推しが婚約破棄されたので王太子に反旗を翻すことにした
「公爵令嬢エレオノーラ!お前との婚約を破棄し、男爵令嬢ハンナ・バルべと私は結ばれる!」
夜会会場に王太子レオナルドの声が響き渡った。
突然の宣言に、集まっていた貴族たちがざわめく。
その視線を一身に浴びながら、名指しされた公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインは、静かにレオナルドを見つめていた。
「…………」
何を言われたのか。
一瞬、理解が追いつかなかった。
婚約を、破棄する。
その言葉を頭の中でもう一度繰り返して。
「……婚約破棄?」
ぽつりと呟く。
そして。
ようやく、その意味が胸に落ちた。
「…………まあ」
エレオノーラの口元が、ほんの少しだけ緩む。
王太子妃にならない。
その意味が胸の奥へゆっくりと染み込み、頬がゆっくりと薔薇色に染まっていく。
「殿下。本当によろしいので?」
その顔は、婚約破棄を告げられた令嬢とは思えないほど、嬉しそうだった。
「……え?」
あまりにも嬉しそうな表情に、レオナルドのほうが戸惑った。
だが、そんなことには構わず、彼は隣に立つ少女へ顔を向ける。
「ハンナ、これで邪魔者は居なくなった。私たちで素晴らしい国を作ろ――」
パシィィィィンッ!
乾いた音が響いた。
「…………」
「…………」
レオナルドの伸ばしかけた手を、ハンナが思い切り払いのけていた。
「殿下」
「ハ、ハンナ?」
「私が好きだと言ったのは、レオ様だと再三申し上げたはずです」
「だから、私のことを愛しているのだろう?」
「違います!」
ハンナの声が、広間いっぱいに響き渡った。
「今まで命令と思って我慢してきましたが、今こそ言わせていただきます!!」
「な、何を……」
「私は、エレオノーラ・ベルンシュタイン様の男役、レオ様のことを言っているのです!!」
広間が静まり返る。
ハンナは胸元で両手を握りしめ、目を輝かせた。
「推しなのです!!!」
「……は?」
レオナルドが固まった。
その隣で。
「まあ」
エレオノーラが、ぱっと顔を輝かせた。
「私のファンだったのですか?」
「はいっ!!」
ハンナは勢いよくエレオノーラへ駆け寄った。
「ずっと、ずっと大好きでした!!初めて舞台を拝見した日から、私の心はレオ様のものです!!」
「まあまあ」
「舞台袖から登場されるだけで鳥肌が立つんです!あの燕尾服!あの立ち姿!あの低い歌声!それから第二幕の――」
「まあまあまあ」
エレオノーラの口元が、どんどん緩んでいく。
婚約破棄されたばかりとは思えないほど、ご機嫌である。
一方。
「待て」
ようやく我に返ったレオナルドが口を挟んだ。
「何の話をしている?」
ハンナが振り返る。
「レオ様のお話です」
「だから、そのレオという男は誰だ!」
「……?」
ハンナが首を傾げる。
「目の前にいらっしゃるじゃないですか」
「…………」
レオナルドは、エレオノーラを見る。
艶やかな金髪。
気品あるドレス。
公爵令嬢らしい優雅な佇まい。
「……どこがレオなんだ?」
「全部です」
ハンナは即答した。
* * *
時は少し遡る。
エレオノーラ・ベルンシュタインには、二つの顔があった。
平日は公爵令嬢。
王太子妃となるための教育を受け、礼儀作法、外交、歴史、政治、語学。
厳しい教師たちから課題を与えられても、エレオノーラは一度も音を上げなかった。
「大変結構です、エレオノーラ様」
「ありがとうございます」
完璧な令嬢。誰もがそう評した。
そして休日。
エレオノーラは、別の顔になる。
王都の中心に立つ、王立歌劇場。
ベルンシュタイン公爵家は、代々この劇場を運営してきた。
劇場の経営だけではない。脚本を書く者もいる。舞台装置を作る者もいる。衣装を仕立てる者もいる。
そして、一族の者たちは皆、役者としても舞台に立つ。
歌劇は、ベルンシュタイン公爵家の家業。
舞台は、彼らにとって社交場であり、仕事場であり、誇りそのものだった。
弟のアルベルトは幼い頃から舞台に立っていた。
将来、公爵家を継ぐ身であっても、この家に生まれた以上、舞台と無縁ではいられない。
エレオノーラも同じく、幼い頃から舞台に立ってきた。
最初は、家業だから。
そう思って始めた稽古だった。
だが、稽古を重ねるうちに、周囲の反応が変わっていった。
「筋がいい」
「あの子は、他の役者とは違う」
台詞の間の取り方。
視線の運び方。
