まんじゅうがマジでこわい
「怖いものか。……ああ、あるかな。俺はあるぜ」
手を挙げたのは端に座っていた強面の男だった。
「お、いいね、じゃあ熊さんあんたからだ。あんたは何が怖いんだ?」
仕切り役の源吾は、腰を上げて男に席を譲った。熊と呼ばれた男は源吾の代わりに座の中央に座り、語り始める。
「ああ、俺はまんじゅうが好きだ」
「……ってあんた、好きって言っちゃってるじゃないか」
「それでだな……」
「いやあのちょっと待って熊さん。聞き違いじゃないと思うんだけど、いきなり好きだって言っちゃってるよね」
「ああ、言ったが、何か問題があるのか」
「えーと、念のため言っとくけど、いきなりそこから始めちゃうと、まんじゅう食わせる流れにならないと思うんだが」
「誰が食わせろなんて言った」
「いや、ならいいんだけど……俺たちが聞きたいのは怖いものの話なんだけど」
「ああ、だから怖いものの話なんだ。まあ聞いてくれよ」
ゴホン。熊は咳払いをして話を続けた。
「俺はな、まんじゅうが本当に好きなんだ。もう三度の飯よりまんじゅうが好きなんだよ。とにかく腹がすいていればまんじゅうが食いたい。ある時期は、まんじゅうを一日三食食べていたことさえある」
「それ三度の飯がまんじゅうじゃん」
「いいから聞けって。まんじゅうの魅力に気付いたのは十五の時だったが、それから俺はまんじゅうを毎日食べるようになった。来る日も来る日も、まんじゅうのことばかり考えて過ごしていた。まんじゅうが食べたくて食べたくて、寝てもさめてもまんじゅうまんじゅう。まんじゅうで胸が一杯になってしまって、ご飯ものどを通らなかった。これは恋かもしれない、とすら思った」
「いや、ただの食いすぎかと」
「俺はこんなことじゃいけないと思った。まんじゅうばかり食べてないで、ご飯も食べなくては」
「それはまあ正しいかな」
「ところが、まんじゅうを食べるのをやめようと決意してから、一日ともたなかったんだ。手が震えて、気がつくと戸棚を引っ掻き回していた。俺はすっかりまんじゅうなしでは生きられない身体になっていた」
「……それ、ほんとにまんじゅう?」
「すっかり人生が狂ってしまったんだ。まんじゅう買う金欲しさに、ご隠居から金を巻き上げたりもした」
「うわ、そんなことしてたのか。まんじゅう買う金って大した金じゃないと思うんだけど……なあ、ほんとにまんじゅうなの、それ?」
「でもな、女房を質に入れた金でまんじゅうを食べていた時、思ったんだ」
「よく奥さん別れないな」
「俺はこのままじゃダメになる。いつかまんじゅう欲しさに人を殺すだろう」
「……え? ごめん、なんで? 理由が全くわからない」
「そして俺は自ら矯正施設の門を叩いたんだ。」
「矯正施設って、薬物とかお酒とか、依存症の人が治療の為に入るとこだよね。……まんじゅうで行く人なんていないって」
「俺と同じように、まんじゅうに人生を滅茶苦茶にされた人間が集まっていた」
「いたんかい」
「そこでの四週間のことは思い出したくないが……、一つだけ言える。俺はもう、二度とあそこには戻らない。もう社会に復帰したんだ。二度とまんじゅうに生活を狂わされるのはごめんだ」
「なるほど……。なぜそんなことになるのか全くわからないけど……。とにかく、熊さんにそんな過去があったとは知らなかった」
「だからな、わかるだろ? 俺にとって、今一番怖いものが」
話を聞いていた源吾含め、皆はうなずいた。
「……まんじゅうなんだな」
そういうことさ、と熊さんは言うと、お茶を飲み干した。
*
その時、おずおずと手を挙げた男がいた。
「実は、私もなんです」
「お、八ちゃん、どうした」
「私もですね、まんじゅうが怖い性質でして」
「なんだいなんだい。お前さんもまた、まんじゅう中毒だったなんて言うんじゃないだろうね」
「私の場合はちょいと違いまして……」
語り始める八。熊も聞き役に回る。
