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第四話

「……来ちゃだめだって、昨日あんなに言ったのに!」


 呆れを通り越して、わたしはひっくり返りそうな声を上げた。カーテンを開けた先にいたのは、案の定、欄干にマントを引っかけて「……あ、いや、これはその、不法侵入ってほど悪意はなくて……」としどろもどろになっているリンデンだった。


「だってあんなに親切にしてもらったのに、お礼もしないで消えるのは僕の良心が黙ってなくて。これ、街で一番人気のパイなんだ。仕事終わりに寄ったら、ちょうど焼き上がりでさ」


「……わたしに?」


「そう! 昨日の夜、何だかお腹が空いてるような顔をしてたから。あ、違うかな、寂しそうな顔……だったかな。とにかく、美味しいものを食べれば元気が出るよ」


 彼は誇らしげに油の染みた紙包みを差し出した。中には、人間たちが好む匂いのするこんがりと焼けたパイが入っている。わたしは戸惑いながら、そのパイをひとかけら、指先で千切って口に運んだ。吸血鬼の舌にとって人間が食べるものは砂を噛むようなもので、味なんてこれっぽっちもしない。


 けれど目の前の彼は、自分が好きなものをわたしにも味わってほしいと、キラキラした期待に満ちた目で私を見つめている。昨夜必死に逃げたはずのこの死地へ、わざわざこれだけを届けるために戻ってきたのだ。


「……美味しいわ。こんな味、初めてよ」


「本当? よかった……! 君が食べてくれるなら、また壁を登ってきた甲斐があったよ」


 彼は登る途中でぶつけたという腕をさすりながら、本当に嬉しそうに笑った。味がしないことなんて、言わなくていい。わたしはドレスの裾を気にせず、彼の隣に腰を下ろした。


「あ、そうだ。パイを焼いてるおじいさんの話なんだけどさ……」


 そこから、彼はとりとめもない話を始めた。ヤギが逃げ出して大騒ぎになった話や、昨日見つけた珍しいキノコの話。身振り手振りを交えてまるで演劇でもしているかのように大げさに語る。薬草を採ろうとして川に落ちた時の、間の抜けた顔まで再現してみせるのだから可笑しくてたまらない。


「あなた、本当に……ふふ、おかしいわ。そんなことで命を落としかけるなんて」


「いやあ、僕もそう思うよ。でもこうして君が笑ってくれるなら、びしょ濡れで森を走り回った甲斐もあったってもので……」


 その時。遠くの廊下から軽やかな、けれど聞き慣れた足音が近づいてくるのが分かった。ルキフェルお兄様だ。お兄様はいつも、興奮すると靴音が高くなる。


「ピピ、起きているかい! 皇太子殿下からまた追加で贈り物が──」


 わたしの心臓が、吸血鬼にあるまじき速さで跳ねた。


「……っ! 隠れて!」


「えっ、わわ、何!? 盗賊の親分が来たの!?」


「いいから、こっち!」


 わたしは彼の腕を掴み、部屋の隅にあるクローゼット──皇太子殿下から贈られたばかりの、まだ一度も袖を通していないドレスが並ぶ中へと彼を突き飛ばした。


「痛っ。ちょっと、ここすっごく肌触りがいいけど、めちゃくちゃ狭……」


 リンデンの口を手のひらで塞ぎ、ドレスの裾をカーテン代わりにしてクローゼットを閉めた直後、部屋の扉が勢いよく開く。


「ピピ! 見てごらん、今度は殿下の領地で造られた『紅月の滓』だよ。これを飲めば、爪が伸びて力がみるみる増して──……おや?」


 お兄様が、部屋の入り口で鼻をひくつかせた。優雅に掲げられたボトルの先で瞳が鋭く細められる。


「……なんだか奇妙な匂いがするね。これは……泥と、汗と……それから香ばしい、安っぽい小麦みたいな……」


 兄の視線がゆっくりと部屋の中を這い回り、わたしたちが今しがたまで座っていたバルコニーのそばへと向けられた。


「……気のせいじゃないかしら、お兄様。そのお酒の香りが、あまりに芳醇だからそう感じるのよ」


 わたしはお兄様の視線を遮るように一歩前に出た。兄は「そうかな?」と首を傾げたけれど、幸いなことに彼は今、皇太子殿下からの贈り物に夢中だ。


「まあ確かに、五感を狂わせるほど素晴らしいってやつだ。とりあえずここに置いておくからさ、あとでちょっとだけ飲ませて。お願い」


 お兄様がようやく部屋を出て、足音が完全に遠のいたのを確認してから、わたしはクローゼットの扉を開けた。


「し、死ぬかと思った! あんなに滑らかなのに、息ができないなんて……」


 這い出してきたリンデンは、高級な絹のドレスに埋もれて髪をさらにぐしゃぐしゃにしていた。わたしは彼の背中を押すようにして、再びバルコニーへと連れ出す。


「いい、リンデン。今度こそ本当にお別れよ。……ありがとう。あなたのお話も、そのパイも本当に素敵だった。もう充分すぎるほど恩返しはしてもらったわ」


「……ピピストラ」


「もう来てはいけないわ。約束よ。さあ早く」


 わたしは彼を追い立てるようにバルコニーの欄干へ促した。リンデンは不器用な手つきで壁に手をかけ、少しずつ降り始める。数メートル下まで降りたところで、彼はふと足を止め、見上げるようにしてわたしを呼んだ。


