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初夜は今、愛がなくとも何とかする

作者: 柳瀬あさと

「私には愛する女性がいる」 


 結婚を機にフィッシャー伯爵を引き継いだ私、クラフト・フィッシャーは、結婚式を終えた日の夜、つまりは初夜に、妻であるエルフリーデにそう告げた。

 エルフリーデは目をぱちくりと瞬かせることで、十人中九人が可愛らしいと判断するであろう容貌にあどけなさを加えた。ちなみに私は残りの一人側だ。多くの男性が庇護欲を掻き立てられそうなその様に、けれど、私は鼻白んでため息をつく。


 この結婚は政略だ。貴族にとってはよくある当たり前の話。そして結婚と子作りの義務さえ終えてしまえば、互いに恋人を作る事も当たり前の話。


 だが、私は既に愛する人がいた。


 友人に誘われ煽られ、好奇心と意地で初めて抱いた女性、高級娼婦のアンネ。元子爵家の令嬢で、か弱く可憐で健気で美しい人。私の心はアンネにある。だからこそ、政略により決まったエルフリーデには何の感情もない。それどころか、この女さえいなければアンネを迎え入れる事に尽力できるのに、という嫌悪感さえあった。


 だから婚約が決まってから一度も顔を合わせていないし、手紙も無視したし、結婚式でも顰め面でエスコートを拒否し一切の接触をしなかった。双方の親族がざわつくほどの拒絶と侮辱をした。それでも結婚はなされた。なされてしまった。


