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第二話

「ピピ、準備はできた? 馬が退屈して地面を蹴り始めたよ」


「控えなさい、ルキフェル。淑女が完璧な美を完成させる時間をその程度の忍耐で穢すつもり? 外で月でも数えて待っていなさい」


 そうは言っても月はひとつしかないのだけれど、お兄様はお姉様に逆らえないので、扉の向こうの気配はぴたりと静かになった。逆らえないから今ごろきっと本当に空を見上げて数えているのだと思う。


 部屋の中では侍女が息を潜めるようにして裾を整え、姉がわたしの背後に立って余念なく仕上げを確かめている。自分の胸元から足先へと視線を落とせば、そこにいるのは見慣れたいつものわたしではない。

 純白のシルクを幾重にも重ねたデビュタント・ドレス。まるで行き場のない光を閉じ込めたように、蝋燭の灯を浴びて輝いている。首元にはお父様とお母様が贈ってくれた大粒の真珠。月の雫を繋ぎ合わせたような白さは、わたしの青白い肌によく馴染んだ。


「よく似合っているわ、ピピ」


 コルセットは姉が今日のために誂えてくれたものらしい。使っている芯材にこだわりがあるのだと、さきほどから何度も語ってくれる。


「騎士階級の若者の肋骨よ。性別や年齢にまでこだわった甲斐があった……若い骨のしなやかさが、これほどまでに気品ある曲線を形作るのですもの」


 こだわりは苛烈だけれど、確かにおかげで背筋は自然と伸び、ウエストはきゅっと無理なく締まっている。声色は熱と満足に満ちていて、まるで一つの作品を完成させた芸術家のようだった。


「ただ朽ち果てるはずだった卑小な命が、今夜わたくしの愛しい妹のドレスとして永遠に等しい夜に仕える。これは彼に与えられたこの上ない栄誉よ」


 姉の細い指がわたしの頬を優しく、けれど重々しく撫でた。姉の首から下げられたポマンダーが揺れて、甘く濃い香りが漂ってくる。最高級のヴィンテージの血が入っているらしく、頭の奥がくらりとした。


「さあ、顔を上げて。皇帝陛下の御前だからといって、気後れなどしてはいけません。今夜、すべての視線はおまえのものなのだから」



 ◆



「ノスフェラトゥ公爵ご夫妻、ならびにご子息、ご令嬢方──」


 大広間の重厚な扉が左右に開かれ、溢れ出した眩い光にわたしは目を細めた。先陣を切るお父様とお母様の背中は威厳に満ちていて、その一歩一歩がこの宮廷における地位と歴史を語っていた。

 続くサーペンティナお姉様は、まるでこの夜のすべてを従える女王のように堂々と地を踏み、ルキフェルお兄様はこれから始まる饗宴を待ちきれないといった様子で、楽しげに口角を上げている。


 けれどわたしだけは扉の境界線で一瞬だけ足を止めてしまった。 視界に飛び込んできたのは無数の蝋燭が灯るシャンデリアと、色とりどりの宝石、それからたくさんの視線。無数の瞳が、公爵家の末娘を見定めるように向けられている。


「ピピストラ、こちらへ」


 お母様に誘われるままに踏み出した先には、魔界の重臣たちが集っていた。公爵、侯爵、そのまた傍系の家を誇る者たち。


「お初にお目にかかります」


 教わった通り、膝を折って礼を捧げる。 視線を上げれば、そこにはたくさんの闇の姿があった。 軍服を窮屈そうに着こなし、野性味のある金色の瞳を光らせる人狼の貴族。青白い肌に縫い目を隠し、泰然と佇む屍人の高官。


「これはこれは。ノスフェラトゥ家の末姫とは、かくも清らかな」


「お噂通り実に見事にお育ちで。今宵の月も、貴女には敵いますまい」


 向けられる言葉は蜜のように甘く、刃のように鋭い。その奥に値踏みの色が隠れていることが、分からないほど幼くはなかった。礼儀正しい称賛の隙間で、囁きが風のように流れていく。


