1
入り口の方から人が入ってくるたびに、ドアに取り付けられた鈴が重苦しい音を立てる。この店と同様に年季の入ったそれは、お世辞にも軽やかな音とは言えない。それでも、人が来たことを知らせる役には立っているのだから、無用の長物というわけでもないのだろう。
鈴くらい、さっさと取り替えたらいいのに、と思わなくもないが、慣れてしまうと、これはこれで味がある気がしてくるから不思議だ。きっと、ここに通う常連は、似たようなことを考えているに違いない。誰かが文句を言っているところは見たことがないし、そもそも、鈴を替えたところで、ここの客層や入りが変わるとも思えない。
つまり、何も変わらないから放置されているのだろう。
ここは、まるで時が止まったかのようにレトロな空間だ。
いつ来ても時が止まっているように思える、寡黙なマスターが一人でやっている、街の小さな喫茶店。駅からはさほど遠くはないが、大通りからは一本入った閑静な場所にあり、通りすがりにふらっと立ち寄ることができるような魅力的な立地ではない。
年季の入った扉を開ければ、カウンターと、十席にも満たないテーブル席。昔ながらの、とでも付け加えたくなるような外装とその立地も手伝って、客の数は限られている。それでも、それなりに常連客はいる。
彩だって、それが気に入って通っている一人だった。
限られた人数しか入らない店は静かで落ち着くし、マスターの淹れるコーヒーの香りが漂う店内はひどく居心地がいい。考えごとがある時や一人になりたい時にはもってこいだし、コーヒーを飲みながらぼんやりとしているのも至福の時だった。
彩は、この近くにある小さな会社の事務員だ。小さい事務所の性とでも言うべきか、交代でお昼を取るために一人で昼休みを過ごすことも多い彩は、あまり混み合わないこの店が気に入っていた。昼時でもさほど混雑することもないここは、読書や考えごとの邪魔をされることも少ない。店の経営としてそれはどうなのかと思わなくもないが、彩にとっては理想的な環境だ。
毎日のように通っていれば、おのずと座る席も決まってくる。今日も今日とて昼食を兼ねて店に赴けば、カウンターのいつもの席は、残念ながら先客によって占領されていた。仕方なく、一番奥にあるテーブル席を選ぶ。席数の少ないこの店で、一人客である自分がテーブル席に座ってしまっては、迷惑になりかねないが仕方がない。
いつもだったら、カウンターを利用していた。
後から考えれば、ここの席に座ったこと自体が、全ての発端だった。けれど、その時、その席に座らなければ、何事も起きなかったのだと思えば、まさしくそれが発端だったと言えるのだろう。
「おなかすいたな……」
はあ、と、溜め息をひとつ。
いつもならもう少し早い時間にお昼に入れるのに、今日はいろいろと立て込んでいて誰もお昼を食べに行く余裕がなかった。ようやく時間が取れた頃には昼休みというにはだいぶ遅くなってしまっていた。
だから、ここでゆっくりしていく時間もあまりない。それでも、食後のコーヒーを飲んでいる時間くらいはあるはず。
それは、いつもの日課で、変わらない毎日だった。
職場と自宅とを往復するだけの、変わり映えのしない日常。それはつまらないかもしれないけれど、平凡で堅実な生き方だった。波乱万丈な人生を送りたいとは思わなかったし、ドラマに出てくるような恋も、映画のようなスリリングなできごとも、今の生活には無縁のことでしかなかった。
彩はコーヒーを一口飲んで、持って来た読みかけの文庫本を出そうとして頬を引きつらせた。
お気に入りの革製の渋めのブックカバーを掛けていたそれが、何やら珍妙なイラストのついた紙製のものに変えられている。
「な、何これ……」
全く、身に覚えがない。
いや、こんなくだらない悪戯をする相手の心当たりはある。だが、あまり考えたくない。
(大輔……あのバカ!!)