「私もですね、ある意味熊さんと同じで、まんじゅうが好きなんです。さすがに一日に三食も食べたりはしませんでしたが。でもまあ子供の頃は毎日食べてました」
「毎日かい。かなり好きだったんだね」
「最初は角の酒屋で売ってる安いまんじゅうを食べてました。でもそのうちですね、ほら隣町に田村屋ってまんじゅうの店があったでしょう」
「ああ、あったねぇ」
「田村屋のまんじゅうはね、味がかなり良かったんですよ。それ食ったらもう、角の酒屋のまんじゅうなんて食えない。田村屋のまんじゅうでないとダメになった。だから今度は毎日隣町まで行って、まんじゅうを買うのが日課になりました」
「まあ、気に入った味だったんだろ」
「ところが上には上があるんです。知ってますかね? 杉野屋というまんじゅうの店がありましてね」
「杉野屋……ああ、聞いたことあるな、偉く遠いじゃないか。往復するだけで半日はかかるとこだ」
「そこのまんじゅうがまた、絶品なんです。食べたことないですか? 田村屋のまんじゅうと比べても、まるで別格ですよ。別の食べ物だ」
「へえ……。そんなにか。一度食ってみるかな」
「私はもう杉野屋のまんじゅうを知ってしまったら、田村屋のまんじゅうもダメになりました。皮一つ、あんこ一つにしても、もうまるで違うものなんです」
「はあ。八ちゃん、意外に舌が肥えてるねえ」
「そう。そうなんです……。舌が肥えてしまったんです。でもなんせ杉野屋は遠いですから毎日は通えない。仕方ないから毎日は諦めて五日に一辺だけ食いに行くことにしました」
「まあいいじゃないか、うまい味を知ったんだろ?」
八はうつむいて首を振った。
「それで終わりなら良かったかもしれません。でも起こったんです。悲劇が。三年前だったかな。京都にある老舗のまんじゅう屋で、琴平屋ってのがあります。そこの職人が江戸に来ていましてね。彼に一個だけ食わせて貰ったんです。それがうまかった。琴平屋のまんじゅうの味は……杉野屋のさらに上を行くものでした」
「……それのどこが悲劇なんだい」
「悲劇です。だってね、琴平屋は京都の店ですよ。そうそう行けるもんじゃあない」
「ああそうか……。まあ、京都に旅行にでも行った時にはまた食べればいいじゃないか。それまではなんだっけ、さっきの杉野屋のまんじゅうで我慢してさ」
八は泣き笑いのような表情になった。
「もう、杉野屋のまんじゅうの味じゃあ……満足できなくなっちまってたんです。私の舌は。もう琴平屋以外のまんじゅうを受け付けないんです」
「おいおい、話聞いてるだけでよだれが出るねえ、そんなにうまいのかい琴平屋のまんじゅうは」
その時、黙っていた熊が口を開いた。
「それでおまえ、どうしたんで。琴平屋のまんじゅうを食った後は。まさかおめえ……」
「……察しのとおりで。年に二度、ですわ。京都へ通ってます。往復で一月かかりますが……」
皆は絶句した。八は悲しそうにうなだれた。
「まんじゅうを食うのをやめられたらどんなに楽かと思いますがね……。それもできねえ。まんじゅうが好きな性分は変えられねえ。でもまんじゅうは琴平屋、あそこの以外考えられねえんで。なあに、年取って親父が死んじまったら、京へ引っ越そうと思っとります」
悄然とした八だが、熊は少し不満そうだった。
「……だがお前は俺と違って、まんじゅうとうまく付き合ってるように思うぜ。ほんとに質のいいまんじゅうだけ食う。だから年に二度しか食わねえ。それで我慢できてるんなら、結構じゃねえか。旅だってその為なら苦じゃねえんだろ? 俺は食えねえんだ。それに比べりゃマシだぜ。……それに、まんじゅうが怖いってのとは違うんじゃねえのかい」
八はそれを聞くと、首を振った。
「いえね、熊さん……。怖いんですよ、だって、もしもっとうまいまんじゅうを知っちまったらどうします」
皆がはっとしたように顔を挙げた。
