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第三話

 ──曲が終わり、一瞬の静寂ののち、広間に割れんばかりの拍手が沸き起こった。周囲で囁きが即座に広がって、視線の質が変わる。敬意と警戒の混ざった値踏みするような眼差しの中で、わたしは自分が巨大な運命という名の蜘蛛の巣に絡め取られたことを悟った。



 ◆



 翌夜、わたしが重い棺の蓋を押し上げて意識を覚醒させたとき、すでに城の静寂はどこかへ消え去っていた。


「……何事かしら」


 寝衣のまま扉を開けると、そこには廊下を埋め尽くすほどの喧騒があった。数え切れないほどの使用人たちが、列をなしてわたしの部屋へと何かを運び込んでいる。


「ピピ、お目覚めかい。見てくれよ、この壮観な眺めを!」


 廊下の向こうから、今にも踊り出しそうな足取りでお兄様がやってきた。兄は届いたばかりの黄金の装飾が施された箱を指さし、いつもは青白い顔を紅潮させている。


「すごいじゃないか。あのアマデウス皇太子殿下が、まさかうちの妹にここまで熱を上げるとはね。いやあ、僕も鼻が高いな。これでもう我が家の地位は不動のものだ!」


 お兄様はまるで自分のことのように嬉しそうで、山積みの贈り物に触れては感嘆の声を漏らしている。けれどその喧騒を断ち切るように、冷ややかな靴音が響いた。


「浮かれないで、ルキフェル」


 サーペンティナお姉様だった。姉は部屋の中にうず高く積まれた至宝の数々を、まるで忌々しい侵入者を見るような目で見据えていた。


「お姉様……」


「……ピピストラ」


 お姉様はお兄様を無視してわたしのそばへ歩み寄ると、わたしの肩を抱き寄せ、その細い指先で首筋を確かめるように撫でる。その指は微かに震えているようにも思えて、昨夜、皇太子殿下を前にして牙を剥き出しにしかけていた姉の姿を思い出す。


「いいこと、悪魔の寵愛をただの甘い蜜だと思ってはいけないわ。……まだ幼すぎる。十六の夜を数えたばかりの、何も知らないおまえを……」


 そう言って、姉は皇太子殿下から贈られたばかりの真っ赤な薔薇の花を一輪、無造作に指で折り取ってしまった。


「ルキフェル、行くわよ。今夜の獲物はもっと刺激の強いものにしましょう。……ピピ、おまえは部屋で休んでいなさい。城から出ず、余計な火遊びはしないこと」


「待って、お姉様。お兄様」


 二人の背中に向かって、わたしは咄嗟に声を上げていた。お姉様が足を止め、美しい眉をわずかにひそめて振り返る。


「お願いがあるの。『ロミオとジュリエット』を探してきて。この前もらったものは、血まみれで最後まで読めなかったから……」


 お姉様は一瞬だけ呆気にとられたような顔をしたが、すぐにふっと寂しげに目を伏せた。


「……ええ、分かったわ。おまえにふさわしい、一点の汚れもない物語を、今夜の獲物のついでに探してきてあげる」


 お兄様も「任せておいてよ!」と威勢よく手を振り、二人は夜の闇へと溶けていく。わたしは一人、カウチに身を沈めて、部屋を埋め尽くす贈り物をぼんやりと眺めた。


「皇太子さまが……わたしのロミオなの?」


 たった一度の舞踏会で、世界は劇的に変わってしまった。それはまさに戯曲に描かれた運命の始まりのようだったけれど。なぜだろう、手元にある豪華な至宝を見れば見るほど、わたしの心は言いようのない切実な渇きに支配されていく。


 ──ガタッ。


 そのとき、静寂を破ってバルコニーから鈍い音がした。風の悪戯ではない。石壁を何かが這い、欄干を掴んだような重みのある音。


『あいたた……』


 続いて、吸血鬼の耳にはあまりに鮮明で、あまりに無作法な情けない掠れ声が聞こえる。


「……えっ」


 心臓が跳ねた。賊? それとも……。恐怖で足がすくみそうになるのに、なぜかあの血に汚れた本の続きが気になってたまらない時のような、奇妙な衝動に突き動かされる。わたしは弾かれたように立ち上がり、カーテンを跳ね除けた。


「……あなた、だれ?」


 夜気と一緒に滑り込んできたのは、贈り物の香りを一瞬で消し去るような、生々しい人間の匂い。そこには、ひとりの青年がいた。石壁を必死によじ登ってきたのか、肩で荒い息を吐きながら、彼はバルコニーに片膝をついている。


