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第一話

「まあ、また射られたのね?」


 城門をくぐって戻ってきたお兄様を見て、わたしは開口一番にそう言った。言葉に含めた呆れは別に隠す気もない。兄の肩口からは木製の矢が一本突き出ていて、白い矢羽は泥と血で染まっていた。


「違うって。これは後ろから不意打ちで……」


「間抜けね」


 兄の言い訳を遮るように、背後から刃物みたいに鋭い声が落ちてくる。お姉様だった。外套の裾を翻しながら進み出て、その靴底で黒曜石の床に滴る血を無遠慮に踏み潰す。


「さっさと抜きなさい。見苦しい」


 狩りから戻ったばかりの姉の瞳にはまだ昂揚が残っていて、闇よりも濃い光が宿っている。今宵も満足のいく夜だったのだろう。


「でも姉さん、これ抜くと痛いんだよ」


「どうせすぐに治るでしょう」


 姉は吐き捨てるように言い切ると、苛立ったように兄の腕を掴んで乱暴に肩から矢を引き抜いた。血が床に滴ったけれど、みるみるうちに傷は塞がっていく。

 吸血鬼の回復力を兄はいつも過信し、そして過信したまま学ばない。痛そうだとは思うけれど、同情するのも馬鹿らしい。


「それで、今日は何を持って帰ってきてくれたのかしら」


 わたしが尋ねると、姉は外套の内側からいくつかの包みを机に放り投げた。銀細工の小箱、割れた懐中時計、それから一冊の本。革表紙は年季が入っていて、人間の手を何人も渡ってきた匂いがする。


「ほら、おまえの好きそうなものよ。文字ばかりのね」


「ありがとう、お姉様!」


 お礼を言ってあれこれと触ってみる。狩りについてはいかないけれど、こうして人間のものを持ち帰ってもらう。それがわたしたちの暗黙の約束だった。


「……あ」


 だけど背表紙に触れた途端、ぬるりとした感触で指先が滑る。嫌な予感を抱えたまま一縷の望みをかけて表紙を開いたけれど、革の隙間から滲んだそれはもう中まで回ってしまっていた。


「読めないわ……」


 呟くと、兄がひょいと肩越しに覗き込んでくる。


「ほんとだ。さっきまでは大丈夫だったんだけどなあ」


 絶対に嘘だと思う。狩りの最中に乱雑に掴んで、そのまま放り込んできたに違いない。わたしはじっと睨みつけたけれど、兄はへらへらと笑うだけだった。


「選り好みするならおまえもついて来ればいいのよ、ピピストラ」


 血の気配と夜の誇りを纏ったままの姉の言葉に、わたしは何も返せなくなってしまう。だって、宵闇に紛れて人間を襲うなんてとても難しそうだ。足音を殺すことも気配を消すことも、きっと途中で失敗する。

 兄と並んで射られて帰ってきて、「ルキフェルもピピストラも間抜けだこと」なんて呆れられる光景がありありと浮かんだ。何より痛いのは嫌いだし、血だってわざわざ人間のものを選ばなくても、獣のもので十分だと思っている。


「……できないわ、分かってくれるでしょう?」


「つれない子ね」


 それだけ言って、姉は興味を失ったように視線を外した。くるりと踵を返し、ホールのカウチへもたれ掛かる。


「今日の獲物はね──」


 そうして姉は高笑いを交えながら語り出した。どんな抵抗をしたとか、どんな顔で命乞いをしたとか。兄も楽しげに相槌を打って、その声は城の高い天井に反響する。

 わたしはその輪からそっと外れ、包みを抱え直した。血の染みた包みを胸に抱え、冷たい石の回廊を抜けて自室へ向かう。

 棺の蓋を開け、そのまま中に身を投げ出す。冷たい内張りが背中に心地いい。本を胸の上に置いて、もう一度慎重に開いた。


「……ロミ、オと……ジュリ、エット?」 


 わたしはゆっくりと目を動かしながら、読める行だけを追った。血に汚れた物語でも、夜はまだ長い。

 どうやらこれは小説ではなく、舞台で語られるための戯曲らしかった。人物の名前があって、その下に短い台詞が並ぶ。ロミオは仮面をつけ、敵対する家の舞踏会に忍び込む。それだけで胸がひやひやするのに、ロミオはその家の娘と一目で惹かれあってしまう。


 ──もしこの手が聖者さまを穢したのなら、この唇でその罪を清めましょう。


 ──よき巡礼さま、聖者の手は巡礼に触れるためにあり、巡礼の唇は祈るためにあるのです。


 ──ではお祈りいたします。どうか聖者さまが、その手にしたことを唇にも許してくれますよう。


 ……なんて素敵なのかしら。仮面越しに名前も知らないまま、言葉を重ねてついに触れてしまう唇。だめだと分かっているのに、止められないその一瞬。

 聖者だとか巡礼だとか、そういう比喩はよく分からない。けれど胸がどきどきして、次の行を読むのがもったいないくらいだった。出会って、見つめ合って、言葉を交わして、それだけで世界が変わってしまうなんて。