思い浮かべた幼馴染の顔に向かって、彩は思い切り罵倒を浴びせた。
大輔は彩の実家の隣に住んでいた幼馴染で、今はCG関係の仕事に就いている……らしい。らしい、というのは、あまり興味を持って彼の仕事の話を聞いたことがないからだ。彼の仕事の話を聞こうとすると、どうしてもその延長線上にある趣味の話にすっ飛んで行って収拾がつかなくなるので、面倒だからだった。
お互いに実家から出て来て数年、たまに会って近況報告をしあうくらいの付き合いは続いている。とは言え、大輔とは色めいた方向に発展することはまるでない。何故なら、彼は相当のアニメオタクであり、あまりそういったことに興味はないらしいからだ。
昨日だって久しぶりに食事に誘われたものの、終始そんな話ばかりされていたような気がしないでもない。
別に、彼の趣味を馬鹿にしたいとは思わないし、それはそれで勝手にやってくれたらいいとは思うのだが、たまにこういう悪戯をするから頭痛がするのだ。
たぶん、これは、今、彼が関わっているという何とかというアニメのキャラクターだろう。何だかいろいろと細かく説明をされたのだが、右から左に聞き流して終わってしまった。きっと、彩が聞いていなかったのに気づいてこんなことをしたに違いない。
こういうどうでもいい悪戯を、本気でやるのが大輔なのだ。
再び溜め息をついてそのブックカバーを外そうとすると、挟んであった栞まで同じキャラクターの仕様に変えられている。どこまでも用意周到だ。頭痛がしてくる。
すると、何とも言えないタイミングで携帯がメールの着信を知らせる。相手を確認すると、案の定と言うべきか、この悪戯の張本人だった。
彩が驚いたのを想像しているのが楽しいのだろう。メールの文面は短かったが、やけに楽しそうだ。腹が立つということでもない他愛無い悪戯ではあるが、さすがにこれを会社の人たちに見られてしまうようなことがあるのは気恥ずかしい。彼の仕事をバカにしたくはないけれど、そういう目で見てしまう人たちがいるのも本当だから、面倒ごとはなるべく避けたかった。
彩はそのブックカバーを外して、丁寧に折り畳んでバッグにしまい込む。それから改めて文庫本を開き、読みかけのページに視線を落とした。
そうして、彩が本の世界に引き込まれようとしていた、その時。
店の扉が、勢いよく開いた。
店そのものの佇まい同様に年季の入った扉は、もちろん、自動で開くようなものではない。時折、雨が降った日などは湿気で立て付けが悪くなり、客を拒否しているのではないかと思うくらいに重くなる代物だ。そして、扉同様に年季の入った鈴が、鳴っていると言うよりも勢いに振り回されて耳障りな音を立てた。
その騒々しさにせっかくの時間を台無しにされたようで、彩は眉をひそめて視線を上げた。どうやら、入ってきたのは若い男らしい。ちらりと窺うが、見知った顔ではない。
どうでもいいか、とばかりに、彩は視線を本へと戻した。その瞬間に、騒がしい珍客への興味は失せた。知らない相手がどうだろうと、彩には関係のないことだ。
うるさい客がこの静かな空間の空気を乱して行くのは不愉快だが、ここは彩の店ではない。彩には客を拒む権利はないし、ほんの一時だけ我慢して、関わらなければいいだけの話だ。
と、彩が我関せずを決め込んでいると。
どかどか、と足音も高らかに歩いてくる音がして、誰かが彩の向かいの空いた席に腰を下ろした。
「……はあ!?」
相席を頼まれた覚えはない。もし、そうなったとしたら、休憩の残り時間もあまりないことだし、彩は席を立って会計を済ませてここを出てもかまわない。こちらは既に食事を済ませてしまっているのだから、何も問題はない。
「何なの、あなた」
思わずそう言ってその相手を見やれば、相手は慌てた様子で周囲をきょろきょろと見回す。
「ごめん、ちょっとの間だけ、ここにいさせて!」
ね? と、両手で拝むように懇願の姿勢を取られて、彩は思わず黙り込んだ。
向かいに座ったのは、若い男だった。おそらく、彩と同い年か、それよりも少し上くらいだろう。先ほどの騒がしい珍客は、この男に違いない。
派手過ぎない程度に明るく染めた色の髪を長く伸ばして、後ろ髪を緩く後ろで三つ編みにしいて、何とも目を惹くタイプだ。どこが、ということをきちんと説明はできないが、それをオーラというのならそう呼ぶのかもしれない。言い換えるのならば、存在感がある、とでも言うべきだろう。彩はぽかんとして、目の前に座る男を見つめた。