声の伸ばし方一つで、客席の空気を変える力。
気づけば、劇団の中でも一目置かれる存在になっていた。
そして何より、舞台に立つ時間がエレオノーラは好きだった。
化粧を施し、衣装に袖を通し、幕の向こうへ足を踏み出す、あの瞬間。
公爵令嬢としての自分を脱ぎ捨てて、レオになる。
その解放感が、たまらなく好きだった。
だが、それも今だけのこと。
王太子レオナルドの婚約者である以上、王太子妃となる未来が待っている。
彼女に舞台役者としての生活を続けることは許されない。
だからこれは、期間限定の舞台だった。
あと、どれだけ立てるだろう。
あと、何度、幕が上がるだろう。
そう思うたび、エレオノーラは胸が締めつけられるような寂しさを覚えた。
だからこそ、今日も全力で演じる。
一瞬たりとも、後悔しないために。
「レオ様、出番です!」
「ええ」
呼ばれて振り返ったエレオノーラは、鏡の前で微笑んだ。
「今日も楽しみましょう」
鏡の中に映ったのは、公爵令嬢エレオノーラではない。
歌劇場の看板男役。
レオ。
「行ってきます」
その声には、弾むような喜びがあった。
幕が上がる。
「皆様、お待たせいたしました」
低く落とした声。
その瞬間、客席のすぐ目の前まで迫り出した花道の先まで、万雷の拍手が押し寄せた。
「きゃあああああ!!」
レオが花道を渡るだけで、ため息が漏れる。
娘役の手を取り、優雅に跪く。
「あなたを迎えに参りました」
「レオ様ぁぁぁぁ!!」
その中に、一人。
端の席で、誰よりも真剣な眼差しを舞台へ向けている少女がいた。
ハンナである。
「…………レオ様」
両手を胸の前で握りしめ、瞬きすら惜しむように舞台を見つめている。
(今、こっちを見た……!)
もちろん、見ていない。
だがハンナには関係ない。
推しが存在している。それだけで十分だった。
(今日も出待ちの列、並ばなきゃ……)
一方、最上階のボックス席では、王太子レオナルドと側近がカードを囲んでいた。
「殿下、そろそろ舞台を」
「私は婚約者の公演に付き合っているだけだ」
興味なさそうに、次の札を場に出す。
側近は、深く息を吐いた。
王太子の婚約者、公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインが劇場で男役を務めていることは、王都では有名な話だ。
だが、レオナルドは。
舞台上のレオと、婚約者のエレオノーラが同一人物だとは、一度も考えたことがなかった。
そもそも、彼は舞台を見ていない。
舞台では、レオが客席へ向かって微笑んでいた。
「またお会いしましょう」
「レオ様ぁぁぁぁぁ!!」
その声援の中で。
ハンナは幸せそうに笑い。
レオナルドはカードを切っていた。
そして誰よりも舞台を愛するエレオノーラは。
今日もまた、最高の笑顔で幕の向こうへ消えていった。
あと何度、こうして舞台に立てるのだろう。
そんな寂しさを抱えながら。
それでも。
今はただ。
この舞台が、楽しかった。
* * *
「待て!」
レオナルドが声を上げた。
「私は何度も歌劇場へ行っている。だが、君が言う『レオ』という男役は、弟のアルベルトのことだろう!」
「いいえ」
ハンナは即答した。
「アルベルト様は、歌劇場の経営を学ぶことで忙しく、最近はあまり舞台には立っておられません」
「な……では、あの男役は……」
「エレオノーラ様、その人です」
「…………」
レオナルドの顔が強張った。
婚約者の家業である以上、劇場には何度か足を運んだことがある。
だが、舞台の中心で客席を沸かせるあの男役を見るたび、レオナルドは思っていた。
(さすが公爵家の子息だ。見事な芸だ)
弟のアルベルトが舞台に立っていると、ただそう思い込んでいた。
まさか、婚約者本人が燕尾服を纏っていたとは、想像すらしなかった。
「ところで、なぜ殿下は、私が殿下を愛していると思っているのですか?」
「それは……」
レオナルドの顔が赤くなる。
「君が、私に向かって『レオ様……お慕いしております……』と言ったからだ!」
「…………」
ハンナが目を閉じる。
「そのときのことですか」
「そうだ!」
「では、説明いたします」
ハンナは静かに息を吐いた。
「あれは、二年前のことでした」
* * *
ハンナ・バルべは、男爵家の庶子として生まれた。
母は平民で、正式な貴族教育など受けたことがない。
だが父の正妻に子がなかったことから、ある日突然、男爵令嬢として貴族社会に放り込まれた。
