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推しが婚約破棄されたので王太子に反旗を翻すことにした

掲載日:2026/08/10


「公爵令嬢エレオノーラ!お前との婚約を破棄し、男爵令嬢ハンナ・バルべと私は結ばれる!」


夜会会場に王太子レオナルドの声が響き渡った。

突然の宣言に、集まっていた貴族たちがざわめく。


その視線を一身に浴びながら、名指しされた公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインは、静かにレオナルドを見つめていた。


「…………」


何を言われたのか。

一瞬、理解が追いつかなかった。


婚約を、破棄する。


その言葉を頭の中でもう一度繰り返して。


「……婚約破棄?」


ぽつりと呟く。


そして。


ようやく、その意味が胸に落ちた。


「…………まあ」


エレオノーラの口元が、ほんの少しだけ緩む。


王太子妃にならない。


その意味が胸の奥へゆっくりと染み込み、頬がゆっくりと薔薇色に染まっていく。


「殿下。本当によろしいので?」


その顔は、婚約破棄を告げられた令嬢とは思えないほど、嬉しそうだった。


「……え?」


あまりにも嬉しそうな表情に、レオナルドのほうが戸惑った。

だが、そんなことには構わず、彼は隣に立つ少女へ顔を向ける。


「ハンナ、これで邪魔者は居なくなった。私たちで素晴らしい国を作ろ――」


パシィィィィンッ!