たぶん、この男は、彩が最も苦手で嫌いなタイプの人間だ。どう贔屓目に見ても、相容れないタイプであることを本能的に感じて、警戒心だけが頭をもたげる。
本音を言えば、これ以上は関わりたくはない。だが、彼はどいてくれるつもりはまるでないらしい。
彩の目の前にどっかりと腰を下ろして何をするのかと思えば、彼はポケットの中からくしゃくしゃにまるめてあった帽子を取り出して素早くかぶった。そして、そのままテーブルの上で組んだ腕に突っ伏すような形で顔を伏せ、唖然としている彩に向かってにこりと笑って、小さく人差し指を立てて「静かにね」と言って笑った。
「俺、ちょっとだけ寝るから。だからさ、少しの間でいいから、何も言わないでいてくれる?」
何かを言うも何も、彩には何が何だかさっぱりわからない。どう考えても口の挟みようがないではないか、と思っている彩をよそに、彼は本当に顔を伏せて寝の体勢に入ってしまった。
いきなり人のテーブルに相席を決め込んで、そのうえ、寝るとは何事だ。
腹は立つが、何も言わないでと言われてしまった手前、彩は馬鹿正直に口をつぐむしかない。
相手は見も知らぬ他人なのだから、そんなお願いなど聞いてやる義理も道理もないのだが、妙に律儀な彩の性格では無視することができないのだ。
彩がむっつりと黙りこくったまま成り行きを見守っていると、またしても年季の入った扉が開かれた。驚いてそちらに目をやれば、半開きの扉から中を覗き込んでいたのは、数人の少女たちだった。
彼女たちは息を弾ませ、きらきらとした視線で店内をぐるりと見回した。
「……いないみたい」
「でも、絶対、見たよ! この通りを歩いていたのは、絶対、なんだから! あたしが見間違えるわけないもん。この辺りのどこかの店に入ったのは確実!」
「……この店じゃないんじゃない? 何て言うか、らしくないし」
「うーん、そうかも……。タカくんが選ぶにしては、地味過ぎって言うか、古過ぎって言うか?」
ここを気に入って通う常連や店主もいる前で、神をも恐れぬ暴言を吐く少女たちは、ひとしきり店内を見回してから顔を見合わせた。
「ねえ、やっぱり、この通りを抜けた先にあるショップじゃない? 前にさ、どっかの雑誌であそこの服が好きだとか言ってたような気がするし!」
「きっとそうだね!」
彼女たちは騒ぐだけ騒いで、それを謝罪することもなく、慌ただしく店を出て行った。
後に取り残されたのは、その展開について行けずにぽかんとしている客ばかり。彩もその中の一人であることに間違いはなく、騒がしくも厚かましい少女たちに何とも言い難い溜め息をついた。
そのまま日常に戻るには、些か難のある微妙なぎこちなさを含む空気が漂う。
「……助かったぁ」
そんな微妙な空気を完全に無視して、目の前の男が突っ伏していた顔を上げた。向かいにいる彩にも、周囲の状況にも、全く動じていないと言うか、まるっきり意識の外、とでも言うべきか。
「ねえ、あの」
彼が何から助かったのかなんて、追及するつもりはない。むしろ、どうでもいい。彩は、一人の時間を邪魔されてすこぶる機嫌が悪かった。
刺々しく声をかけると、彼はきょとんとして彩を見た。
何故、彩が怒っているのか、彼は欠片も理解していなさそうに見える。
「はい?」
「はい、じゃないでしょう! 用事がないのなら、他の席に行って欲しいんだけど。見たところ、相席しなければならないほど混雑しているわけではないみたいだけど?」
ここは、さほど席数があるわけでもない。だが、昼時を既に過ぎてしまった時間の今、別にわざわざ相席するほど混み合ってはいない。
用事がないのなら、とっとと他の場所へ移って欲しい。
「何だか、つれないお言葉ですねぇ」
「言わせてもらうけど、私にとってあなたは見ず知らずの赤の他人です。そんな人に一人の時間を邪魔される覚えはないし、不愉快です。そう言えばわかりますか?」
「……見ず知らず。って、俺のこと、知らないの!?」
「どうして、私があなたのことを知っていなくてはならないの? あなたはこの店の常連でもないし、同じ会社の人でもないし、私の個人的知り合いなんかであるはずもない。悪いけど、あなたのように頭に豆腐が詰まったような友人はいないから」
「……豆腐?」
彼はきょとんとして彩を見て、それから、わずかに傷ついたような表情を浮かべた。
一瞬、言い過ぎてしまったかと反省するが、腹立たしい気持ちの方が勝ってしまい、素直に謝罪の言葉は出て来ない。
