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水に包まれて。

作者: 葉渡文矢
掲載日:2025/10/19

 アクアスコープと呼ばれる丸い小窓から水槽をのぞくと、エイやアジ、ウツボやメダイといった多くの魚の姿が見てとれた。どの子も優雅に、そして堂々と泳いでいて、見とれる私の口からは感嘆の息が漏れる。


 そんな中、巨大な魚と目があった。この水槽の中でひときわ存在感を放っている、シロワニという生物だ。“ワニ”と名がついているが、外見はサメそのもの。凶悪な顔だけでも十分恐ろしいのに、全長は優に二メートルを超すのだから尚恐ろしい。

 予期せずシロワニと目があって怯む私だったが、すぐに自分の中に眠る記憶を掘りおこして冷静になる。シロワニは、その外見からは想像がつかないほどに気性が大人しく、臆病な性格らしい。滅多に人を襲うことがなく、お腹が満たされた状態ならば、同じ水槽に暮らす小魚たちを捕食しない平和主義者だ。


 何より、私とシロワニの間には分厚いガラスがある。これを突き破ることは到底不可能で、当然のように身の安全は保障されている。なにも怯える必要はないのだ。

 と自分に言い聞かせるこの状況を俯瞰してみて、つい失笑してしまう。今さらなにを怖気づいているのだろうか、私は。今日ここに来た目的を考えれば、それは願ってもないことだというのに……。


 ここは、都心にある小さな水族館だ。館内の通路はどこも薄暗く、場所によっては真っ暗闇になるところが多い。常連客と呼ぶほど私は通いつめていないけれど、この水族館に訪れたら決まって腰を落ちつかせる場所がある。今日もそこに行くつもりだ。

 エントランスホールから順に、まずはクラゲが入った水槽をまわる。その次はサンゴ礁、オットセイ、ペンギン。階下におりると、金魚の群れが待っていた。

 最後にシロワニがいる水槽を眺め、館内のカフェでドリンクを注文する。私は熱いコーヒーを片手に、短い階段をのぼって通路の隅にあるベンチへ歩み寄った。ここからじゃ遠くてどの生き物も観賞できない。でも、そのぶん人の喧騒からも離れられる。周囲のベンチには親子連れやカップルがいないので静まり返っていた。


 ベンチに座り、コーヒーを脇に置く。肩に提げていたカバンから一冊の小説を取りだして、栞を挟んでいたページを開いた。ここの真下には照明があって、まるでスポットライトのように照らされている。お陰で、暗闇の中で文字を追いかけずに済む。

 続きが気になっていた推理小説を読みふけり、時間はゆったりと流れていく。時おり、ペンギンの鳴き声によって現実に戻されたりしたが、私の目はすぐに本の文字を追った。

 小一時間後。私は読破した。読み終えたあとの達成感の余韻に浸りながら、すっかり冷えてしまったコーヒーを口にふくむ。


「生きててよかった」


 誰に向けるでもなく、私はそんな言葉を発していた。

 静かにカップを置き、小説をカバンへ戻す。カバンの中から手を引くとき、右手は本の代わりに小瓶を手にした。



――ここ最近、日本ではある事件が頻発している。正しくは、流行している、と言ったほうがいいだろうか。

 それは、たった一口飲むだけでハイになれるという麻薬に近い新種のクスリだった。正式名称は長い上にややこしいので忘れたが、ヘブンズアシッドという名が世間には定着している。

 元々は精神安定剤の一種として扱われていたが、昨年、使用者は麻薬中毒に似た状態におちいることが発覚し、以降は使用禁止に。政府はヘブンズアシッドを積極的に回収するものの、市販として売られていた期間もそれなりに長かったため困難を極めた。私の手の中にある小瓶もそのひとつである。


 ニュースに取り上げられたとき、私は偶然ドラッグストアで購入していたので処分しようとしたが……やめた。クスリでハイになりたいわけじゃない。これまでも使ったことはない。捨てなかった理由は、それ以上に魅力的な効能が隠されていたからだ。

