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第五話

 皇太子殿下の私邸(ヴィラ)は、帝都から少し離れた森の奥にひっそりと佇んでいた。案内されたダイニングルームは意外にもこぢんまりとしていたけれど、並べられた調度品はどれも数百年以上の歴史を感じさせる美しさを放っている。


「そう固くならないでほしい。今夜は公式の席ではない。僕はただ、貴女と夜が更けるのを楽しみたいだけだ」


 殿下はそう仰って、自ら椅子を引いてわたしをエスコートしてくださる。その所作は完璧な紳士そのものなのに、わたしの緊張は解けるどころか増すばかりだった。


「……殿下、その、わたし……」


「僕を前にして、緊張するなという方が無理な話なのだろうか。長く生きてきたが、誰もが同じ顔をする」


 そう言って殿下が合図をすると、最初の一皿が運ばれてきた。魔界の深淵で、月の光だけを浴びて育ったという黒無花果を使った前菜。恐る恐る口に運べば濃厚な甘みが広がり、緊張で乾いていた喉が潤っていく。

 続いて運ばれてきたのは、銀の器に入った夜禽の骨髄スープ。スプーンで一口、とろけるような骨髄が全身の血を沸き立たせるように広がった。


「……っ、おいしい」


 最初は味なんて分からないと思っていたのに、本音がこぼれてしまった。こんなに奥深い味がこの世にあるなんて。強張っていた指先の力がふっと抜けて、わたしが夢中でスプーンを動かす様子を、殿下は急かすことなくただ穏やかに見守ってくださっていた。


「ようやく心の色が見えた。貴女が美味しそうに口にする姿は、見ていて飽きない」


 それからの時間は、魔法にかかったように穏やかだった。殿下のお話はどれも博識で、まるで本のページを一枚ずつめくっていくような心地よさがある。わたしが夢中で聞き入り、時に驚いて目を丸くすると、殿下は満足そうに口角を上げた。


 やがて、メインのお皿が運ばれてきた。銀の蓋が外されて、赤身の多いレアのステーキが現れる。焼き目は控えめで、血の香りはあるけれど強すぎなかった。


「貴女は人間の血をあまり好まれないと聞き及んでいる。だから、子牛のものを用意させた」


「わたしのために……?」


「遠慮はいらない。公の席ではないのだから」


 よく見れば、向かいの皿のお肉はわたしのものとは少し違っていた。同じように赤く、同じように淡い焼き加減だけれど、脂の入り方も筋の走り方も決定的に違う。


「嗜好はそれぞれだ。同じ卓に着いて、同じものを食す必要はない」


 わたしの小さな好みを、こんなにも丁寧にさりげなく掬い上げてくださるなんて。この世界では、強者が弱者を染め上げるのが常だというのに。


「殿下は……とても、お優しいのですね」


「そうだろうか。だが、貴女にそう評されるのは存外に悪くない。光栄に思おう」


 殿下はわずかに瞳を細め、金色の瞳に光を宿した。その微笑みは冷たい氷を溶かす春の月光のようで、わたしは心から「この方は素敵な方だわ」と確信してしまった。お兄様たちが恐れる皇太子殿下とは、きっと別の顔。わたしだけに見せてくれる、特別な優しさなのだわ。


 食事が終わると、殿下はそっとわたしの背に手を添えてエスコートしてくださった。


「夜風を浴びるにはまだ少し早い。もしよろしければ、僕が蒐集したものを見ていただけないか。貴女が興味を持ってくれると嬉しいのだが」


 案内されたのは、ヴィラの最奥に位置する吹き抜けの壮大なギャラリーだった。高い壁には数千年にわたる魔界の歴史を物語る名画や、今ではもう見ることのできない幻獣の剥製たちが、完璧な秩序を持って並べられていた。


「すごい……。まるで、世界の時間がすべてここに集まったみたい」


「そうかもしれない。ここにあるのは、僕が長い旅路の中で心に留まったものばかりだ。例えば、この剣も」


 殿下が指し示したのは、透き通るような青い鉱石で作られた一本の細剣だった。


「これは、今はもう海に沈んだ王国の鍛冶師が最期に打ち上げたものだと言われている。鍛治師が何を想ってこの色を選んだのか、今では確かめる術もないが……この輝きだけは、何百年経っても色褪せることがない」


