隣の少年
春休みに起きた通り魔事件、その事件のせいで巳世はより一層周りから孤立して言った。元々余り人と話すのが得意でもなく好きでもなく、一人でいることが別に苦ではなかったので別段どうでもよかった。
しかし、周りであれこれ噂されるのは正直鬱陶しいと思った。
学校初日からクス中通り魔事件の話題で持ちきりだった。せめて当事者がいるところでは遠慮するだろうと、巳世は新しいクラスメイトに呆れていた。
だが隣の席になった北城透だけはその話題に興味がないらしく、後に分かったことだがその事件のことすら知らなかったらしい。
どこか自分と似たような冷めた雰囲気も持つその少年を巳世は以前から知っていた。
知っていたといっても面識もなければ、話したこともなかった。ただ誰かが透のことで話をしていて、たまたまそれを聞いていて記憶に残っているだけだった。
透にはよく一緒にいる男子生徒がいる。男子生徒も巳世は知っていた。柔道部で部活の時は隣の柔道場にいる。そして去年告白された。丁寧に断った。
透に構ってくるのはその男子生徒だけで、男子生徒がいないときはいつも一人で、自分から誰かに話しかけるところも見掛けなかった。
そんな透に巳世は微かな親近感を覚えていった。
■
ある日、巳世はある場面を透に見られた。
あの通り魔事件の後、巳世は時々ある症状に見舞われた。いや、症状、言うよりは衝動。
その衝動は突然やってきて、耐えようとすればするほど押えがたいものになった。
その日は授業中にその衝動はやってきた。なんとか自我を保つために巳世は自分のシャープペンで自分の腕を刺した。
腕から神経を渡って脳に響く痛み。しかし衝動は緩やかに何処かへ消え去っていくのが分かった。
その場面を透に見られた。
腕をとっさに隠した、すぐに何か言えば誤魔化しようがあったかもしれないがパニックで何も浮かばなかった。
透は確実にそのおかしな行為を見ていた。にもかかわらずその後何をいうでもないし、誰かに言ったようでもなかった。
見なかったことにしてくれたのかも知れない。
しかし数週間後、またしても授業中に衝動に見舞われた。徐々に深く濃くなっていくその衝動、やがてそれは自分の意志では制御できないものとなってきた。
耐えられない。気が狂いそうだ!
そう思った巳世はシャープペンを今度は自分の足へと向けた。こっちなら見られる可能性は少ない。
右足にシャープペンの切っ先が刺さり、激痛が走った。しかし痛みと反比例しれあの衝動が薄れていくのが分かった。
その場面は誰にも見られなかったはず。運よく隣の席の透は当てられて黒板へと向かっている最中だった。しかし巳世は失念していた。血を吸ったスカートの上に浮かんだどす黒いシミのことを。
巳世は視野も広く勘も鋭い、そのため自分に向けられた視線は微かでも感じ取ることができた。だから透が巳世の方をたまに窺っていることもあらかた気がついていた。そして透の視線が自分のスカートの方へ一瞬向けられたのを感じ、自分のスカートを見た。そのとき初めてシミの存在に気付き、失念に気付き、直接あの場面を見られてないにしても何をしたかは以前見られた透には察しがつくことだろう。
巳世は表面では冷静を繕っていたが、内心は焦りに焦っていた。
今度こそなんらかの反応があるだろうか、それともおかしなやつと思われて避けられるだろうか。巳世はそんな不安に駆られた。
■
巳世の奇怪な行動を目撃しているにもかかわらず、透は相変わらず何の反応も返さずいつも通り隣の席で普通に過ごしている。
時折観察するような視線を感じることがあった。あの場面を目撃して少なからず自分のことが気になっているのかも知れないと巳世は思った。
いざ反応が――あの行為は何だったのか? そう訊かれたら一体自分は何と答えただろう。うまく誤魔化せることはできただろうか。あの精神状態の直後ではとても既知に富んだ返答ができるとは思えなかった。だから透がそっとしておいてくれたことに感謝していいのかもしれない。
体育の授業が剣道になった。
その日初めて竹刀を握る生徒も多かったので本当に基礎の基礎から教師は教えていた。知っていることを延々と説明されるのは些か退屈だった。
始終基礎的なことばかりだったので巳世は長く退屈を感じていた。
授業が終わりに近づいたころ、教師が試合の形式と言うものを教えたいらしく、巳世ともう一人の剣道部の柏木にお手本を頼んだ。
(あ、やばい……)
「はじめ!」
試合が始まったころ、巳世はあの衝動が来る気配が分かった。
ゆっくりと、しかし鋭くその衝動は巳世を犯していく。
(こんなときに……)
冷や汗が体中から噴き出し、意識が遠のいて行くのが分かった。
(ああ、そうだ――)
「一本!」
相手の面を殺すくらいの勢いで打った。すると心が軽くなり、あの衝動が和らいだように感じた。
続けて二本目が始まった。
二本目はすぐに決着がついた。今度は巳世の胴が決まった。余りにも鋭い――竹刀ではなく真剣だったら人が真っ二つになっていただろうと思わされるぐらいに強烈な一撃だった。
(あれ?)
巳世は自分の口元が綻び、自然と笑みを浮かべていることに気がついた。
(笑っている?)
巳世はあの日を思い出した。
(そうだ。あの日も、あのときも私は笑っていた。)
あの日、身体に鮮血を浴びて。そして、今も。
(ワラッテいる……?)