「私の舌は、今までに食べた一番うまいまんじゅうしか受け付けねえんです。もし琴平屋のまんじゅうよりうまいまんじゅうが、九州にあるとなったらどうします。私は我慢できんでしょう。海の向こう、唐の国なら? 行くに決まってます。シルクロードの先でも……行くでしょうなあ」
八は、急須を取り、湯飲みに茶を注いだ。
「遠いだけならまだいい。行けばいいんですから。だけどね、もしもそうやって見つけた究極のまんじゅうの、作り手が死んじまったらどうするんです? そしたらもう二度とその絶品のまんじゅうは食えない。かといって他のじゃ満足できなくなっちまってる。そしたらね、私はもう一生、まんじゅうは食えなくなるってことなんです。うまいまんじゅうに出会うたびに、あっしの中でのまんじゅうの壁が高くなっちまいます。いつしか二度と越えられない壁ができちまったら、それはあっしにとって、大好きで大好きでたまらないまんじゅうって食べ物が死んじまうことと一緒なんでさ」
八は手の中の湯のみを見つめた。
「それがあっしは心底怖い」
そう言って、八はお茶をすするのだった。
*
「あのう、俺もいいかな」
そう言ったのは、ずっと黙っていた長治だった。
「なんだ長べえ」
「俺もな、まんじゅうが怖いんだ」
「……お前もか……。なんでだどうしてだ」
「俺もな、まあ話せば長いんだ。まず子供のときの話をするな」
「何があった」
「親父がたまーにな、まんじゅうを買ってきてくれた。酔っ払った時にな。みやげでな」
「いい思い出じゃねえか」
「ところがな。親父がまんじゅうを買ってくると、決まってよくないことが起こった。例えば、飼ってた猫が死んだりな。隣の家で病人が出たりもしたし、近所の姉ちゃんが女郎屋に売られたのもまんじゅうを食った翌日だった」
「そりゃ……まんじゅうは関係ねえだろ。偶然ってもんだぜ」
「俺も最初はそう思ってた。でもな、ある時一度だけな、親父が帰ってくる前に、自分でまんじゅうを買って親父を待ってたんだ」
「孝行だな」
「そうじゃねえ。親父と喧嘩した翌日だったんだ。だから買ったまんじゅうは親父が帰る前に食っちまった」
「そらまあ……しょうがねえわな」
「そしたらな、親父は帰ってこなかった」
「……」
「翌朝なあ、川から上がった親父の死体はな、懐にまんじゅうの包みが入ってた。俺の為に買って帰る気だったのか。それ見てやっと、俺がまんじゅうを食うのがきっかけだってことに気がついた」
「そんなバカな話があるか。偶然だろ」
「でもそれまでも全部そうだったんだ。……俺はまんじゅうの呪いだと思った。もう、二度とまんじゅうだけは食わないことにしたんだ」
長治はそこで、皆を見渡した。皆、腑に落ちない顔をしている。
「なんだお前ら、その顔は。俺が冗談を言ってるとでも思ってるのか?」
「……ああ、いやそういうわけじゃねえが……考えすぎじゃねえか?。なんつーか、不幸な偶然が重なっただけじゃねえのかな」
長治は機嫌悪そうに舌打ちした。
「仕方ねえ……じゃあこれも話しちまうか」
「まだ何かあるのか」
「俺はあれから一度だけな、まんじゅうを食った、いや食わされたことがあった」
「食わされた?」
「ああ、あのな、お前ら知らないだろうが、娘がいたんだ。お花って名前でな。こいつは砂遊びが好きでよ。よく小さい頃は浜辺へつれてってやったんだ」
「あれ、お前結婚してたっけ」
「いいから聞け。あるときな、お花がおままごとをしてたんだ。泥で作った食事を並べてな。おっとさん、おかえんなさい、とかなんとかな」
「可愛いもんじゃないか」
「近所に住んでるガキが旦那の役でな、たまたまそん時は俺の気まぐれで、お客さんの役をやったわけだ。おう、ごめんよ、邪魔するぜ、とか言ってな、棒で地面に引いた線をまたいで、家にあがりこむ。あらお客様だわ、お茶をお出ししなくっちゃ、なんて言ってな、お花は水の入った碗と葉っぱの上に乗っけた泥の塊を持ってきた。おー、こいつはうまそうだな、なんつって俺はその泥の塊を口に放り込んだ。もちろん食うフリだがな、こういうのは大げさにやってやった方が喜ぶんだ」
