その想いは、貴樹だって同じだ。同じことを彩が思ってくれていたことは嬉しい。けれど、今、会いに行くことなんてできるはずもない。
貴樹がいるのは、ツアー先のホテルなのだ。明日の朝には、また、飛行機で別の地方へ移動する。彩に会えるとすれば、次に東京に戻った時に無理やり時間をひねり出すしかない。
起き上がって時計とメールの受信時刻を確かめる。まだ、寝るには少し早い時間で、メールが来てからそれほど経っていない。起きているはずだと思い、番号を呼び出して発信を押す。
ほとんど待たされることもなく、彩が応答した。
「貴樹?」
「うん。……起きてた?」
「……うん、まだ、寝るにはちょっと早いしね。……そっち、は?」
「今、シャワーを浴びて出てきたところ。これから、寝るつもりだった。そしたら、彩からメールが来ていたから……」
「ねえ、これから来られない?」
急に言われた誘い文句に、言葉に詰まる。
「……ごめん」
わずかな沈黙の後にそう告げて、唇を噛む。
貴樹の答えに本格的に黙り込んでしまった彩は、一体、何を考えているのだろう。顔の見えない電話での会話では、その真意を掴むことなどできるはずもない。
「そう。来られないの」
電話という手段においては長すぎる沈黙の末に、彩はそう聞き返してきた。
「うん。俺、今、自宅にいるわけじゃないし。えっと、福岡、だから」
「ふうん、そうなの」
電話の向こうから聞こえる、小さな溜め息。今すぐに、会いたかった。できることなら、今すぐに彼女を抱きしめられたら、と思う。
かつてないほどに不安にさせていることを、唐突に理解させられた。
考えてみれば、今まで、貴樹の方から一方的に押し付けることが多くて、彩から何かを受け取ることは少なかった。彩はいつも受け身に徹しているタイプだったし、そういう人なのだと思っていた。
けれど、決してそうではないのだということを、今の短い会話で思い知らされた気がしたのだ。
「じゃあ、いつなら会える?」
「来週、東京に帰るから。そしたら、羽田から彩の家に行くから。彩がいなくても、帰って来るまで待ってるし。えっと、俺だって好きで会いに行けないわけじゃないし、だから……」
わかっている。
こんな言葉は、単なる言い訳にしか聞こえない。貴樹が自分の職業をきちんと明かしていない以上、何を言っても嘘と誤魔化しを重ねるだけで、おかしな言い訳が増えて行くだけなのだから。
「貴樹は、いつもそうだね」
「え……っ」
「最初に会った時から、そうだよね。そうやって誤魔化して、自分に都合のいいことばかりを言う」
「……彩」
聞こえてくる声に、少しきつさが混じる。その声音にどきりとして、貴樹は手に持った携帯を握り締めた。
「仕事だって貴樹は言うけど、私には、その内容を少しも教えてくれない。貴樹が何をしているのか、私は何も知らない。別に、無理に聞こうとは思っていないし、言いたくないのならそれでいいと思っていた。でも、今の状況は明らかにおかしいよね。全部を言って欲しいとは言わない。言えないことがあるのは理解できる。でも、言えることだってあるでしょう? 納期が近いとか、決算期だとか、誰かの失敗をフォローしなきゃならないとか! 少しでもいいから話して欲しいと思うのは、私の我儘なの!?」
何も、言い返せなかった。
彩の言っていることは正しすぎて、自分の情けなさに気づいて、泣きたいくらいの自己嫌悪に襲われた。
「何だか、もう、疲れたちゃった。私は貴樹と付き合っているつもりでいたけど、貴樹は違うの? 私だけが空回りしている?」
いつも気丈な彩の声が、少しだけ露を含んだものに変わる。その語尾にわずかに笑いが混ざったように聞こえたのは、どういう意味なのだろう。
その瞬間、心臓を掴み上げられたかのようなショックを覚え、貴樹は、これ以上は隠しておくことは無理なのだということを悟る。
彩がその方面に鈍く、何も知らないこと、追及してこないことに甘えていた。甘えきっていた。
普通に考えてみたら、こんな短期間に、無茶なスケジュールで各地を移動するようにして留守にするのは、異常な事態なのだろう。いくら仕事だと言い訳してみたところで、深く突っ込まれた時に誤魔化すしかできないのでは、そこに不信感が生まれても文句は言えない。
そうして、すれ違って行く。
そのつもりはないのに、彩を裏切っているように思わせてしまう。
おそらく、この辺りが限界なのだろう。解決するためには、全てを告白してしまえばいいのだ。だが、今更、どうやって告白すればいいのか、見当もつかなかった。
それでも、今を逃せば、永遠に彩を失ってしまうかもしれない。それだけは、絶対に嫌だった。
「彩、その、俺、仕事ってのは……」
言いかけて、言いよどむ。どう説明をすれば、嘘っぽく聞こえずに真実を告げられるのだろう。彩の追及に困って、言い逃れるために嘘をついていると思われたら。
真実を言おうとすればするほど、滑稽なことにしかならない気が、して。
「言いたくないのなら、別にいい。でも、少し考えさせて」
「そうじゃない! 俺は……っ」
声がかすれて、喉に張り付く。さっきから少し違和感のあった声が引っかかって、貴樹はむせて咳き込んだ。思い出したように襲ってきた全身の疲労感に、力が抜ける。そのまま、ベッドに倒れ込んだ。
「……貴樹?」
「ごめん、ちょっと、むせた……」
ひとしきり咳き込んだ貴樹を心配するように、彩の声音が変わる。そうして心配してくれる存在を、失いたくない。そう、痛烈に願った。
なのに、勇気がない。
真実を告げて、彩がいなくなってしまったら、生きていけない。以前に付き合っていた彼女のように、REAL MODEの貴樹なんて要らないと言われたら、今度こそ立ち直れない。もう一度追いかけられるほど、度胸はなかった。
「俺、だから……その」
「わかった。もういい」
彩は低い声でそう言って、電話を切った。
慌てて電話をかけ直したけれど、電源を切られてしまったらしく、つながらなかった。何度リダイヤルをしても、虚しい音声ガイドが流れるだけだ。
辛いのも、苦しいのも、自分だけじゃない。それはわかっている。だけど、どうしたらいいのかわからない。この疲労も、何もかも、どうにもならない。
投げ出すように携帯をベッドの上に放り出して、枕を殴りつけた。
「俺だって会いたいってば……!」
他に聞く人もいないのに叫ぶ言葉が、彩に届くはずもない。
帰りたい、と思った。
このまま、何もかもを放り出して空港に行って、飛行機に飛び乗って東京に帰ってしまいたい。今ならすぐに着替えて部屋を出れば、ギリギリで最終便に間に合う。そして、彩の家に行って、謝って、全てを話せばいい。
会いに行きさえすれば解決できるような、そんな気がして。
それでも、放り出すことができないことは理解していた。そこまで、自分に無責任になれなかった。様々な人に支えられている現実を、嫌と言うほどに知っていたからだ。
まずは、目の前のことをこなそう。この身体の不調を何とかして、ライブを成功させるしかない。自分でも納得できる仕上がりでライブを終えて東京に帰ったら、ゆっくりと彩に会いに行く。その時に、今まで言えなかった全てを話す。そうすればいい。
真実を知れば、彩だって許してくれるかもしれない。わかってくれるはずだ。
そんな希望を持つのは、間違いではないと思いたかった。