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今回のツアーは、初めて挑戦する全県ツアーだ。今までは地方でも大都市だけを対象にしていたのだが、ファンからの要望と現在の状況などを考え合わせた上で実現したものだ。全ての都道府県を回り、主要都市では2DAYS、もしくは3DAYSのライブを行う、全部で五十八本の大規模ツアーである。
それを、わずか半年という短い期間でこなすのだ。その精神的・体力的な負担は、並大抵のものではなかった。それでも、貴樹にはそれだけのものをやり遂げようとする気概があったし、できると思えるだけの自信もあった。デビューしてから今まで、培ってきたものは無駄ではないと信じているからだ。
彩と付き合い始めて、三ヶ月。
ちょうどツアーは折り返しの時期に差し掛かっていた。地方を回ってきて、東京2DAYSを一区切りにして二週間ほど間が空く。ぎっちりと詰め込まれたスケジュールはその後にまだまだ続くのだが、ようやく先が見えてきた。そんな気がする時期である。
もちろん、東京に戻ったからと言って仕事がないわけではないし、わずかな時間は細かな仕事で埋め尽くされていると言っても、間違いではない。
それでも、自宅に戻ってくることができるのは息を抜くことができる時間を持てることにつながる。そして、そんな忙しないスケジュールの合間をどうにかやりくりして、貴樹は彩と合う時間をひねり出す。ほんの少しでも、彼女と会って、彼女との時間を持ちたい。だから、無茶な調整だって気力でこなした。
そんな貴樹の涙ぐましい努力も手伝って、会えない時間が多いのとは逆に、彩との距離は縮まってきたようにも思える。
最初の答えが頼りなかったとは言え、付き合い始めて三ヶ月は経つのだ。普通であれば、多少は進展が見られなければおかしいというものだ。
時間が空いた時には、貴樹は、大抵彩の部屋へ上がり込んで入り浸っていた。その方がお互いに都合もよかったからだ。自分の部屋に、彩を呼ぶ勇気はない。知られたくないものが山のように積まれているそこに、彩を連れて行く気にはなれなかった。別に、オタクだというのは最初から知られているし、そんなものが見られたってどうでもいい。エロゲーとアニメDVDの山も、アイドル声優のポスターも、所狭しと並べたフィギュアも、ミサカダイスケ書き下ろし限定品の抱き枕が見られても全然平気だ。
見られたくないのは、REAL MODEの東城貴樹というオフィシャルの部分。いつかは、と思っているけれど、今はその勇気が持てないままだ。
今日の仕事は午前中の撮影だけで、栗原からお昼には帰っていいと言われた。即座に彩にメールを打つと、仕事があるから今は無理だけど、それでもいいなら上がって待っていてもかまわないと返事が返ってきた。
貴樹が訪ねた時には、やはり彩はまだ戻っていなかった。それは最初からわかっていたし、合鍵は少し前に預けられていたから、彩に言われた通りに中に入ってごろごろしていた。
帰って来た彩は、スーパーの袋を下げていた。どうやら、買い物もしてきたらしい。
キッチンでお茶を入れているらしい彩の背に向かって、さっきからどう言えばいいのか考えていた言葉をかけた。
「……あのさ、また、留守にするんだ。明日から。10時くらいの飛行機だったと思うけど」
「どこへ?」
彩は驚いて振り返り、そう聞き返した。
「北海道。ってか、札幌。お土産買って来ようか? 何がいい?」
「……うーん、北海道って言ったら、あれかなぁ?」
少し考え込むように首を傾げてから、北海道土産の定番となっている有名なお菓子の名前を挙げて、彩は笑った。
「え、そんなのでいいの? 他に何かない? 北海道はお菓子美味しいし、いっぱい買って来るよ!?」
「別に……。でも、貴樹がお菓子買い込む姿って想像できないんだけど」
「そうかなぁ……」