「ああ、うちの子もそんな年頃だからな、わかるわかる」
「ま、後で吐き出せばいいと思ってな、口の中でむしゃむしゃやりながら、聞いたんだ、こいつは何だって」
「泥で何を作ったのかってことかい」
「ああ、そしたらな、お花はな」
長治はそこで、目をつぶった。
「……おまんじゅうよ、てな」
長治は黙った。仕方なく源吾が話を促す。
「それで……何かあったのか」
長治は一息ついて、目を覆いながら話を続けた。
「あわてて口から泥の塊を吐き出した俺を見て、お花は大丈夫かと心配した。俺はとにかく口の中にひとかけらも泥を、いやまんじゅうを残さないように必死でな、水をくれと言った。そしたらお花が水を汲みに井戸へ行って。……落ちたんだ、井戸へ」
訪れる長い沈黙。誰も何も言わない。
「お花は何で死んだ? 俺が水を汲みに行かせたからか?」
長治は急須を取った。
「親父は何で死んだ? 俺と喧嘩したせいで飲みすぎたからか?」
自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「違うな。俺のまんじゅうの呪いに巻き込まれて死んだんだ。俺がまんじゅうへの恐怖を忘れなければ死なずに済んだんだ。だからな、俺は今も……」
天井を仰ぐ。
「まんじゅうが怖いんだよ」
長治は虚ろな目で、湯のみに口をつけた。
*
「俺もいいか。俺もまんじゅうが怖いんだ」
「今度はお前か大の字。なんでだ」
「俺は三ヶ月前、まんじゅうを皿の上に置いていざ食おうと思った矢先に、盗人が入りやがってな。野郎、俺の頭をどついて気絶させた後、家捜しして何も見つけられなかったもんだから、腹いせに俺を柱に縛り付けて、猿轡をかまして、助けも呼べない、動けもしない状態にして置き去りにしやがった」
「そら偉い災難だな……。でも物は考えようだ。殺されなかっただけ良かったじゃねえか」
「まあな。運良く、六日目の晩には助けが来たのもよかった。雨漏りしてて水も飲めたしな。ただなあ、その間、食う寸前だったまんじゅうが目の前にあったんだよ」
「六日間ずっとか。見てたのか」
「ああ、だんだん腹が減ってきて、とにかく食いたくてしょうがねえ。そのまんじゅうがな、目の前でどんどん腐ってくんだ。そりゃそうだ。夏だもんな。茶色いシミができていく。形が崩れていく。えらく虫がたかる。そんなザマをな、ずっと目の前で見せられてるんだ。耐えられねえ。とにかく何でもいい何か食わせてくれ、このままじゃ飢え死にするしかない、それなのに目の前にあるまんじゅうは腐っていく」
「……見なきゃよかったじゃねえか」
「目を瞑っても無駄だ、目蓋に浮かぶのはまんじゅうよ。最後のほうは気が変になりかけてたぜ。目の前にあるのはもはや食いものの体をなしちゃあいねえどす黒い塊なのにな、それでも食いたいと思っちまうんだよ。もう何でもいい食わせてくれってな。たまに正気に戻っては死にたくなったね。俺は今、人でなくなりかけているんだと、そう思っちゃあ頭をガンガンと柱にぶつけてな。人の心を持ってるうちに死にたくてなあ」
「……お前もまた……ずいぶんな思いをしてるなあ」
「ああ、結局助けられて、まともな飯も食えたがな、そしたら今度は、もう腐ってない、まともなまんじゅうを見てもダメなんだ。あの思いが脳裏によみがえってくる。おれが人間であることを忘れかけていたあの時間をだ。俺はもう一生、食えないだろうな。あれを……」
大の字こと大次郎は、吐き気をこらえるように胸を押さえた。慌てて源吾が湯飲みを差し出す。
「みなまで言うな……まんじゅうが怖いんだな?」
ああ、と言って大次郎は茶をすすった。
*
「俺もいいか」
「なんだ今度は」
「俺は昔、まんじゅうが突然変異した化け物に家族を殺され……」
*
「俺もいいか、俺は喋るまんじゅうに一晩中なじられる夢を見たことが……」
*