 それゆえに、初夜にはっきりさせようと思ったのだ。

 自分はアンネを迎え入れるつもりでいる。エルフリーデと真に結ばれることは無い。いずれ離婚するために白い結婚とさせてもらう、と。


「……よって貴女を愛することは無い。だから今日はもう」

「そうですか、では子供を作りましょう」

「え」


 思わずこぼれ出た声を誰が責められよう。

 話が通じていない。それがわかった時には既に名ばかりの妻は目の前に立って私の服のボタンに手をかけていた。早い。


「動きたくないならいいですよ、はい、横になって」

「え、いや、待て、何をしている、脱がすな!」

「レオナ、来て、手伝ってちょうだい」

「はい」

「侍女が何故当然のように入ってくる?! 出ていけ!」

「申し訳ございませんが、私が仕えておりますのはお嬢様でございます」

「もうお嬢様ではないわよ」

「そうでした。失礼いたしました」

「そういう話ではない! 夫婦の寝室だ! 初夜だ! 呼ばれてもいない侍女は出ていけ!」

「女主人に呼ばれました」

「そうだった!」


 頭の痛くなるやり取りの間に気が付けばベッドへと押し倒されていた。何故だ。この侍女力が強くないか? と思っている間に、身動きが取れなくなっていた。


「や、やめろ! 放せ! 縛るな! わ、私を誰だと思っているんだ! ボタンを外すのをやめろ!」

「私と子を生すべき旦那様だと思っております」

「そ、それはそうだが……! 違う! 言っただろう、私には愛する女性がいると!」

「ええ、ですから一刻も早くその女性のもとへ赴くことが出来るよう協力して差し上げると申しております」

「これの! 何が! 協力なのだ! やめろズボンを下ろすな!」

「私達は政略結婚でございます。子を生さねばなりません。けれど旦那様は愛する女性がいらっしゃるため私を抱く気が無いと仰る」

「そうだ! わかっているではないか! お前と事に及ぶ予定はやめろはしたない何処を触っている?!」

「ならば私が妻として旦那様を抱くしかないな、と思いまして」


 そこまで言うと、エルフリーデはベッドの上で両手を縛られ服を乱され涙目になって横たわっている私の腹にふわりと馬乗りになった。

 そして笑う。慈悲深い聖女のように美しい笑みで。


「大丈夫ですよ、旦那様はただ寝ていれば。すぐに終わりますからね」


 一瞬だけ。本当に一瞬だけその笑顔に見とれてしまったが、しかしすぐに我に返って頭を振ると、キッと強くエルフリーデを睨みつけた。


「淑女にあるまじき行為であろう! いいから放……ッ何故目隠しをする?! というかどこに座っているのだやめろ降りろ早く降りろそこは駄目だ触るな!!」

「こうすれば私ではなく愛する女性に抱かれていると思えるのでは? あら……ふふ、いい子ですね、そうそうその調子です」

「ち、違う! 私はそんな妄想は……そんな劣情は……ッぐ! やめろ耳元で笑うな頭を撫でるなひぅ?! あ、あ、やめ……!」

「いいのですよ、気持ちよくなって。すべて私が受け止めますから。では少し失礼いたします」

「待て待て待て、今はまずい、やめろくるな本当にやめ、あ、待って待って、ま、あ、ぅあ……」

「すこぅしお時間いただきますね。何せ私は初めてでして」

「わ、私だってまだ数回……! あ、あぅ、やめ、やめて、あ、ちょ」

「? ……ああ、いいのですよ、動きたくなったらどうぞご遠慮なさらず」

「撫でるな腰をぉぉ!! あ、あ……!」


 何も見えない、自由が利かない、そんな中で二人がかりでまさぐられ撫でられなんか色々され……。

 気が付いたらやたらといい匂いが部屋に満ちていた。途中で口に含まされた飲み物は体を熱くした。

 もう意味が解らなかった。恥辱と屈辱と快楽の果てに抗えぬ何かに負けて脱力して眠ってしまった。






「何故部屋に閉じ込められているのだ?!」

「新婚ですから」

「そんな新婚は聞いたことが無いなぁ?!」


 目覚めてすぐ現状を把握すると、大声で執事を呼んだ。すぐにでもこの女をつまみだそう。そう思っていたが、執事からは「部屋に鍵が掛かっておりますゆえ入れません」という主を見捨てるに等しい返答が来た。この寝室の鍵は執事も持っている筈なのに。

 ちなみに、未だ目隠しをされ手足を縛られたままベッドの上に転がっている。そして部屋に充満している甘い匂いが頭をぼんやりとさせていた。

 それでもこんな事は許される筈がないだろう、と歯ぎしりをする。自分が貴族の義務を放棄しようとした事、エルフリーデとその生家を侮辱した事、それらは今は棚に上げておく。


「そうですね、本来なら自主的に籠ったり一緒に挨拶回りをしたりするものですが、旦那様にその意思がないという事で私が主導させていただきました」


 言われてぐっと唸ってしまう。そう、それが本来の貴族の結婚後の行動である。

 だが自分は白い結婚のつもりだったのだ。今日は、いや、昨夜のうちにアンネの元へ行き変わらぬ愛を誓うはずだったのだ。それなのに、なんだかよくわからない状況で不本意ながら元気にさせられて汚されてしまった。アンネとの愛ある行為とはまるで違った。泣きそうだ。泣かないが。

 心の中ではめそめそしていると、二人がかりで体を起こされた。どうやら昨日の侍女はまだいるらしい。ということはやはり昨日の痴態はすべて見られて……と考えて、更に泣きそうになった。泣かないが。ちょっと涙目になった程度だ。


「お前は妻として夫を立てようと思わないのか!」

「まぁ、これ以上ないほど立てていると思いますが。はい、旦那様、あーん」

「むぐ! ……あ、美味しい……じゃない! そういうことじゃない! 私の意思は!」

「個人の意思など貴族の義務をまっとうしてから語れるものでございます」

「鉄の淑女か!」


 末娘で甘やかされて育ったと聞いていたのに、幼さすら見えた可愛らしい少女だったのに、中身はガチガチの貴族だった。


「さぁ旦那様、沢山食べて体力精力をつけてくださいね。この後も励まねばなりませんゆえ」

「?! き、昨日で終わりではないのか?!」

「あらあら、自主的に籠る方々は大体一月は励むそうですよ」

「し、仕事が!」

「家令が仕分けをして急ぎのものは持ってきてくれるそうです」

「お、親が何と言うか!」

「頑張って子を生せとの御伝言でございます」

「私には! 愛する女性が!」

「ご安心ください、アンネ様にはきちんと事情があって暫く会えない事は伝えてあります」


 喉がヒュッと鳴る。何もかもが把握されている。その上、これは、人質をとられた?