 古い友人の思い出話を語るかのような語り口に、わたしは導かれるようにギャラリーの奥へと進んでいった。見たこともない翼を持つ鳥の剥製、夜の砂漠でしか見つからないという星屑の結晶、そして、見る者の感情によって色を変えるという不思議なタペストリー。


「殿下は、本当に素敵なものに囲まれていらっしゃるのですね。……そして、それをこんなに大切にされている」


「僕は、形あるものがその美しさを永遠に保ち続ける様を見るのが好きなのだ。だがこうして貴女が目を輝かせて見つめてくれると、この品々も新しい価値を見出したように見える」


 完璧に整えられたこの場所で、殿下の穏やかな声に耳を傾けていると、自分の心までもが磨き上げられたクリスタルのように澄んでいくような気がした。ここには泥もなければ、殺されるかもしれないという恐怖もない。


「……ピピストラ嬢。貴女の美しさも、このギャラリーにとてもよく馴染んでいる」


 殿下はそう仰って、わたしの髪を羽が触れるような軽やかさで撫でた。その指先は温かいのに、ギャラリーの静寂に溶け込む殿下の横顔を見ていると、ふと、不思議な感覚に襲われる。

 この素晴らしいコレクションの一つとして、わたしもいつか、この壁に並べられるのではないかしら──。


「……殿下?」


「どうした。足が疲れただろうか」


「いいえ。あまりに素敵な場所なので、少し圧倒されてしまっただけですわ」


 そうして再び、美しい工芸品や名画に見惚れながら静寂に包まれたギャラリーを進んでいた、その時だった。


「……?」


 完璧に磨き上げられた床の隅を、小さな影が横切った。素早い動きに思わず肩が跳ねる。よく見れば、それは一匹の灰色の鼠だった。どこかから迷い込んでしまったのだろう、わたしたちの存在に気づくと、小さな鼻をヒクヒクと動かして立ち止まった。


「申し訳ない。森が近いもので、時折こうして招かれざる客が紛れ込む」


 殿下は不快感を示すどころか、ひどく穏やかな声でそう仰った。そしてそのまますっと目を細め、鼠をじっと見つめる。その瞬間、ギャラリーの空気が澱むように重くなったような気がした。金色の瞳が、キャンドルの光を吸い込んで底知れない深みを帯びる。


 すると、さっきまで怯えたように固まっていた鼠の様子が一変した。まるで糸で操られる人形のように、不自然なほど滑らかな動きでくるりと向きを変え、迷うことなく扉の隙間へと走り去っていったのだ。


「……殿下、今のは……?」


「湖へ行かせた。森の小さな命には、少々深すぎるが」


 わたしは驚きのあまり、言葉を失ってしまった。悪魔族の最上位種は、人間や他の動物の意識を自在に操ることができる……そんな噂を古い書物で読んだことがあったけれど、目の前で起きてもとても信じられない。

 わたしたち吸血鬼も、長い時間をかけて契約を結べば使い魔の猫やコウモリと意思を通わせることができるけれど、殿下はただ見つめるだけで、生き物の意志を塗り替えてしまったのだ。


「……すごいです。そんなことが、あんな一瞬でできてしまうなんて」


「それほどのことでもない。むしろ見苦しいものをお見せしてしまった。……さあ、あちらに珍しい銀の燭台がある。星の光とよく似た輝きをしているんだ」


 再び歩き始めた殿下の背中を見つめながら、わたしはあらためて、この方の持つ力の深淵を垣間見た気がした。その強大すぎる力に、ほんの少しだけ背筋が震える。けれどそれ以上に、この夜をわたしだけが共にしている──そんな事実に満たされていく。

 この方の視線が向けられる先が、今はわたしだけであること。それが意味する未来を深く考える前に、小さな喜びがそっと芽を出してしまった。

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