払拭
次の日から透は巳世の協力者になった。
本当なら医者にかかるのが一番いいのだろうけどそれは巳世が極端に嫌がった。
「じゃあ、それの代わりにと言うのも変だけど」透はそう続けて言った「もし衝動に襲われたら僕を刺して」
その台詞を聞いた巳世は目を見開いて息をのんだ。
「そんなこと――!」
透は巳世の言葉を手で制した。そしていきなり巳世の手を掴み、制服の袖をまくった。腕には包帯が巻かれ、血が浮かび上がっている個所もあり、かなり痛々しい。
「まだ長袖を着てるいのはそれを隠すためだろ?」
「……」
巳世は何も言えず腕を隠す。
「もうそれ以上自分を傷つけるな」透は娘を叱る父親のような口調で言った「こう言うことはあまり言いたくないけど、神並は女だろ」
「だけど、他人を傷つけるのは自分を傷つけるよりこたえるんだよ……」
「協力するって決めたんだ。これからは二人の間に隠し事も遠慮もなしだ」
「……痛いよ?」
「ああ、分かってる」
透は冗談っぽく笑って、昨日、巳世に刺された腕を上げた。そこには小さな絆創膏が張ってある。
その日、早速巳世は衝動に襲われた。
始めはなんとか耐えようとしていたもののやはり理性ではどうしようもなかった。そして異変に気付いた透が巳世の方に身体を寄せ 腕を机の上に置いた。巳世は銀色のシャープペンを握るものの中々行動には移せない。躊躇う様子を巳世に透は強い視線で促した。それでも巳世はできなかった。ただ息だけが荒くなっていく。
透は気づいた。
(ああそうか。神並は今まで自発的に他人を傷付けたことはなかった。剣道の時も昨日僕を刺した時も、半分自我を失っていた。やはりまだ理性があるうちで他人を傷つけるのは抵抗があるのだろう。―――だけど)
このまま自我を失えば次はどんな凶行を仕出かすか分からない。そう思った透はペンごと巳世の手首を掴み、そのまま自分の腕へと突き立てた。
満たされたのか巳世の奥に拡欲望は徐々に息をひそめた
「ごめんね」
授業が終わり一息ついたときに巳世は透の腕を見てそう呟いた。
「いや、こっちこそ無理やりごめん」
しかしこれからどうすればいいのだろう。周りの目がある時は余り派手に動くことはできない。かといって何もしなければどうなってしまうかわからない。巳世と透はそれぞれそう思った。巳世は訪れる明日を恐れ、透は自分の無力を痛感した。
■
次の休日、二人は市の図書館に来ていた。巳世のあの衝動の原因をなんとかしることができないかと言う目論見である。
巳世は医学、心理学の本を読み漁っていた。透はパソコンを使いネットで情報を収集した。二時間ほど経ってそれぞれ得られた情報を話しあった。
「どう?」
透の問いかけに巳世は静かに頭を振った。
「あまり、いい情報は得られなかった」
「こっちもまあ、似たような感じかな。境界性人格障害、自己愛性人格障害、吸血病なんてものも調べてみたけどどこか違う気がした」
「人格障害ってのは間違いじゃないと思うんだけど」
「そもそも、その衝動の根源はなんなんだ? 破壊? 殺人?」
「たぶん……両方」
「それなら人ではなく形ある単なる物質を破壊することではその衝動は抑えられないのか?」
「わからないけど、たぶん無理の様な気がする」
「そうか」
袋小路の現状に二人は小さな溜め息をついた。
どうすればいい? 二人はそんな表情を浮かべた。
「そういえば」透が徐に口を開いた「あるサイトで少し気になる記事を見つけた。イルカっているとどんなイメージがある?」
いきなりの脈絡のない質問に巳世は少したじろぎながら応えた。
「頭がいいとか、聞いたことあるけど。あと溺れている人を助けたとか」
「うん。イルカが人を助けたって話は確かにある。でもそれは別に人を助けようと思ってやったことではなくて元々そういう習性をもっているからなんだ。海で沈みかかったものを何でも支えたりする習性。だからゴミだろうと仲間の死骸だろうとそうする。その対象がたまたま人だったら運よくイルカはヒーローってわけ。そして最初にいった頭がいい、知能が高いっていうのも本当だ。だけど知能が高いが故にバンドウイルカってイルカには残酷な一面もある。そのイルカの中では人間社会にもあるイジメやリンチがある。その目的は人間と同じストレスの発散だ。つけくわえて輪姦があったり、意味もないのに子供を殺す事もあるそうだ。あの愛らしいイルカがそんな凶暴性を持ってるなんて驚いたよ」