礼儀作法、マナー、社交界の常識。
何もかもを、他の令嬢たちより何年も遅れて詰め込まなければならなかった。
失敗すれば、陰口を叩かれる。
「所詮は庶子」と。
そして、何より恐ろしいのが父の反応だった。
礼儀作法の教師から些細な失敗を報告されるたび、父はハンナを書斎へ呼びつけた。
「お前のせいで、バルべ家の名に傷がつく」
叱責は、時に一晩中続いた。
食事を抜かれたことも、一度や二度ではない。
貴族社会に迷惑をかければ、罰が下る。
その恐怖は、幼いハンナの中に深く刻み込まれていた。
だからハンナは、がむしゃらだった。
寝る間も惜しんで作法を覚え、笑われないよう振る舞いを磨いた。
唯一の息抜きが、観劇だった。
歌劇場の客席に座っている間だけは、令嬢としての自分を忘れられた。
ただの一人のファンとして、舞台に夢中になれた。
二年前。
昼下がりの学園。
中庭の木陰にあるベンチで、ハンナは一人、歌劇のパンフレットを眺めていた。
表紙を飾るのは、燕尾服姿の男役。
レオ。
「…………素敵」
ハンナは頬に手を添えた。
「レオ様……」
脳裏に浮かぶのは、昨夜の舞台。
娘役へ差し出された手。
優雅な微笑み。
低く響く歌声。
そして、最後に振り返ったときの、あの流し目。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
「レオ様……推したいしております……」
そのときだった。
「…………!」
たまたま木陰の前を通りかかったレオナルドの足が止まった。
聞こえた。
確かに聞こえた。
「レオ様……お慕いしております……」
「…………」
レオナルドの心臓が、大きく跳ねた。
(私を?)
思わず少女を見る。
ハンナは頬を染め、物憂げな表情で虚空を見つめている。
その瞳には、熱のこもった光が宿っていた。
(この私を……)
第一王子として生まれて以来、女性から好意を向けられることなど、珍しくもなかった。
だが、こんなにも真っ直ぐな想いを。
こんなにも切なげな表情で。
こんなにも熱烈に。
自分へ向けられたことはなかった。
「…………」
胸が、また跳ねる。
知らなかった。
自分は、この少女に、これほどまでに想われていたのか。
(いや待て。これは、独り言なのでは……?)
冷静な部分が、一瞬だけそう囁いた。
だが。
(いや。聞こえた。確かに聞こえた。私に向けられた言葉だった)
都合のいい部分が、すぐさまそれを塗り替える。
そう思った瞬間だった。
レオナルドの中で、何かが弾けた。
「……君は、男爵令嬢ハンナ・バルべだな」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
「私は、君が好きだ」
「…………はい?」
レオナルドは完全に恋に落ちていた。
一目惚れだった。
それも、自分が一方的に告白されたと思い込んだ上での、一目惚れだった。
「君の想いは、私が受け止めよう」
「…………」
「身分のことなら心配するな。私が何とかする」
「…………?」
「私も、君を幸せにしたい」
「ちょっとお待ちください」
「遠慮することはない」
「いえ、そうではなく」
「私の婚約者とのことも、いずれ――」
「殿下」
ハンナは恐る恐る手を挙げた。
「あの……どなたかと、お間違えになっていませんか?」
「何を言っている」
レオナルドは真剣だった。
「君は今、私に愛を告げただろう?」
「……違います」
「いや、聞いた。安心しろ」
「本当に、違うのです……」
歯切れの悪い否定しかできない。
殿下の意向に、真っ向から異を唱えることの重さを、ハンナはよく知っていた。
だが、レオナルドは聞かなかった。
(ここで強くお断りしたら……)
ハンナの脳裏に浮かぶのは、まだ不安定な自分の立場だった。
庶子から成り上がったばかりの男爵令嬢が、王太子の意向に逆らう。
それがどれほど危ういことか、身に染みて分かっていた。
(下手に逆らえば、家に迷惑がかかる……)
上位の者には逆らえない。
貴族社会に放り込まれてからずっと、骨身に叩き込まれてきたことだった。
だから、ハンナは強くは拒めなかった。
食事に誘われ。
贈り物をされ。
馬車を用意され。
学園内では常に側に置かれた。
「殿下、私はそういう意味では……」
「分かっている」
「分かっていません……」
「恥ずかしがらなくていい」
「……違います」
そして。
「殿下、どうかお考え直しください」
側近が何度も諫めても、