「仕事で行くんでしょう? そんな、お土産なんか買う暇あるの?」
「んー、買う暇くらいはあるよ、たぶん」
おそらく、それくらいの時間はあるだろう、と、推測する。もし、自分では買えそうもなかったら、栗原を拝み倒して買ってきてもらえばいい。
本当なら、彩へのお土産は自分で選んで買いたい。けれど、貴樹が無防備に空港をうろうろしていたりすれば、周囲の迷惑になることもあるのだ。そのことを、貴樹は痛いほどに理解していた。
「俺、女の子の好きそうなお菓子はよく知らないけど、えっと、マネ……じゃなくて、仕事場の人に女の人いるから! だから、明日、聞いてみるよ。たぶん、そういうの買う気満々だと思うし、よくわかんなかったら一緒に買ってもらうから」
手近にあったでっかい黄色いぬいぐるみを引きずり寄せ、貴樹はそれをぎゅっと抱きしめて溜め息をつく。
「どうしたの、盛大な溜め息ついて」
「……んー、行きたくないなーって……」
「仕事なんでしょう?」
「そうだけどさ。だって、彩と会えないのは、寂しいじゃないか! 帰って来られるのは来週だし、また、一週間も会えないのかと思うと……」
「何、子供みたいなことを言っているの。大体、そんなに各地を飛び回る仕事って、何をやっているの?」
「……えと、内緒」
何度も繰り返しているその言葉を口にすると、一瞬、彩は表情を強張らせた。だが、すぐにそれを消して、くすりと笑う。
「……子供みたい」
「えー」
苦しい言い訳をしているな、と自分でも思いながら言葉を綴る。それを、彩が薄々ながらも疑っていることも、何となく気づいている。
貴樹のついた苦し紛れの嘘が、どこまで通用しているのかなんて、考えるのも怖かった。彩の傍からいなくなる理由を、必死で正当化しようとない知恵を振り絞っているなんて、彩は考えていないのかもしれない。本当のことを知られたくないのは、ただの貴樹の我儘だからだ。
彩は、どこまで気づいていて、どこまで知らないのだろう。
そして、この嘘が全て知られてしまった時、彼女は、どんな反応を示すのだろう。
時々、その可能性を考える。
今の時間が幸せであればあるほど、それを失うことに怯えている自分がいる。どうしたらいいのかわからないままに、最初についてしまった嘘を取り繕うために更に嘘を重ねることは、心が痛い。自分の弱さと不甲斐なさに、情けなくなってくる。
貴樹が、REAL MODEのメイン・ヴォーカルであること。ツアーともなれば(いや、それに限ったことでもないのだが)、空港や駅で追っかけを引き連れて歩く羽目になるような、そういう存在であるということ。
その事実を、彩は受け入れてくれるのだろうか。
どれだけ考えても、答えは出てこなかった。
「ねえ、貴樹」
「……ん?」
「見送り、行こうか? 10時くらいの飛行機なんでしょう? だったら、明日は遅番だし、見送ってからでも会社には間に合うから」
何気なく提案したのだろう彩の言葉に、貴樹は心の底から驚いてその場で飛び上がりそうになった。思わず、抱えていたぬいぐるみを放り投げてしまうほどに。
「だ、駄目! ぜっっっったい、駄目ー!!」
彩が空港まで来たりしたら、その場で全てがばれてしまうような気がした。栗原が黙って見ていてくれるとも思えないし、何より、空港には追っかけがいるはずだ(いないはずがない)。
そんな状況を見られてしまえば、どう好意的に考えても言い訳の余地がない。
「どうして駄目?」
強行に駄目だと言い張る貴樹を不審に思ったのか、彩は眉をひそめてこちらを見た。
それは、当然の疑問なのかもしれない。
彩と貴樹は付き合っていて(たぶん、思い込みじゃないはずだ)、その相手が地方に出張に行くという。そして、自分は時間が空いているから見送りに行きたい。当然の流れだ。