「しかし、皇太子殿下はまだお姿を見せていないようだが」


「今宵、あの方は誰を選ばれるのか……」


 周囲の貴族たちは扇や杯の陰でひそひそと囁き合う。その期待と野心の混じったざわめきが、音楽をかき消すほどに大きく感じられる。

 ふと、視線を感じて顔を上げた。 吹き抜けになった大広間の二階。豪奢な手すりが続くバルコニーに、その人は立っていた。


「……っ」


 心臓が跳ね、次の瞬間には全身の血が凍りついたような心地がした。煌々と輝くシャンデリアの光の下にいるのに、その周囲だけが底知れない夜に沈んでいる。波打つ漆黒の髪は夜の闇そのもので、額からは、彫刻のように美しい二本の角が、鈍い銀の光を放ちながら天を突いている。


 ──皇太子殿下。


 魔界を統べる悪魔族の正嫡。 その角には禍々しい文様が刻まれ、身に纏う軍服は深紅と黒。肩にかけられた外套は、まるで影が生き物として形を成したかのように、風もないのに揺らめいている。


 周囲の誰一人として、主役の登場に気づいていない。 あの方は微笑みもしなかった。ただ燃えるような金の瞳で、真っ直ぐにわたしを射抜いている。鋭い縦長の瞳孔に見つめられているだけで、魂を素手で掴み出されるような心地がする。


 皇太子殿下が、静かに片手を挙げた。

 そのわずかな動作ひとつで、広間に響き渡っていた音楽が断ち切られたように止まる。談笑していた貴族たちも、杯を運ぶ給仕も、一様に凍りついたように動きを止めた。宮廷全体が、底知れない静寂に支配される。


「……今宵、初舞踏を迎えた令嬢がいると聞いた」


 頭上から降ってきたのは、低く、ベルベットのように滑らかな声。皇太子殿下がゆっくりと階段を降りてくる。足音ひとつ立てず、先ほどまで感じていた圧倒的な威圧感さえも、今は深く沈み込んでいるようだった。

 けれどその煌々とした金の瞳だけは、周囲の誰を見ることもなく、ただ一点──わたしだけを射抜いている。一歩、また一歩と距離が縮まるたび、わたしの肺から酸素が失われていく。


「今夜の最初の一曲を、あなたに捧げたい」


 目の前で魔界の次位にあるお方が、滑らかな動作で片膝をついた。あまりの出来事に、周囲からは悲鳴にも似た溜息が漏れる。

 お父様とお母様は見たこともないほど深く頭を垂れ、その歓喜と緊張に肩を震わせている。お兄様はいつもの軽々しい余裕を完全に失い、目を見開いて硬直していた。

 そしてお姉様だけは──わたしの隣で、扇を握りしめる手に力がこもっているのがわかった。得体の知れない強者に妹を奪われるような、鋭い警戒が入り混じった横顔。


 誰も助けてはくれない。ここで礼を逸することは、一族の破滅を意味する。わたしは震える指先を、壊れ物を扱うようにして、その大きな掌へと重ねた。


「……お受け、いたします。殿下」


 声が震えてしまったけれど、そのお方は満足げにわたしの指を包み込んだ。皇太子殿下が立ち上がると同時に、止まっていた楽団がそれまでよりもずっと重厚で、狂おしいほど情熱的な旋律を奏で始める。

 わたしたちは広間の中央へと滑り出した。皇太子殿下の手は、吸血鬼であるわたしの体温よりもずっと熱い。腰に添えられた手のひらから、拍動さえも伝わってくるように。


 回る、回る。純白のドレスが、音楽の渦の中で大きく花開いた。視界の端で、人狼や屍人、屍食鬼の貴族たちが波が引くように道を作るのが見える。皇太子殿下は何も語らずに、ただ完璧な足の運びでわたしを導いていた。激しく脈打つ心臓と、耳元で鳴り響く衣擦れの音。


 こんな夜になるなんて思いもしなかった。宮廷に立つことさえまだ夢の続きのようだったのに、その夢の中で皇太子殿下が跪き、最初の一曲を捧げるだなんて、一体誰が想像できるの。


 まるで、あの物語の一頁のようだわ。これはまさか、恋の始まりなの?

 わたしのロミオは、こんなにも恐ろしくて、抗いようのない力でわたしを支配する方なのかしら。


 美しい。けれど彼はあまりにも、あまりにも恐ろしい。わたしは瞳の中に映る、真っ白なドレスを着た小さな自分を眺めながら、眩暈にも似た恍惚と、正体不明の恐怖に身を任せるしかなかった。

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