「彼女は私を愛しているのだ」
「しかし、その根拠が……」
「本人がそう言った」
「『レオ様』と呼んでいただけでは?」
「それが何だ?」
「殿下のお名前はレオナルドです」
「だからだ」
「いや、だからではなく……」
「私は彼女を幸せにする」
側近は頭を抱えた。
そして王太子は、聞く耳を持たないまま。
どんどん。
どんどん。
ハンナを自分の側へ囲い込んでいった。
* * *
「……というわけです」
婚約破棄の広間に、ハンナの声が響く。
「私は最初から、レオ様への想いを口にしていただけです」
「…………」
レオナルドは呆然としていた。
「では……」
「はい」
「君が言っていた『レオ様』とは……」
ハンナは、まっすぐエレオノーラを見る。
「この方です」
「…………」
エレオノーラは、にっこりと微笑んでレオナルドへ向き直った。
「では、婚約破棄もされたことですし」
「……ああ」
「私は一生を舞台に捧げようと思います」
その言葉に、迷いはなかった。
ベルンシュタイン公爵家の跡は、もともと弟が継ぐことになっている。自分が王太子妃となる以上、いずれは家を離れるつもりだったのだ。
ならば、婚約がなくなった今。自分が公爵家に残ることに問題はない。
何より、幼い頃から立ち続けてきた、この舞台を手放さずに済む。
「これからも、私はレオとして舞台に立ち続けます」
エレオノーラは、晴れやかに笑った。
「それが、私の望んでいた人生です」
「はい!」
隣から、ハンナの元気な声が飛んできた。
「私、一生ついていきます!」
「まあ!」
エレオノーラが嬉しそうに笑う。
「よろしくお願いしますね、ハンナ」
「はい、レオ様!」
「……待て」
レオナルドが呟いた。
しかし、二人はもう彼を見ていなかった。
「次の公演はいつですか?」
「三週間後です。新作を予定しています」
「まあ!新作ですか!」
「ええ。実は以前から温めていた演目がありまして」
「絶対に観に行きます!」
「ふふ。最前列をご用意しましょうか?」
「よろしいのですか!?」
「もちろんです」
「ありがとうございます、レオ様!」
「…………」
王太子レオナルドはただ一人、広間の中央に取り残されていた。
そこへ。
「殿下」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返れば、王家の使者が立っている。
「国王陛下がお呼びです」
「……父上が?」
「はい」
「今か?」
「今すぐに、と」
レオナルドは、ちらりと二人を見る。
エレオノーラはハンナと次回公演の話をしている。
自分のことなど、もう眼中にない。
「…………」
「殿下」
「分かった」
王太子は重い足取りで歩き出した。
その背後で。
「レオ様!次の演目、私にも企画を手伝わせてください!」
「まあ、心強いですわ」
「頑張ります!」
「期待していますね」
二人の楽しそうな声が響いていた。
その日。
公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインは、王太子妃になる未来を失った。
そして同時に。
長年、胸の奥にしまっていた夢を手に入れた。
歌劇に生き、舞台に立ち続けるという夢を。
それから数年。
王都の歌劇場は、以前とは比べものにならないほど大きくなっていた。
新しい演目が次々と上演される。
人気役者が育ち、遠方からも観客が訪れるようになった。
劇場の周辺には飲食店が増え、宿が増え、関連商品を扱う店まで並ぶようになった。
その中心にいたのは、舞台に立つエレオノーラ。
そして。
「こちらの新しい販売計画ですが――」
帳簿を片手に商人たちと話し合う、ハンナだった。
下町で育った彼女には、人の流れを見る目があった。
何が欲しいのか。
何なら売れるのか。
どんな言葉なら人を動かせるのか。
それを知っていた。
「公演終了後の販売所を増やしましょう。人気商品の売り切れが多すぎます」
「しかし、在庫を増やすとなると……」
「売れます」
「根拠は?」
ハンナは、にっこり笑った。
「私が欲しいからです」
「…………」
「そして、私が欲しいものは、きっと他のファンも欲しいです」
その読みは、外れなかった。
やがてハンナは、自ら商会を立ち上げた。
商会の名は、Leo Occhia Splendida。
麗しき獅子の眼。
舞台上で客席を射抜く、レオの眼差しから名付けられたその商会は、瞬く間に劇場とその周辺へ事業を広げていった。
