巳世観察
透は日々巳世を観察するようになった。
辰哉が言っていたようにほとんどと言っていいほど一人で行動していて、人と談笑している風景など全く見られなかった。
それでもどこか毅然としていて孤独感を感じさせなかった。
武道をやっているせいか巳世の所作の一つ一つが――例えば椅子を引いて席に座る、といった些細なことでも他の人とは違い凛とした感じを味わわされた。
しかしある日彼女の奇怪な行動を目にした。
それは昼下がりで眠気が漂う日本史の授業のときだった。
クラスの五分の一は机に突っ伏し、半数はうつらうつらとしていた。
巳世の視線はしっかりと前を向いていたが、どこか虚ろだった。しかしその目は他の船をこいでいる連中と同じ様な、眠いといったような目ではなかったように思う。
巳世は右手で持っていた銀色のシャープペンで左手の下膊の真ん中あたりをつんつんとつつき始めた。
そのとき授業は教師がただ長ったらしい文を読んでいるだけだった。だから手持無沙汰になり、ペン回しをしているのと同じ様なものだと思った。
透はその様子を半分眠った思考でぼうっと眺めていた。
つんつんつんつん……つんつん……ぶすっ。
(え?)
透は目を疑った。
シャープペンの先が腕に深く吸い込まれ、突き刺さったように見えた。
いや、目を全開にして改めて見ても明らかに突き刺さっていた。
(眠気覚ましにしたって度が過ぎんじゃないか?)
直後、透はさらに目を疑った。
シャープペンが左腕に突き刺さったまま右手カチリカチリとさらに芯を出し始めた。
見ているこっちが痛くなる。
僅かに血も滲んできた。
(痛くないのか!)
透は巳世の顔を窺った。
その表情は、苦痛と安堵が入り混じるという複雑な表情だった。確かに苦痛で歪んでいる、しかし安堵の溜め息を吐くのを確かに聞いた。
巳世が透の視線に気づいた。
万引きを見咎められた小学生のように驚愕の表情を一瞬浮かべて視線をそらした。左手は机の下に隠された。
その事があって以来巳世は暫く透と目を合わせようとはしなかった。
透もその事について問いただす事もせず、辰哉にも誰にも言わなかった。
■
思えば入学して以来一度も巳世と話した記憶がなかった。透の席は巳世の隣で一番話す機会が多い、にも関わらずまともな挨拶すら交わしたことがなかった。
それは、巳世がシャープペンで自ら腕を刺す瞬間を目撃したせいもあるだろう。そのせいで透だけを避けているなら理解はできるが、巳世は相変わらず他人との接触を拒んでいた。
ただ、透も人のことを言えたものではない。
このクラスになって何かと辰哉が絡んでくるが、もし辰哉がいなかったら自分から人に話しかけるということを余りしない透は現在の巳世の立ち位置と大差はなかっただろう。
現に、透はまだ辰哉以外とはまともな会話を交わしたことがなかった。相手が好意を持って話しかけてきても透のローテンションな受け渡しでは、自分のことを嫌っている? 早く話を終わらせたい? と透が思っていると相手は思ってしまう。
透もその事は理解していた。しかし人と話す事を煩わしいと思っていることも少なからずある。それに相手に合わせて自分を変えることが面倒で嫌だった。
だから人と積極的に関わらない所が似ている巳世に新学期初日のようにまたしても親近感を覚えた。
■
授業中。あの事があって以来、透はたまに横目で巳世を盗み見るのが癖になっていた。
今のところ再び痛々しいことはやっていない。何事も無く平然と授業を受けている。
しかしある日のこと、透は巳世の異変に気付いた。
「はあ……」
巳世が小さな溜め息をついた、と透は最初そう思った。
「はあ……はあ……」
しかしそれが数回続き何かおかしいと思い巳世の方をちらりと見た。
元々変化の乏しい表情は平然としていて、いつもとなんら変わりはなかった。
巳世の頬に静かに伝った汗を透は見逃さなかった。その汗は巳世のスカートの上にはじけて小さなシミをつくった。
冷や汗? 苦しんでいる? 透は直感的にそう思った。
「じゃあ北城」
そのとき運悪く透は教師のきまぐれによって指された。仕方なく巳世から視線を外し黒板へと向き直る。黒板には数列の問題が書かれていた。
「はい」
取り敢えず返事をしてから教科書を五秒見つめ解き方を記憶して席を立った。
素早く問題を解いてすぐに席に戻った。
教科書を読むふりをして視線を巳世のスカートへと向けた。
先ほどの汗のシミの数倍の大きさの赤いしみがスカートに広がっていた。思わず視線を彼女の右手にある銀色のシャープペンに写した。
切っ先が赤く見えるのは気のせいだろうか。
そのときも透は何も言わず、何のアクションも起さなかった