「ふうん……そっかあ。ねえ、ひとつ、聞いてもいい?」
さすがに怒るかと思ったが、彼は見当違いのことを言い出した。
「え?」
「あのさ、確認するけど、本当に俺のこと知らないの?」
疑うように彩を見やり、言葉を重ねる彼に、彩は更なる苛立たしさを覚えた。
ほんの一瞬前、謝った方がいいかな、なんて思ったことも、吹っ飛んでしまった。
疑われても困る。本当に、知らないのだ。もし、この相手に自分のことを一方的に知られているのだとしたら、気分が悪い。そもそも、そんなこと、念を押されるようなことでもない。
「知らないわよ。用事がないのなら、他へ行ってくれる? 私は、本を読みたいの。それを、あなたが邪魔しているのよ」
もう、時間がない。気になる先まで読み進めるつもりだったのに、一行も進めなかったことを思うと更に腹が立ってきた。
「……あのね、俺ね、東城貴樹っていうんだけど」
聞いてもいないのにいきなり自己紹介を始めた目の前の男に、彩は怒りを通り越して頭を抱えたくなった。
きっと、この男は馬鹿だ。アホだ。関わらない方がいい相手に、関わってしまった気がする。
「何度も言うけど、私はあなたのことなんか知らないから」
彩が溜め息混じりにそう返すと、彼はにこにこと笑った。それも、やたらと嬉しそうに。
「うん、だから、自己紹介! 何か、新鮮で嬉しくて!」
「は?」
「ねえ、俺と友だちになってよ!」
「……はあ?」
貴樹、と名乗った彼の唐突な申し出に、彩は面食らって聞き返した。
何だか、嫌な予感が、する。
「いや、ほら、こうやって出会ったのも、何かの縁ってことで! あ、ねえ、携帯貸して!」
いいとも悪いとも言っていないうちに、テーブルの上に放り出してあった携帯を取り上げられ、勝手にいじくられ、メールアドレスの交換、とやらをさせられた。図々しいにも程がある。帰ったら速攻削除だ。
「はい、俺のアドレスも登録したから! 彩っていい名前だね!」
上機嫌で携帯を返されるが、対する彩の機嫌は降下一直線だ。人が反応できないでいるうちに勝手に個人情報を見られたこの状況でにこにこしていられる人間がいたら、ぜひともお目にかかってみたいものだ。
「ねえ、あなた、どういうつもりなの」
「どういうって……だから、お友だちに」
そう言った貴樹の眼差しが、テーブルの上に放り出してあった栞の方に吸い寄せられる。
「スイートキューティ!」
「は?」
「ねえ、スイートキューティ好きなの!? 俺も大好き! いっぱいレア物持ってるよ!」
ごそごそとポケットを探ると、貴樹は似たようなゴミ(彩にとってはまさにゴミだ)を、ざらりとテーブルの上に広げた。それは、いわゆるフィギュアと呼ばれる類のものだろう。小さめのデフォルメされたタイプのもので、あれこれ種類があるらしいことを大輔が誇らしげに言っていたことを思い出す。
そうしてから初めて、貴樹が口にしたスイート云々が、まさに大輔が言っていたキャラクターの出てくるアニメのタイトルであったことを思い出した。
「お近づきの記念に、これ、あげる!」
要らない、と言い返す気力も失せた。
最初に、豆腐が詰まっている、なんてひどいことを言ってしまったような気がしたが、それは、豆腐に対して失礼な気がしてきた。それ以上に、何と言うか、本気で関わらない方がいいように、思える。
おそらく、黙っていれば女性からはもてはやされる顔立ちなのだろう。こういう派手なタイプは彩が苦手とする相手だから、私生活で接点があることはまずありえない。本能的に拒否してしまうからだ。
頼むからあまり喋らないで欲しい。大輔の話を聞いているよりもひどい頭痛がしてくる、と、思ったものの、それを口に出せば猛然と反撃して来そうだから、やめておいた。
このまま無視してしまうかどうするか、悩んだところで勝手に登録されてしまった事実は消せない。さすがに目の前で消すということをするのは気が咎めるから、持って帰って、知らない所で存在を消去するしかあるまい。
「じゃあ、後でメールするね!」
と、自分勝手な言葉を言い残して、彼は実にさりげなくスマートに彩の分の伝票を持って行き、それを支払って出て行った。
そのあまりの自然な行動に口を挟むこともできずに見送ってから、彩は我に返る。
ひょっとして、それほど嫌な奴でもないのだろうか。いやいや、あれは警戒するべき人種だ、とぐるぐる考えながら、彩は最後のコーヒーを飲み干したのだった。