乾いた音が響いた。


「…………」


「…………」


レオナルドの伸ばしかけた手を、ハンナが思い切り払いのけていた。


「殿下」


「ハ、ハンナ?」


「私が好きだと言ったのは、レオ様だと再三申し上げたはずです」


「だから、私のことを愛しているのだろう?」


「違います!」


ハンナの声が、広間いっぱいに響き渡った。


「今まで命令と思って我慢してきましたが、今こそ言わせていただきます!!」


「な、何を……」


「私は、エレオノーラ・ベルンシュタイン様の男役、レオ様のことを言っているのです!!」


広間が静まり返る。

ハンナは胸元で両手を握りしめ、目を輝かせた。


「推しなのです!!!」


「……は?」


レオナルドが固まった。


その隣で。


「まあ」


エレオノーラが、ぱっと顔を輝かせた。


「私のファンだったのですか?」


「はいっ!!」


ハンナは勢いよくエレオノーラへ駆け寄った。


「ずっと、ずっと大好きでした!!初めて舞台を拝見した日から、私の心はレオ様のものです!!」


「まあまあ」


「舞台袖から登場されるだけで鳥肌が立つんです!あの燕尾服!あの立ち姿!あの低い歌声!それから第二幕の――」


「まあまあまあ」


エレオノーラの口元が、どんどん緩んでいく。

婚約破棄されたばかりとは思えないほど、ご機嫌である。


一方。


「待て」


ようやく我に返ったレオナルドが口を挟んだ。


「何の話をしている?」


ハンナが振り返る。


「レオ様のお話です」


「だから、そのレオという男は誰だ!」


「……?」


ハンナが首を傾げる。


「目の前にいらっしゃるじゃないですか」


「…………」


レオナルドは、エレオノーラを見る。

艶やかな金髪。

気品あるドレス。

公爵令嬢らしい優雅な佇まい。


「……どこがレオなんだ?」


「全部です」


ハンナは即答した。



* * *



時は少し遡る。


エレオノーラ・ベルンシュタインには、二つの顔があった。


平日は公爵令嬢。

王太子妃となるための教育を受け、礼儀作法、外交、歴史、政治、語学。


厳しい教師たちから課題を与えられても、エレオノーラは一度も音を上げなかった。


「大変結構です、エレオノーラ様」


「ありがとうございます」


完璧な令嬢。誰もがそう評した。



そして休日。

エレオノーラは、別の顔になる。


王都の中心に立つ、王立歌劇場。


ベルンシュタイン公爵家は、代々この劇場を運営してきた。


劇場の経営だけではない。脚本を書く者もいる。舞台装置を作る者もいる。衣装を仕立てる者もいる。


そして、一族の者たちは皆、役者としても舞台に立つ。


歌劇は、ベルンシュタイン公爵家の家業。

舞台は、彼らにとって社交場であり、仕事場であり、誇りそのものだった。


弟のアルベルトは幼い頃から舞台に立っていた。

将来、公爵家を継ぐ身であっても、この家に生まれた以上、舞台と無縁ではいられない。


エレオノーラも同じく、幼い頃から舞台に立ってきた。


最初は、家業だから。

そう思って始めた稽古だった。


だが、稽古を重ねるうちに、周囲の反応が変わっていった。


「筋がいい」

「あの子は、他の役者とは違う」


台詞の間の取り方。

視線の運び方。

声の伸ばし方一つで、客席の空気を変える力。


気づけば、劇団の中でも一目置かれる存在になっていた。


そして何より、舞台に立つ時間がエレオノーラは好きだった。


化粧を施し、衣装に袖を通し、幕の向こうへ足を踏み出す、あの瞬間。

公爵令嬢としての自分を脱ぎ捨てて、レオになる。

その解放感が、たまらなく好きだった。


だが、それも今だけのこと。


王太子レオナルドの婚約者である以上、王太子妃となる未来が待っている。


彼女に舞台役者としての生活を続けることは許されない。

だからこれは、期間限定の舞台だった。


あと、どれだけ立てるだろう。

あと、何度、幕が上がるだろう。


そう思うたび、エレオノーラは胸が締めつけられるような寂しさを覚えた。


だからこそ、今日も全力で演じる。

一瞬たりとも、後悔しないために。


「レオ様、出番です!」

「ええ」


呼ばれて振り返ったエレオノーラは、鏡の前で微笑んだ。


「今日も楽しみましょう」


鏡の中に映ったのは、公爵令嬢エレオノーラではない。


歌劇場の看板男役。


レオ。


「行ってきます」


その声には、弾むような喜びがあった。



幕が上がる。


「皆様、お待たせいたしました」


低く落とした声。

その瞬間、客席のすぐ目の前まで迫り出した花道の先まで、万雷の拍手が押し寄せた。


「きゃあああああ!!」


レオが花道を渡るだけで、ため息が漏れる。

娘役の手を取り、優雅に跪く。


「あなたを迎えに参りました」


「レオ様ぁぁぁぁ!!」


その中に、一人。

端の席で、誰よりも真剣な眼差しを舞台へ向けている少女がいた。


ハンナである。


「…………レオ様」


両手を胸の前で握りしめ、瞬きすら惜しむように舞台を見つめている。


(今、こっちを見た……!)


もちろん、見ていない。

だがハンナには関係ない。

推しが存在している。それだけで十分だった。


(今日も出待ちの列、並ばなきゃ……)




一方、最上階のボックス席では、王太子レオナルドと側近がカードを囲んでいた。


「殿下、そろそろ舞台を」

「私は婚約者の公演に付き合っているだけだ」


興味なさそうに、次の札を場に出す。

側近は、深く息を吐いた。


王太子の婚約者、公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインが劇場で男役を務めていることは、王都では有名な話だ。