「おま、お前は悪魔か!」

「フィッシャー伯爵夫人でございます。はい、旦那様、あーん」

「むぐぅ!」


 あれから、どれだけの時間と日にちが経ったのか。


 甘い匂いと甘い酒と自分好みの美味しい食事と甘味。それに満たされた空間で鈴を鳴らすような可愛らしい声が「いいのですよ」「さぁ頑張って」「ではもう一度」と自分を励まして優しく力づけて快楽をもたらして、そして心地いい眠りにつくという繰り返し。

 気が付けばもう目隠しは外されている。拘束は解かれていないが、侍女もおらず、夫婦の寝室にはエルフリーデと二人きり。


「え、エルフリーデ、もう……」

「ええ、どうぞ」


 だってしょうがないじゃないか!!!!!


 自分は縛られていて、どうやら家族ぐるみでこの状況を作られていて、仕事もしなくていい状況で、自由は無いもののただただ気持ちのいい空間で美味しいものを食べて快楽をもたらされ、しかもそれらは十人中十人が惹かれるであろう美少女が取り仕切っているのだ、しょうがないだろう私は悪くないこんなに気持ちがいい閨事もあるなんて知らなかったんだ若さ溢れる男でこの状況に抵抗できる男がいるのなら出てきてくれ!!!!!


 アンネへ捧げた愛に目を瞑り、今この時だけだからと罪悪感を抱え、それでもこの状況を受け入れてしまった。開き直りや自棄とも言う。相手がくれると押し付けてくるのだからいっそとことん堪能してやれ、の気分なのだ、なぁわかるだろう?!


 そうしてめくるめく昼と夜を幾度も繰り返した果てに、ある日、朝日の中で目が覚めたら拘束も解かれていて一人でベッドの上にいた。


「……? エルフリーデ? 何処だ?」


 声を出しても返事はこない。こんなことは初めてだった。寄る辺の無い不安を覚え、久方ぶりに床に足を下ろして立った。手足の自由を確認するように何度か動かして、そんなことをしていてもエルフリーデは現れない。

 どうして。呆然としながらそう思ってから、じわじわと、じわじわじわじわと自分を取り戻した。


 いや、これチャンスだろう?!


 自分は解放された。自由だ。エルフリーデから逃げられたのだ! どうして、じゃない! やった、だろう?! 私の愛はアンネに捧げただろうが思い出せ負けるな屈するな!!


「エルマー!」


 鍵などかかっていない寝室のドアを開けながら執事を呼べば、待ち構えていたかのように執事のエルマーが現れ礼をとった。


「お早うございます、旦那様」

「お早う。まず現状を確認したい。今が何月何日で仕事はどうなっているか、エルフリーデが何処にいるのかを述べろ」

「それでしたら食堂へお向かいください。それですべて解決いたします」


 言われて、自分の腹も空腹を訴えた。エルフリーデは食堂で朝食をとっているのだろう。そこで家令と何か確認をとっているのかもしれない。

 私はすぐに食堂へと向かう。エルフリーデに会える。口角が上がるのを感じて、いやいやいやそうじゃないだろう?! しっかりしろ私! 私の愛は! アンネに!! というか何故私が出向いているのだ、呼び出せばよかったではないか?! と気が付いた、が。

 違うのだ、これは効率だ。私も朝食をとる必要があったのだ、別に一刻も早くエルフリーデに会いたいわけではない。


「エルフリーデ!」

「おお、息子よ、でかしたぞ」

「おめでとう、これで安心ね」

「ち、父上? 母上?」


 食堂に足を踏み入れれば、そこには上機嫌で朝食をとる両親とエルフリーデの姿があった。エルフリーデは何故か果実水しか飲んでいないようだが。

 領地の館にいる筈の両親が、何故ここに?