「昔、悪い魔法使いに、たった一人の弟をまんじゅうにされて食わされたことが……」
*
「食っても食っても減らないまんじゅうが……」
*
「……そして、ワシ以外の全員がな、まんじゅうの話をしたんじゃ」
年老いた源吾は、若き日のあの寄り合いの時のことを、思い出しながら話していた。真剣な顔で話に聞き入っているのは、源吾よりも二回りは若い者たちだ。
「わかったじゃろう。理由は様々じゃが、まんじゅうが怖いという人間は案外多いのじゃ」
皆、うなずいた。一人の若者が代表して、源吾に言う。
「俺達が間違ってました。実は、松ちゃんが寝ている隙に、枕元にまんじゅうを置いてやろうとしてたんです。さんざん皆の怖いもんをバカにした挙句、まんじゅうが怖いだなんて冗談みたいなことを言って、隣の部屋で寝ちまったもんで。みんなでとっちめてやろうってことになったんです。でも、わかりました。まんじゅうが怖いってのはきっと、本当なんですよね。松ちゃんには松ちゃんの理由があるってことなんですよね」
源吾は、深くうなずいた。
「人の数だけ、まんじゅうを怖がる理由がある」
源吾は立ち去った。口々に、若い者たちは礼を言った。
松は、いつまで待っても誰も来ないので待ちくたびれて、襖を自ら開けた。
「おい……なんだ皆、てっきり俺にまんじゅうを食わせてくれる……じゃなかった、怖がらせようとまんじゅうをけしかけてくると思ってたのに、何もしてこないのかよ」
「あ、松ちゃん、起きたか。気分はどうだ。良くなったか」
「そんなん元から良い……じゃない、良くなった。もう調子はいい。なんでぇ、気持ち悪いな。妙に優しいじゃねえか」
「松ちゃん、謝らせてくれ。半信半疑だった。でも今は、まんじゅうが怖いっての、俺達みんな信じてるよ」
「……へ?」
「ごまかさなくていいんだ。その、良かったら理由を聞かせてくれないか。まんじゅう中毒なのか? まんじゅうに依存性があるなんて俺達も知らなかった」
「依存性? 何の話だ?」
「それとも至高のまんじゅうに出会う恐怖なのか? あるいは嫌な思い出とかが関係してるのか?」
「えーと、いや理由とか無いけど……じゃなかった、それはおいといてだな……。俺はもう、あれを見たら、怖がって泣き出しちゃうだろうよ。そりゃもう、情けない有様で。お前らも絶対見たいだろうなー。 だから、絶対やるなよ、いいか、絶対に、やるなよ? 絶対に、山ほどまんじゅうを俺に食わせようとしたりは、するなよ……?」
……と言って、皆の反応を伺ってみる松。だが、皆はまっすぐな瞳で松に向かってうなずいた。
「ああ、絶対にやらない」
「……ってなんでだよ! おかしいだろ。芸人が絶対やるなって言われたら……」
「いや俺達芸人じゃないしな。いいんだ、松ちゃん、まんじゅうが怖いことは恥ずかしいことじゃない。泣いたっていいじゃないか。俺だって子供の頃に蜘蛛を見た時はよく泣き出してたよ」
みんながうんうんとうなづきながら、暖かい視線を向けている。松はもう、自分の目論見が通用しそうにないことを悟った。
「あーもう。こんな筈じゃなかったんだけどなあ。あーもういいや。もういいよ。あれは嘘だ、まんじゅうなんか怖くないよ」
「え? 嘘なのか? なんだよ、もう心配したじゃないか。なあみんな」
ああ、良かった、安心した、等と口々に皆が漏らす言葉がやけに暖かいので、松はすっかり気持ち悪くなった。
「で、本当は何が怖いんだ? 松ちゃん」
「え、ああ……」
松は少し考えて、ニヤッと笑ってこう言ってみた。
「そうだな。今は濃いお茶が一杯怖い。……なんつってな」
だが、皆の反応を見て松は青ざめた。誰の目にも、少しの疑いも、冗談に対する理解も、浮かんでいなかったからだ。松は、自分が襖の向こうで寝た振りをしている間に、すっかり世界が変わってしまっていることを知った。
「そうか松ちゃん、お茶が怖いのか。わかった。話すのが辛くないならで良いんだが、その理由を聞かせてくれないか?」