 ヘブンズアシッドは、一定量を摂取すると死に至るものだった。痛みを感じることなく眠るように死ねる。つまり、お手軽に安楽死ができる魔法のクスリ。

 その事実が露見するなり、日本各地では老若男女問わず、安楽死を実行するというブームが訪れた。人生に絶望すれば、目の前には苦痛もなくあの世へ行けるクスリがある。流行らない理由がなかった。そして、それは私も例外ではない。


 朝起きた瞬間、私は決めたのだ。今日、この水族館に来て、あの世へ旅立つと。

 瓶のフタ部分を覆う、包み紙のようなラベルをびりびりと剥がし、固く閉まったフタに悪戦苦闘しながら無事に開ける。注ぎ口からヘブンズアシッドを観察するけど、茶色い瓶によって液体の色はイマイチわからない。聞いた話によると無色透明らしい。刺激臭はしない。

 目をつぶって、深呼吸を繰り返す。覚悟はずっと前、七年前から決まっていた。私は仰ぐように瓶を傾け、一息ですべて飲み切る。致死量を軽く超えているので確実に死ねるだろう。


(お気に入りの水族館なのに、ごめんなさい)


 私が自殺することによって、経営に少なからず影響が出るだろう。その点に関しては本当に申し訳なく思うが、それも直にどうでもよく思えてくる。視界は歪み、次の瞬間には意識を手放した。





 気がつくと、私は水の中にいた。咄嗟に、口と鼻を両手でふさぐ。体内にある空気を保つため、溺れないようにする反射行動だった。けど、


(? 息ができる? ……苦しくない)


 どうやら呼吸ができるらしい。顔から手を離しておそるおそる鼻から空気、というより水を吸い込む。それらは違和感なく取り込めた。

 辺りを見回すと、ここは水族館のようだった。私が先ほどまでいたあの水族館だ。場所は入場口。館内は隅から隅まで水没している。

 私の体は直立していた。足の裏は床を突き、つむじは天井へまっすぐ向いている。水の中なのに体が浮くことはない。


「ああ、これは夢か」


 と声まで出る始末。しかも発音はクリアに聞こえ、私の耳に問題なく届いた。

 私はちゃんと死ねたのだろうか? そう思いながら試しに歩いてみた。全身に水がまとわりつき、思うように中々進まない。変なところで融通の利かない夢である。

 緩慢とした動きで館内を歩き、アクアスコープから水槽をそっと覗く。でも、エイもアジもウツボもメダイも、そしてシロワニも、誰も居なかった。


 私は、この奇妙な世界でも孤独なのかと嘆きかけた、その時だった。通路の先に小さな人影を見つける。急いで距離を詰めると、それは見覚えのある背中だとわかった。水の中だというのに、感極まった瞳はうるんで溢れそうだ。私はさらに足に力を籠めた。

 一方、彼はこちらに気付くことなく、背を向けて歩き出す。私と違い、水の抵抗を一切受けてないようだ。動きは陸地のようにスムーズだった。縮まった距離がまたたく間に開いていく。

 いやだ、いやだ、いやだ。またこの人を目の前で失うなんて、何物にも代えがたい苦痛だ。それこそ死んでも死に切れない。


「――待って!」


 声を張りあげ、私は力の限り叫ぶ。すると彼は振りかえり、私と目があってハッとした。

 どうしてここに居るの? 彼はそんな表情で目を大きく見開く。そこから数秒経つと、花が咲いたような笑顔を見せて、優しく微笑んでくれた。

 手をのばせば触れられる距離まで来て、立ち止まる。事故で亡くなったかつての恋人を前にして、どう言葉を紡げばいいか悩んでしまう。


「……元気だった?」


 背の高い彼を見あげながら、私は取りとめもない挨拶で口火を切った。


『――。――。――』


 彼は応える。けど、私の耳に伝わらなかった。彼が口を開くたび、空気の塊が淡々と吐き出されていく。気泡は天井へ向かって、無情に昇るだけだった。

 せっかく会えたのに話せないなんて……。肩を落とす私を見て、彼は申し訳なさそうに頬をかく。そして、かいていた人差し指をある方向へ指した。示す先は、私たちのお気に入りの、あのベンチだった。



 肩を並べて座り、しばしの沈黙のあと、私は話しかけた。こちらの声は届くようで、彼はうんうんと頷いて応えてくれる。話す内容は本当に他愛もないことで、あまり暗いものにならないように心がけた。けど、何時間も本題から逸らすことはできず、