その会話の流れ自体は、決して不自然なことではない。その申し出を断る方が、よほど不自然だ。付き合い始めてすぐというのであればともかく、既に三ヶ月も付き合っているのだから、そうなっても何もおかしくはない。だから、彩が断られたことに戸惑う気持ちは当然のものだった。
「……えっと、あの、その、そこにいるのは俺だけじゃないし……。し、仕事で一緒の人もいるから、その……は、恥ずかしい……」
それは、嘘では、ない。
天宮が見れば、後で盛大にからかわれるのは必至だから、そういう意味では嫌だ。栗原だって表面上は何も言わないだろうが、後でちくちくとお説教されるから嫌だ。あの連中と彩が顔を合わせるなんて、どう考えても貴樹にとって楽しい結果が待っているとは思えない。
けれど、貴樹が駄目だと思ってしまう根本的な理由とは、わずかに論点をずらしている。
それでも。
他の部分で彩についている嘘があることは、本当だ。
たくさんの嘘を、ほんの少しの真実で取り繕いながら、ちくりと胸を刺す痛みに気づかないふりをする。そんな自分への誤魔化しが、いつまで通用するかなんて、わからなかったけれど。
「……そっか。確かに、職場の人が一緒だと嫌だよね」
貴樹の苦し紛れの言い訳に、彩は納得してくれたらしい。少なくとも、貴樹はその時点ではそう解釈した。彩の想いは、それとは全く別の場所にあったのだけれど。
その後、彩の手料理を食べながら話をして、貴樹は日付が変わる前には彩の自宅を後にした。明日から、また数日に渡って留守にしなければならないのに、準備を何もしていなかったからだ。彩が何か言いたそうにそわそわしていたのには気づいたけれど、その内容が何であるかなんてことまでは気が回らなかった。
彩が、泊まってくれてらいいのに、と思っていたことに、貴樹は気づけなかった。
彩からそう言い出してくれたのなら、もしかしたら、何か変わっていたかもしれない。だが、そうはならなかった。彩は、貴樹には貴樹の事情があるのだと自分を納得させてしまい、それについて貴樹に問い質すことはしなかったからだ。
普段はどうでもいいことをべらべらと喋る貴樹が、頑なに口にしようとしない〝仕事〟のことは、きっと、話題にしたくないことなのだと彩は解釈していた。別に、怪しげな仕事をしているようには思えなかったし、そんなことを無理に聞き出そうとも思わなかった。言ってくれなくても寂しくないと言えば嘘になるけれど、貴樹が言いたくないのならそれでもいい、と思ってしまったのだ。
ただ、何となく気になった。だから、羽田空港まで行ってみようかな、と、彩は考えた。
飛行機の時間と目的地は聞いたのだから、こっそりと見に行くくらいなら大丈夫だろう。要は、向こうの関係者と顔を合わせなければいいのだ。確かに、仕事関係の人たちがいる場でプライベートな関係者と会うのは、気まずいのはわからないでもないからだ。
貴樹には内緒にされているが、彩は地味に気になっていた。それに、仕事に向かう貴樹というのがどうにも想像できなくて、一度見てみたい気がしたのだ。
彩の前で見せる貴樹というのは、仕事をしているというイメージからは程遠い。第一印象がひどかっただけに、その後のイメージが変わってきても、ちょっと馬鹿な大型犬のイメージは抜けきれない。おまけにオタクだし、何だかよくわからないイメージの方が強い。だから、そうではない貴樹を見てみたい気もするのだ。
「……よくわかんないけど、でも、それでいいって思う私が変なのかな……」
付き合っているというのに、どこか遠い。それは、もしかしたら貴樹も感じていることなのかもしれない。けれど、その遠さをどうにかするためにどうすればいいのか、彩にはわからなかった。
彩が誰かと恋人として付き合ったのは、実を言うと貴樹が初めてだ。
だから、恋人同士というものがどうするべきか、今ひとつよくわからない。
そんな、足踏みをしているような関係から、一歩でも進みたい。彩は、そう思っていたのだ。
彩の部屋にいるでっかい黄色いくまは、はちみつ好きのアレで。