「……もうイルカを真っすぐな目で見れなくなった」
「人間はそれ以上に残酷なことをやってるんだから、自分達を棚に上げてイルカのことを残酷だなんて言えないけどな」
「そうだね」
地上で最も高い知能をもつ人間は社会をつくりルールをつくることで理性をもって平和に暮らしているように見える。だけど殺人、強盗、様々な事件が絶えないのは理性を保てない人間が出てくるからだ。皮を剥げば人間の本性――残酷、凶暴、狡猾、卑怯な一面が表れてくる。
透は一つの仮説を立てた。
「人間の、いや動物の本能には元々凶暴性、残酷性があるんじゃないかな。食欲なんかと同じ様に。だけど人はルールに縛られることによってその性質を段々薄めていったんだ。そして今回神並は春の事件で望まずも人を刺して、殺してしまった。そのせいで本能の中野凶暴性が刺激されたんじゃないかな。……全くの想像だけど」
「うん、そんな感じかもしれない。でもその衝動が来た時はなんだかもう一人の自分がわきあがってくるような――」
「二重人格?」
「ううん、やっぱり違う。私はやっぱり私で、その私の凶暴性を持ったもう一人の私に塗り替えられていくような感じ。価値観、思想、全てが今の自分とは違う野性的なものへと塗り変わっていく」
「なるほど……」
結局その日、解決の糸口は見つからないまま二人は図書館を後にした。
■
「その欲望を満たしてしまえばいいんじゃないか? 食欲だって満たされればどんなに好物でも受け付けない」
透はそう言った。
「満たす?」巳世はきょとんとした顔をして「どうやって?」と言った。
「欲望――人を殺したい、壊したい、をそのまま満たすわけにはもちろんいかない。だから――」
だから、透は巳世をつれたってTUTAYAに来ていた。
二人が立つ前に並ぶDVDはホラーやスプラッタもの。
「何か、見たいのとかある?」
「特には……」
透の問いに巳世はそう答えた。
透も特に見たいものはなく、どれがいいのかさっぱりわからなかったので適当にピックアップされているものを三本まとめて借りた。
どちらの家で見る、と言う話になったが、ここから近いということで巳世の家で鑑賞することになった。
「本当にこんなので効果あるのかな」
巳世が不安そうにつぶやいた。
「とりあえず何でも試してみよう」
デッキにDVDを入れて再生ボタンを押した。
そのDVDはそれはもう残酷なものだった。手が飛び、頭が飛び、鮮血が飛び、そんなシーンが相次いでストーリーなど待った頭に入ってこなかった。
透はふと横を見ると巳世がぐったりしている様子に気がついた。
「来たのか? あの衝動」
「ううん。……こういうの苦手みたい」
透に関してもこの映像は決して気分のいいものではなかった。巳世が余りにもグロッキーな状態だったのでDVDは三十分ほどで中断した。
こんな作り物の映像でも巳世は血や残酷なものが苦手のようだった。そんな巳世を狂気に駆り立てるその誘惑はとてつもないものなのだろう。
二人は暫く何をするでもなくぼおっとしていた。テレビには旅番組が静かに流れていた。テレビの中のタレント達は笑顔でおもしろおかしくトークをしている。テレビの前の二人とはまったく対照的だった。
「あ――」
巳世がふと声を漏らした。
何事かと透が視線を移すと顔が僅かに青ざめていた。
「次こそ、来たんだな?」
「……うん」
巳世は言いにくそうに呟いた。
透は腕をまくって巳世の前に差し出した。
巳世は目をそらして否定を示した。
「いいから」
透は静かに優しく促した。
「だけど……やっぱり」
「これぐらいしか、力になれないんだ。少しぐらい役に立たせてくれよ」
それでもまだ、巳世は躊躇っていた。
「さあ、刺してくれ」
透の懇願するような言葉に従ってか、誘惑に耐えきれなくなったかはわからないが巳世はとうとう自らの右手を動かした。近くに合ったペンを手に取り、ゆっくりと、しかし鋭く、透の腕の上へとペンを突き立てた。
初めて、巳世は自らの意思で他人を傷つけた。