「あのね、私、自殺したの」


 私の口が勝手に動いてしまう。


「君が事故で亡くなってから、全部つまらなくなって……。君が好きって言ってくれた小説も書けなくなった。唯一の趣味だったのに、嫌いになったんだ。こんなの意味ない、誰の助けにもならないからって、自分に言い訳して」


 膝の上に握った拳をにらむ。呆れた表情をされていると思うと、怖くて顔をあげられなかった。


「ずっと死にたかった。君が死んでからの七年間、ずっと苦しかった。だから、だから私は……」


 だから私は、あのクスリに手を出して死んだのだ。自殺したのだ。両親や兄妹、友人や会社のこともすべて置き去りにして、自分勝手に。

 ふと背中に温もりを覚える。見ると、彼の右手が私の背中をさすってくれていた。たったそれだけのことなのに、冷めきった心が溶かされていくようだった。


「? どうしたの?」


 背中から手を引くと、彼はベンチから腰を持ちあげて歩きはじめる。続いてあとを追うけれど、互いにかかる水の抵抗が異なるせいで、段々と離されてしまう。私なんか元々いなかったかのように、彼は前へ前へと進んでいく。

 もしかして、これでお別れなのだろうか? 私は彼に見放されたのだろうか? そう思うと、また泣き出しそうになった。呼び止めようとしたそのとき、目の前になにかが颯爽と通り抜けて口をつぐむ。


 それは、魚の群れだった。水族館の魚たちが今になって姿を現して、この世界の至るところで闊歩し始めた。水槽という狭い牢獄から解きはなたれた魚たちは、生き生きと、愉しそうに泳いでいる。

 踏切前の電車のように、魚たちが通過するのをじっと待つ。実際は十数秒の出来事でも、永遠と思うほどに長く待たされた。魚の群れが途切れると、彼はさらに離れた場所にいた。体はこちらを向いて笑顔を見せている。


『――』


 なにか言っているが、やっぱりわからない。私は目を凝らし、発音する唇の形を追った。

 どうやら短い単語を繰り返しているようだ。ゆっくりと繰り返すのは、私がわかるようにという配慮だろう。

 と、ここでまた目の前を魚が通る。今度は群れじゃなくて、巨大な一匹。シロワニの影が私を覆った。不意にシロワニと目が合う。学習しない私は小さな悲鳴をあげ、そして、目が覚めた。





「――さん、お客さん。起きてください。閉館時間ですよ」

「え?」


 肩を叩かれて、私は重たい瞼を開く。目の前には水族館のスッタフと思しき人物が立っていた。


「大丈夫ですか? 歩けますか?」

「あ、はい。大丈夫です。すみません」


 思考が追いつかない中、私は適当に返事をしてベンチから立ちあがり、そのまま水族館を出た。外の冷たい空気にあてられたことで、半ば眠っていた意識は完全に覚醒する。


「あれは、夢……?」


 振り返ってエントランスを見つめるが、証明するものはどこにも転がっていない。ヘブンズアシッドの致死量を飲んで確実に死んだはずなのに、なんで私はまだ生きているのだろう? それとも、今も夢の中だったりするのだろうか。

 クスリの存在を思い出して、カバンを漁る。小瓶は確かにあった。でも、


「無くなってる」


 小瓶の中身はカラだった。そこにあるはずの液体だけが消えていた。それなのに、フタの部分はラベルで覆われている。破り捨てたはずのラベルは元通りで、開けられた形跡はない。

 そんな謎の現象を目の前にしておきながら、私の心は穏やかだった。好奇心はくすぐられず、小瓶を鞄に戻して歩きだす。


 家への帰路につきながら、空を見あげた。幾星霜と輝き続ける星々たち。そのひとつひとつの輝きが、まるで私を祝福しているかのように感じられて、悪くないと感傷に浸る。

 星を眺め、思い出した。彼が、あの夢で言った最後の言葉を。たった三文字という短いメッセージだったけれど、今も私の中に息づいている。


「仕方ないな、まったく」


 とても酷な注文をされた私だけれど、まあでも、やってやれないことはない。いつかまた会えるその日まで、続けていこうと思う。

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