「ピピストラ!」


 彼は何かを言いかけるように口を半端に開け、喉の奥まで言葉がせり上がっているようだった。けれどそれを飲み込むようにして、頬を緩めて穏やかに笑った。


「……ううん、なんでもない。……またね!」


 それだけ言うとぶんぶんと千切れんばかりに手を振って、闇の中へと消えていく。静寂が戻った部屋で、わたしは一人、冷たいカウチに身体を沈めた。

 部屋にはまだ、かすかに小麦の温かい匂いが残っている。皇太子殿下からの輝くような贈り物は、相変わらず冷たくそこにある。


 ──またねなんて、言わないで。


 彼が言いかけた言葉は何だったのだろう。それを聞く勇気も、彼をこの闇に引き留める資格も、わたしにはないのに。騒がしい心を落ち着かせるために、昨日お姉様とお兄様が手に入れてくれた本を手に取った。


「……あったわ」


 約束通り、二人が見つけてきてくれた『ロミオとジュリエット』。表紙の端に少し血痕がついていたけれど、今度はあの時のように、誰かの絶望で血まみれになったりなんてしていない。


 昨日はこれを読み耽るはずだった。けれどリンデンが無事に森を抜けられたかどうかが気になって、文字の上を視線が滑るばかりで全く集中できなかった。まさかせっかく命拾いをして帰したのに、翌晩あんな変な格好で、しかもお礼のパイを抱えて戻ってくるなんて、誰が想像できるだろう。


 わたしはページをめくり、続きを読むためにバルコニーの場面を探した。今度の本は戯曲ではなく小説として綴られていて、台詞運びも前のものとは少し違っている。


 ──どうやってここへ? 見つかれば命はないのに。


 ──愛の翼で、この壁を飛び越えてきました。


 ジュリエットの問いかけに、さきほどまでそこにいたリンデンの姿を思い出した。あんなに何度も足をもたつかせ、マントの裾を踏んで、挙句の果てに鼻までぶつけて。

 あんなに不格好でおっちょこちょいな侵入劇だったけれど、あの高い石壁をわざわざ登り、見つかれば殺される危険を冒してまで会いに来るなんて。


「……本当に、ロミオみたいじゃなくて?」


 もちろん、物語の中の美しい恋人とは似ても似つかない。泥だらけで、自分でも怪しい人間だと言ってしまうような、世界一変なロミオ。


 物語の中で、二人は敵対する両家に隠れてひそかに結婚することを決める。神父様のもとへ駆け込み、厳かな祭壇の前で愛を誓い合うのだ。

 人間が誓う永遠なんて、数百年を生きるわたしたちから見ればほんの瞬きのような時間にすぎない。けれどその短い命のすべてをたった一人のために使い切ると誓う。それはなんて、火花のように熱くて素敵なことかしら。


 さあ、この後はどうなるの? 二人は手を取り合って、追手の来ない遠い国へ逃げ出すのかしら。わくわくしながら次のページをめくろうとした、その時。指先が虚空を掴み、物語はそこで唐突に幕を閉じていた。


「えっ?」


 慌てて本を裏返したり振ってみたりしたけれど、もう続きのページはない。神父様の前で愛を誓い、さあこれから──というところで、物語はぷつりと切れている。


「……ああ。そうだわ、なるほどね」


 二人は無事に結ばれて、きっとどこか遠い街で幸せに暮らしたに違いない。お互いの家が憎しみ合っているからこそ、その後の行方はあえて誰も知らないように、作者が隠してしまったのだわ。


「ロミオとジュリエットは、結ばれたのね」


 わたしは満足して、本を胸に抱いたまま幸せな溜息をついた。バルコニーから忍び込んできたあのおっちょこちょいなロミオ。彼は今頃、無事に家に帰り着いているかしら。


 幸せな余韻に浸っていた、その時だった。きい、と音が響き、施錠されていたはずのバルコニーの扉がまるで透明な手に招かれるようにひとりでに開いた。


「お届けした贈り物は、お気に召していただけただろうか」


 冷たい夜風と共に滑り込んできたのは、あまりに重く、圧倒的な王者の気配。


「……っ、皇太子殿下」


 わたしは弾かれたようにカウチから立ち上がった。アマデウス皇太子は月明かりを反射する黒髪をなびかせ、音もなく部屋へ歩み寄ってくる。その美しさは完璧すぎて、かえって生きている実感が湧かないほどに冷ややかだった。


「わたしには勿体ないほどの品々ですわ。……感謝いたします、殿下」


「もし不都合があれば遠慮なく仰ってほしい。僕の名のもとに、いくらでも新しく仕立てさせる」


 殿下は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その瞳は獲物を狙う捕食者のように鋭く、けれど言葉の響きはどこまでも甘く丁寧だった。


「さて──今宵、貴女を僕の用意した席へご案内したい。食事と、少しの散策を」


 殿下は優雅な所作でわたしの手首を取り、指先で脈動を確かめるように撫で上げた。優雅な所作で、そのまま手の甲に唇を寄せる。丁寧な誘いだけれど、拒否することなど元より許されるはずもない。


「貴女のための時間だ。どうか、無駄にはさせない」

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