だが、レオナルドは。


舞台上のレオと、婚約者のエレオノーラが同一人物だとは、一度も考えたことがなかった。


そもそも、彼は舞台を見ていない。



舞台では、レオが客席へ向かって微笑んでいた。


「またお会いしましょう」


「レオ様ぁぁぁぁぁ!!」


その声援の中で。

ハンナは幸せそうに笑い。

レオナルドはカードを切っていた。


そして誰よりも舞台を愛するエレオノーラは。

今日もまた、最高の笑顔で幕の向こうへ消えていった。


あと何度、こうして舞台に立てるのだろう。

そんな寂しさを抱えながら。


それでも。


今はただ。


この舞台が、楽しかった。



* * *



「待て!」


レオナルドが声を上げた。


「私は何度も歌劇場へ行っている。だが、君が言う『レオ』という男役は、弟のアルベルトのことだろう!」


「いいえ」


ハンナは即答した。


「アルベルト様は、歌劇場の経営を学ぶことで忙しく、最近はあまり舞台には立っておられません」


「な……では、あの男役は……」


「エレオノーラ様、その人です」


「…………」


レオナルドの顔が強張った。


婚約者の家業である以上、劇場には何度か足を運んだことがある。


だが、舞台の中心で客席を沸かせるあの男役を見るたび、レオナルドは思っていた。


(さすが公爵家の子息だ。見事な芸だ)


弟のアルベルトが舞台に立っていると、ただそう思い込んでいた。


まさか、婚約者本人が燕尾服を纏っていたとは、想像すらしなかった。


「ところで、なぜ殿下は、私が殿下を愛していると思っているのですか?」


「それは……」


レオナルドの顔が赤くなる。


「君が、私に向かって『レオ様……お慕いしております……』と言ったからだ!」


「…………」


ハンナが目を閉じる。


「そのときのことですか」


「そうだ!」


「では、説明いたします」


ハンナは静かに息を吐いた。


「あれは、二年前のことでした」



* * *



ハンナ・バルべは、男爵家の庶子として生まれた。

母は平民で、正式な貴族教育など受けたことがない。


だが父の正妻に子がなかったことから、ある日突然、男爵令嬢として貴族社会に放り込まれた。


礼儀作法、マナー、社交界の常識。


何もかもを、他の令嬢たちより何年も遅れて詰め込まなければならなかった。


失敗すれば、陰口を叩かれる。

「所詮は庶子」と。


そして、何より恐ろしいのが父の反応だった。

礼儀作法の教師から些細な失敗を報告されるたび、父はハンナを書斎へ呼びつけた。


「お前のせいで、バルべ家の名に傷がつく」


叱責は、時に一晩中続いた。

食事を抜かれたことも、一度や二度ではない。


貴族社会に迷惑をかければ、罰が下る。

その恐怖は、幼いハンナの中に深く刻み込まれていた。


だからハンナは、がむしゃらだった。


寝る間も惜しんで作法を覚え、笑われないよう振る舞いを磨いた。


唯一の息抜きが、観劇だった。


歌劇場の客席に座っている間だけは、令嬢としての自分を忘れられた。


ただの一人のファンとして、舞台に夢中になれた。



二年前。


昼下がりの学園。


中庭の木陰にあるベンチで、ハンナは一人、歌劇のパンフレットを眺めていた。


表紙を飾るのは、燕尾服姿の男役。


レオ。


「…………素敵」


ハンナは頬に手を添えた。


「レオ様……」


脳裏に浮かぶのは、昨夜の舞台。

娘役へ差し出された手。

優雅な微笑み。

低く響く歌声。

そして、最後に振り返ったときの、あの流し目。


「はぁ……」


思わずため息が漏れる。


「レオ様……推したいしております……」


そのときだった。


「…………!」


たまたま木陰の前を通りかかったレオナルドの足が止まった。


聞こえた。

確かに聞こえた。


「レオ様……お慕いしております……」


「…………」


レオナルドの心臓が、大きく跳ねた。


(私を?)


思わず少女を見る。

ハンナは頬を染め、物憂げな表情で虚空を見つめている。

その瞳には、熱のこもった光が宿っていた。


(この私を……)


第一王子として生まれて以来、女性から好意を向けられることなど、珍しくもなかった。


だが、こんなにも真っ直ぐな想いを。

こんなにも切なげな表情で。

こんなにも熱烈に。

自分へ向けられたことはなかった。


「…………」


胸が、また跳ねる。

知らなかった。

自分は、この少女に、これほどまでに想われていたのか。


(いや待て。これは、独り言なのでは……?)