「……人間にとっても、恋はこんなにも眩しいものなのね」


 窓の外を見ると真っ赤な月が浮かんでいる。いつもなら血の色にしか見えないその月明かりが、今夜はまるで薔薇色の夢みたいだった。


「キィ、キィ」


 そのとき、小さな鳴き声が外から聞こえた。わたしは慌てて身を起こして窓を開ける。夜気と一緒に小さな影が滑り込んできて、カーテンの留め具にぶら下がった。城の周りの森に住む灰色のコウモリだった。


「来てくれたのね! ねえ、聞いて。いまね、とても素敵なお話を読んだの」


 わたしは棺の中に座り直し、本を胸に抱えたまま話し始める。舞踏会に忍び込んだロミオのこと、仮面越しに出会ったジュリエットのこと。聖者と巡礼の言葉を交わして、とうとう口付けをしてしまうところまで。


「舞踏会には、あんな出会いがあるのかしら」


「キィ」


「もうすぐ十六歳よ。そうしたら宮廷の舞踏会に行けるの。お父様とお母様がお許しくださったの」


 あと少しでわたしも宮廷へ招かれて、身分ある一族たちの前に姿を見せる。デビュタントの慣わしである純白のドレスを身に纏って、血の杯を掲げて夜の音楽に身を委ねるのだ。


「でもね、サーペンティナお姉様はデビュタントの夜に、その白いドレスを真っ赤にしてしまったんですって」


 舞踏会で言い寄ってきた男性の首に、つい噛みついてしまったらしい。響いた悲鳴と赤く染まる布に、翌朝には魔界中の噂になったそうだ。お姉様は今でもまったく反省していないけれど。


 もしわたしが舞踏会に出たら、どんな夜になるのだろう。仮面越しに誰かと目が合って、言葉で心が近づいて……。それともぎこちなくお辞儀をして、音楽の流れに戸惑いながら立っているだけかしら。


 ページをめくると、血に滲んだ文字の向こうで夜の庭がひらける。月光に照らされたバルコニーに、忍び寄る影がある。


──薔薇はほかの名で呼ばれても、なお薔薇の香りを放つもの。ロミオ、わたしのために名を棄ててください。


──ただ恋人と呼んでくだされば、この祝福の月にかけて、あなたを愛し続けると誓います。


──いいえ、月は満ち欠け姿を変えてしまう。変わりゆくものに誓えば、愛もまた揺らいでしまうでしょう。


 わたしはふと、棺の中から顔を上げてカーテンに下がったコウモリを見る。


「……もしこんなふうに、この窓の下から禁断の恋人が忍び寄ってきたらどうする?」


 月明かりの下で石壁を伝って。名を呼ばれて息を殺して、そっと手を伸ばされたら。なんだかくすぐったくなって、続きを読もうとページに指をかける。


「あっ」


 けれど、どこをどう見ても真っ赤だった。文字の上に行の間に、ページの端から端まで血が滲んでいる。さっきよりももっと濃い。めくればめくるほど紙は重く貼りつき、指先にぬるりとした感触が残る。


「残念だわ……」


 バルコニーの夜はそこで途切れてしまった。ロミオが何を差し出したのかも、ジュリエットがどう応えたのかも、その先は赤い染みの向こう側だ。


「また探していただけるよう、お姉様とお兄様にお願いしましょう」


 次はできればあまり血のついていないものを。できれば、最後まで読めるものを。血に汚れた表紙を撫でながら、わたしは窓辺に目をやった。


 人間のことは正直よく分からない。弱くて儚くて、すぐに死んでしまう存在だということくらいしか知らない。でも──人間の作るものはとても面白い。短い言葉の中に胸がいっぱいになるほどの思いを詰め込んで、たった一度の出会いを永遠みたいに輝かせてしまう。


「ねえ、どうしてなのかしら。長く生きられないから、その分たくさんのことを思いつくようにできているの? 夜が短いから夢を詰め込むみたいに」


 コウモリは「キィ」と小さく鳴いて首をかしげた。わたしは笑ってもう一度月を見る。


 もうすぐ十六になる。やっと、と言った方がいいのかもしれない。長い夜のあいだ本と夢だけを抱えて城の中で過ごし、空想ばかりしてきた。それが今薔薇色の月明かりに導かれるように、名前も知らない未来がこの城の窓辺へ近づいてきているのだ。


「十六になったら、わたしの毎日も何かが変わるかしら」

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