「……ひ、す、すみません! 泥棒じゃないんです、怪しい者でも……いや、かなり怪しいけど」


 慌てて立ち上がろうとして、また自分のマントの裾を踏んでよろけた。茶色の髪をぐしゃぐしゃにして、泥のついた手で床に這いつくばる。


「あ、あの! 森を歩いてたら、道に迷っちゃって。戻ろうにも戻れなくて……痛っ、やっぱり鼻折れてないかな」


 青年は自分の鼻先をさすりながら、おそるおそるわたしを見上げた。そしてわたしの姿を真っ向から捉え、さらに背後に広がる贈り物の山を盗み見て顔を引きつらせる。


「わあ、なんか目がチカチカするくらいの宝物だ。……もしかして、君はここに閉じ込められているお姫様……とか?」


 ここがどこであるかなんて、魔界に住む者にはあまりに当たり前の事実だ。けれど彼にはわたしたちのように鋭い牙はなく、何よりその瞳が違う。丸く見開いたその緑色の瞳は、暗闇でも光を反射する縦長の瞳孔ではない。


「……あなた、人間なの? どうやってここまで来たの?」


 わたしの問いかけに、彼は一瞬きょとんとした顔をして、それから可笑しそうに眉を下げて笑った。


「そうだけど……それじゃまるで君が人間じゃないみたいな言い方だ」


 本当に、この魔界の深淵に人間が紛れ込んでいるのだ。それにもかかわらず、彼はのんきに笑っている。わたしは絶句した。ここは侵入者が生きて帰れる場所ではない。


「……お願い、すぐに出ていって。見つかったら殺されてしまうわ」


「殺される!? やっぱりここ、凶悪な盗賊の砦か何かなの? 弱ったな……今すぐ全力で立ち去りたいのは山々なんだけど、道がもう、さっぱりなんだ」


 彼は困り果てたように、夜露に濡れた茶色の髪をかき上げた。


「山菜を探して森に入ったら、急に霧が……。そう、お化けみたいに深い霧が出てきて。彷徨っているうちに、目の前にこのお城がドーンと。道を聞こうと思ったんだけど、大きすぎてどこまで歩いても門が見つからないんだよ。だから……」


「だから?」


「……とりあえず、登ってみたんだ」

 

「何がとりあえずなのかよくわからないわ。ここがどんな場所かも知らずに……」


「え? ……ええと、すごく立派で、中から花のいい匂いがして……。でも、君みたいな寂しそうな女の子が一人でいる場所だ」


 彼はバルコニーの縁に座り込み、へらりと頼りなく笑った。皇太子殿下のように、すべてを支配できる威圧感など微塵もない。お姉様のように、現実を冷徹に見抜く鋭さもない。

 ただ霧の中で道に迷い、偶然辿り着いた先で出会った「女の子」を心配しているだけの、おっちょこちょいでひどく純粋なただの人間。


「……あなた、名前は?」


 わたしが問いかけると、彼はぱっと顔を輝かせた。


「僕はリンデン。君は?」


「……ピピストラ」


「へえ、初めて聞く響きだ。でもいい名前だね、すごく似合ってる」


 なんでこの人は、こんなに呑気なのだろう。見つかったのがわたしだったからよかったものの、もしお姉様やお兄様、あるいは両親や城の衛兵たちだったなら、今頃彼は言葉を発する隙もなく命を落としていたはずだ。その恐怖さえ想像できないほど、彼はまっさらで純粋すぎるのかしら。


「……いいわ。道がわからないなら、わたしが途中まで送ってあげる。こっちへ来て。窓からじゃなくて、裏口から外へ降りられるの」


「えっ、いいの? 助かるよ! 正直もう一度あの壁を降りるのは、人生の運を全部使い果たす気がしてたんだ」


 リンデンは嬉しそうに立ち上がり、贈り物の山に足を引っかけてまた転びそうになりながら、わたしの後ろを付いてきた。

 人間が住む森とわたしたちの魔界の森の間には、古くからの強い結界がある。人間が迷い込むことなんてあり得ないけれど、ときどき霧の深い夜に、運命の悪戯で境界が揺らぎ、不運な獲物が紛れ込むことがあると聞いたことがあった。

 でももしそうだとしたら、この城に辿り着いて生きて帰れる人間は、歴史上で彼一人だけかもしれない。隠し通路を抜け、月明かりも届かない裏庭へ出ると、境界の森へと続く細い獣道が見えた。


「ここを抜ければ、あなたが来た方へ繋がっているはず」


 わたしは立ち止まり、彼の方を振り返った。リンデンは森の暗闇に少しだけ肩をすくめたけれど、すぐにわたしに向き直って深々と頭を下げた。


「ありがとう、ピピストラ。君は僕が今まで見た中で一番優しいお姫様だ」


「いいから、振り返らないでまっすぐ走って。後ろで何が聞こえても、絶対に足を止めちゃだめよ」


 お姉様たちが帰ってくる前に急いで彼を帰さなければならない。念を押すように告げるわたしの言葉に、リンデンは何度も振り返りながら森の奥へと駆け出していった。 暗闇に消えていく彼の足音と、遠ざかる生きている熱量。


「いい? もう二度とここへ来ちゃいけないのよ!」


 叫ぶようなわたしの声に、遠くで一度だけ、彼が振る手の白さが闇に翻った。

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