冷静な部分が、一瞬だけそう囁いた。


だが。


(いや。聞こえた。確かに聞こえた。私に向けられた言葉だった)


都合のいい部分が、すぐさまそれを塗り替える。


そう思った瞬間だった。

レオナルドの中で、何かが弾けた。


「……君は、男爵令嬢ハンナ・バルべだな」


気づけば、口から言葉が漏れていた。


「私は、君が好きだ」


「…………はい?」


レオナルドは完全に恋に落ちていた。


一目惚れだった。


それも、自分が一方的に告白されたと思い込んだ上での、一目惚れだった。


「君の想いは、私が受け止めよう」

「…………」


「身分のことなら心配するな。私が何とかする」

「…………?」


「私も、君を幸せにしたい」

「ちょっとお待ちください」


「遠慮することはない」

「いえ、そうではなく」


「私の婚約者とのことも、いずれ――」

「殿下」


ハンナは恐る恐る手を挙げた。


「あの……どなたかと、お間違えになっていませんか?」

「何を言っている」


レオナルドは真剣だった。


「君は今、私に愛を告げただろう?」

「……違います」


「いや、聞いた。安心しろ」

「本当に、違うのです……」


歯切れの悪い否定しかできない。


殿下の意向に、真っ向から異を唱えることの重さを、ハンナはよく知っていた。


だが、レオナルドは聞かなかった。


(ここで強くお断りしたら……)


ハンナの脳裏に浮かぶのは、まだ不安定な自分の立場だった。


庶子から成り上がったばかりの男爵令嬢が、王太子の意向に逆らう。

それがどれほど危ういことか、身に染みて分かっていた。


(下手に逆らえば、家に迷惑がかかる……)