劇場の運営にも携わり。
役者の育成にも関わり。
公演の宣伝から物販まで手がけるようになった。
エレオノーラが舞台を作り。
ハンナがその舞台を広げる。
二人が組んだ歌劇場は、少しずつ、しかし確実に。
王都を代表する劇場へと成長していった。
そして今日も、舞台の幕が上がる。
「皆様、お待たせいたしました」
燕尾服に身を包んだレオが、大階段の頂から羽根を背負い、舞台中央へ歩み出る。
客席から歓声が上がる。
「レオ様ぁぁぁぁ!!」
その最前列で、ハンナが誰よりも幸せそうに拍手をしていた。
―おまけ―
レオナルドは王太子から降ろされた。
そして、王位継承権を持つ第二王子は、現在、外交のため遠方へ赴いている。
新たな王太子を、一日も早く立てねばならない。
「至急、第二王子を呼び戻せ」
国王の命を受け、急使が走った。
こうして第二王子は予定を切り上げ、急遽、王都へ呼び戻されることとなった。
王宮では、別の意味で大騒ぎだったのである。
そんな折。
隣国から、外交のために一人の女王が訪れていた。
夫を早くに亡くし、若くして国を治めてきた女王である。
その日、レオナルドは廊下の向こうから歩いてくる一団に気づいた。
隣国の女王と、その随行の一行。
かろうじて残っていた王族としての矜持で、レオナルドは足を止め、礼を取った。
「お初にお目にかかります。レオナルドと申します」
「…………」
女王の足が、ぴたりと止まった。
視線の先にいるのは、見るからに生気を失った青年。
すぐにその正体へ思い至る。
先日まで王太子だった、第一王子レオナルド。
婚約破棄の末に廃太子となった、今話題の王子である。
「まあ……随分としょげているのね」
女王は、値踏みするようにレオナルドを眺めた。
顎に指を添え、上から下まで、ゆっくりと。
そして、口の端を持ち上げる。その笑みには、憐れみなど欠片もなかった。
あるのは、獲物を前にした獣のような、隠しきれない愉悦だけ。
「可愛いわね」
「……え?」
レオナルドの背筋を、ぞくりと悪寒が走った。
この女、何かがおかしい。
極上の玩具でも見つけたような目をしている。
「私のところへいらっしゃいな」
「…………はい?」
「そんな顔をされたら、放っておけないもの」
女王は、手にした扇子の先で、レオナルドの顎をくいと持ち上げた。
「……うふ」
冷たい絹の感触が、顎先を滑る。
その瞳の奥に浮かんでいるのは、期待に似た輝き。
まるで、これからのお楽しみを、じっくり思い描いているような。
「…………っ」
肩が跳ねる。
だが、女王は楽しそうに笑うだけだった。
「ねぇ、私の夫になってくださる?」
「なっ……ええっ!?」
レオナルドの顔から、血の気が引いた。
拒否しようと口を開く。
だが、女王はすでに彼の腕を取っていた。
「国王陛下にお願いしてみましょう」
「え?」
話が早すぎた。
レオナルドが状況を理解するより先に、女王は彼を連れて国王の執務室へ向かった。
「失礼するわ」
返事を待たず、扉を開ける。
「……女王陛下?」
執務机に向かっていた国王が顔を上げる。
女王は、にっこりと笑った。
「こちらの王子様、いただいてもよろしくて?」
「父上!?」
国王はレオナルドを見る。
女王を見る。
そして。
「結納金としては、ざっとこれくらいでいかがかしら?」
女王が提示した金額を見て、国王は即答した。
「良かろう」
「よいお取引でしたわ」
「そんなぁぁぁ!!」
レオナルドの悲鳴が、執務室に響いた。
だが、時すでに遅し。
レオナルドはそのまま、隣国へと連れて行かれた。
本人の意思など、最後まで一切考慮されなかったという。
それからしばらくして。隣国の王宮では、妙な噂が囁かれるようになった。
夜になると、時折、城の奥から。
「いやだぁぁぁぁぁ!!」
という、悲鳴のような声が聞こえるらしい。
何の声なのか。
誰の声なのか。
王宮の者たちは、誰も知らない。
ただ、その声が聞こえた翌朝には。
女王が、いつも上機嫌で朝食を取っていること。
そして、その隣には。
少しやつれたレオナルドが座っていること。
それだけは、皆が知っていた。
「…………」
「どうしたの?」
「……何でもありません」
女王は、にっこりと笑う。
「そう。なら、今夜も楽しみね」
「…………」
レオナルドは、何も答えなかった。
その夜も隣国の城から、悲鳴のような声が聞こえたという。
その意味を知る者は。
女王ただ一人だった。