上位の者には逆らえない。

貴族社会に放り込まれてからずっと、骨身に叩き込まれてきたことだった。


だから、ハンナは強くは拒めなかった。


食事に誘われ。

贈り物をされ。

馬車を用意され。

学園内では常に側に置かれた。


「殿下、私はそういう意味では……」

「分かっている」


「分かっていません……」

「恥ずかしがらなくていい」


「……違います」


そして。


「殿下、どうかお考え直しください」


側近が何度も諫めても、


「彼女は私を愛しているのだ」

「しかし、その根拠が……」


「本人がそう言った」

「『レオ様』と呼んでいただけでは?」


「それが何だ?」

「殿下のお名前はレオナルドです」


「だからだ」

「いや、だからではなく……」


「私は彼女を幸せにする」


側近は頭を抱えた。

そして王太子は、聞く耳を持たないまま。


どんどん。


どんどん。


ハンナを自分の側へ囲い込んでいった。



* * *



「……というわけです」


婚約破棄の広間に、ハンナの声が響く。


「私は最初から、レオ様への想いを口にしていただけです」


「…………」


レオナルドは呆然としていた。


「では……」


「はい」


「君が言っていた『レオ様』とは……」


ハンナは、まっすぐエレオノーラを見る。


「この方です」


「…………」


エレオノーラは、にっこりと微笑んでレオナルドへ向き直った。


「では、婚約破棄もされたことですし」


「……ああ」


「私は一生を舞台に捧げようと思います」


その言葉に、迷いはなかった。


ベルンシュタイン公爵家の跡は、もともと弟が継ぐことになっている。自分が王太子妃となる以上、いずれは家を離れるつもりだったのだ。


ならば、婚約がなくなった今。自分が公爵家に残ることに問題はない。


何より、幼い頃から立ち続けてきた、この舞台を手放さずに済む。


「これからも、私はレオとして舞台に立ち続けます」


エレオノーラは、晴れやかに笑った。


「それが、私の望んでいた人生です」


「はい!」


隣から、ハンナの元気な声が飛んできた。


「私、一生ついていきます!」

「まあ!」


エレオノーラが嬉しそうに笑う。


「よろしくお願いしますね、ハンナ」

「はい、レオ様!」


「……待て」


レオナルドが呟いた。

しかし、二人はもう彼を見ていなかった。


「次の公演はいつですか?」

「三週間後です。新作を予定しています」


「まあ!新作ですか!」

「ええ。実は以前から温めていた演目がありまして」


「絶対に観に行きます!」

「ふふ。最前列をご用意しましょうか?」


「よろしいのですか!?」

「もちろんです」


「ありがとうございます、レオ様!」



「…………」


王太子レオナルドはただ一人、広間の中央に取り残されていた。


そこへ。


「殿下」


背後から、聞き慣れた声がした。

振り返れば、王家の使者が立っている。


「国王陛下がお呼びです」


「……父上が?」


「はい」


「今か?」


「今すぐに、と」


レオナルドは、ちらりと二人を見る。

エレオノーラはハンナと次回公演の話をしている。

自分のことなど、もう眼中にない。


「…………」


「殿下」


「分かった」


王太子は重い足取りで歩き出した。

その背後で。


「レオ様!次の演目、私にも企画を手伝わせてください!」

「まあ、心強いですわ」


「頑張ります!」

「期待していますね」


二人の楽しそうな声が響いていた。



その日。


公爵令嬢エレオノーラ・ベルンシュタインは、王太子妃になる未来を失った。


そして同時に。


長年、胸の奥にしまっていた夢を手に入れた。

歌劇に生き、舞台に立ち続けるという夢を。




それから数年。


王都の歌劇場は、以前とは比べものにならないほど大きくなっていた。


新しい演目が次々と上演される。

人気役者が育ち、遠方からも観客が訪れるようになった。

劇場の周辺には飲食店が増え、宿が増え、関連商品を扱う店まで並ぶようになった。


その中心にいたのは、舞台に立つエレオノーラ。


そして。


「こちらの新しい販売計画ですが――」


帳簿を片手に商人たちと話し合う、ハンナだった。

下町で育った彼女には、人の流れを見る目があった。


何が欲しいのか。

何なら売れるのか。

どんな言葉なら人を動かせるのか。


それを知っていた。


「公演終了後の販売所を増やしましょう。人気商品の売り切れが多すぎます」


「しかし、在庫を増やすとなると……」


「売れます」


「根拠は?」


ハンナは、にっこり笑った。


「私が欲しいからです」


「…………」


「そして、私が欲しいものは、きっと他のファンも欲しいです」


その読みは、外れなかった。

やがてハンナは、自ら商会を立ち上げた。


商会の名は、Leo(レオ・) Occhia(オッキア・) Splendida(スプレンディダ)


麗しき獅子の眼。


舞台上で客席を射抜く、レオの眼差しから名付けられたその商会は、瞬く間に劇場とその周辺へ事業を広げていった。


劇場の運営にも携わり。

役者の育成にも関わり。

公演の宣伝から物販まで手がけるようになった。


エレオノーラが舞台を作り。


ハンナがその舞台を広げる。


二人が組んだ歌劇場は、少しずつ、しかし確実に。

王都を代表する劇場へと成長していった。



そして今日も、舞台の幕が上がる。


「皆様、お待たせいたしました」


燕尾服に身を包んだレオが、大階段の頂から羽根を背負い、舞台中央へ歩み出る。


客席から歓声が上がる。


「レオ様ぁぁぁぁ!!」


その最前列で、ハンナが誰よりも幸せそうに拍手をしていた。





―おまけ―


レオナルドは王太子から降ろされた。

そして、王位継承権を持つ第二王子は、現在、外交のため遠方へ赴いている。


新たな王太子を、一日も早く立てねばならない。


「至急、第二王子を呼び戻せ」


国王の命を受け、急使が走った。

こうして第二王子は予定を切り上げ、急遽、王都へ呼び戻されることとなった。


王宮では、別の意味で大騒ぎだったのである。



そんな折。

隣国から、外交のために一人の女王が訪れていた。

夫を早くに亡くし、若くして国を治めてきた女王である。


その日、レオナルドは廊下の向こうから歩いてくる一団に気づいた。


隣国の女王と、その随行の一行。


かろうじて残っていた王族としての矜持で、レオナルドは足を止め、礼を取った。


「お初にお目にかかります。レオナルドと申します」


「…………」


女王の足が、ぴたりと止まった。

視線の先にいるのは、見るからに生気を失った青年。


すぐにその正体へ思い至る。

先日まで王太子だった、第一王子レオナルド。

婚約破棄の末に廃太子となった、今話題の王子である。


「まあ……随分としょげているのね」


女王は、値踏みするようにレオナルドを眺めた。

顎に指を添え、上から下まで、ゆっくりと。

そして、口の端を持ち上げる。その笑みには、憐れみなど欠片もなかった。


あるのは、獲物を前にした獣のような、隠しきれない愉悦だけ。


「可愛いわね」


「……え?」


レオナルドの背筋を、ぞくりと悪寒が走った。

この女、何かがおかしい。

極上の玩具でも見つけたような目をしている。


「私のところへいらっしゃいな」

「…………はい?」

「そんな顔をされたら、放っておけないもの」


女王は、手にした扇子の先で、レオナルドの顎をくいと持ち上げた。


「……うふ」


冷たい絹の感触が、顎先を滑る。

その瞳の奥に浮かんでいるのは、期待に似た輝き。

まるで、これからのお楽しみを、じっくり思い描いているような。


「…………っ」


肩が跳ねる。

だが、女王は楽しそうに笑うだけだった。


「ねぇ、私の夫になってくださる?」

「なっ……ええっ!?」


レオナルドの顔から、血の気が引いた。

拒否しようと口を開く。

だが、女王はすでに彼の腕を取っていた。


「国王陛下にお願いしてみましょう」

「え?」


話が早すぎた。

レオナルドが状況を理解するより先に、女王は彼を連れて国王の執務室へ向かった。


「失礼するわ」


返事を待たず、扉を開ける。


「……女王陛下?」


執務机に向かっていた国王が顔を上げる。

女王は、にっこりと笑った。


「こちらの王子様、いただいてもよろしくて?」

「父上!?」


国王はレオナルドを見る。

女王を見る。

そして。


「結納金としては、ざっとこれくらいでいかがかしら?」


女王が提示した金額を見て、国王は即答した。


「良かろう」

「よいお取引でしたわ」

「そんなぁぁぁ!!」


レオナルドの悲鳴が、執務室に響いた。


だが、時すでに遅し。

レオナルドはそのまま、隣国へと連れて行かれた。

本人の意思など、最後まで一切考慮されなかったという。


それからしばらくして。隣国の王宮では、妙な噂が囁かれるようになった。


夜になると、時折、城の奥から。


「いやだぁぁぁぁぁ!!」


という、悲鳴のような声が聞こえるらしい。


何の声なのか。

誰の声なのか。

王宮の者たちは、誰も知らない。


ただ、その声が聞こえた翌朝には。

女王が、いつも上機嫌で朝食を取っていること。

そして、その隣には。

少しやつれたレオナルドが座っていること。


それだけは、皆が知っていた。


「…………」

「どうしたの?」

「……何でもありません」


女王は、にっこりと笑う。


「そう。なら、今夜も楽しみね」

「…………」


レオナルドは、何も答えなかった。


その夜も隣国の城から、悲鳴のような声が聞こえたという。


その意味を知る者は。


女王ただ一人だった。




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― 新着の感想 ―
女王様はもしやそっちの意味でも女王様であらせられる・・?
かなりニマニマしながら読ませていただきました (・∀・) 悪役令嬢の婚約破棄というありふれた素材でも、そこに歌劇と過激なファンを組み合わせると、ここまで面白い展開になるんですね。 王太子レオナルド…
読ませていただきました! 「レオ様」が誰を指しているのか分かったところで、思わず笑ってしまいました(笑) 王太子・公爵令嬢・男爵令嬢という、とても見慣れた配置なのに、「男爵令嬢が好きなのは本当に王太…
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