 私は疑問に思いながら自分の席に近づく。


「まぁお前も座れ。さぁエルフリーデ、聞かせてやると言い」

「はい……旦那様、おそらく子供が出来ました」

「え」


 頭が、真っ白になった。

 子が出来た。誰の? エルフリーデの。誰との? エルフリーデの夫との……私だな?! 私の! 子供!! だな?! あのめくるめく日々の! 結果の!!


「あ、え、ええ? だ、あ、あぁぁぁあぁ、そ、そうかぁあぁぁ」


 情けない事に裏返った声が出た。自分の感情がよくわからなかった。


「なのでもう大丈夫ですよ、愛する女性のところへ赴いても構いません」

「え」


 頭が、もう一度真っ白になった。

 愛する人。それは、あの、そう、アンネである! 間違いない、アンネの事だ彼女以外いないともそうだとも!! だが! 子供が!! だから! その!


「どうぞこちらの事はお気になさらず」

「え、あ……あ、はい……」


 混乱する頭でかろうじてそれだけ口にすれば、もう用は済んだとばかりにエルフリーデは私の両親と歓談を再開した。というか何故そんなに私の両親と仲がいいのだ。






「クラフト様?」

「や、やぁ、アンネ」


 久方ぶりに訪れた娼館の一室で、私はようやくアンネと再会できた。だが、アンネは不思議そうに小首を傾げていた。


「しばらく会いに来られなくてすまなかった。色々事情があって……」

「ええ、存じております。結婚なさったと聞き及びましたが」

「そ、それはそうなんだが! あの、本当に、事情が……!」


 もごもごと誤魔化そうとしたが、そうだった、エルフリーデがアンネに諸々伝えていたのだった。もしかしたら、自宅で家族使用人ぐるみで軟禁されていたという情けない実態も伝えられているのかもしれない。ちょっと泣きたい。


「いいえ、むしろクラフト様が誠実で安堵しました。結婚をしてからの一月ですもの。奥様に寄り添われるべきですわ」

「アンネ……」

「私も元貴族です。結婚の、特に政略結婚の重要性は重々承知しております。そろそろ若さゆえの遊びはお終いなのでは? クラフト様。いえ、フィッシャー伯爵」


 居住まいを正してアンネは私に向き合う。そこに清廉さはあっても、甘い空気は最早ない。


「ッ私は、君を知り合いの家に養子にしてもらって、それで君を迎えようと……!」

「……実は、フィッシャー伯爵にお伝えしなければならない事がございます」

「何だ?! 何でも言ってくれ!」

「私、あと五日ほどで勤めを終わらせるのです。もうここからいなくなります」

「…………は?」

「とある方に嫁ぐことになりました」

「は?!」

「お別れです、フィッシャー伯爵。今までありがとうございました。フィッシャー伯爵とご家族のご多幸を遠くよりお祈りいたします」


 にこりと笑うアンネは今までと変わらず美しい……いや、今までよりも美しい。なんか肌も髪もつやつやしている。そういえば部屋の装飾がかつてより豪華だ。てっきり娼館が儲かっているのかと思ったが。


「とあ、とある方って……?」

「グラン商会の会長です」

「国一番の商会の?!」

「実はかつて家に出入りしていた商会で、会長とは幼馴染のようなもので……互いに初恋だったのです」

「まさかの初恋の相手! しかも両想い!!」

「はい、私もまさかこのような縁が巡ってくるとは思わず」


 恥じらうように微笑むアンネは幸せそうだった。

 何という事だ、アンネの中で私は既に過去の事となっていた。いや、そもそも私は客の域から出ていなかった、のかも、しれない……。

 だが、それはそうだ。他の客と変わらないだろう贈り物に、「いつか必ず迎えにくるよ」などと期限を設けるでもない口先だけの約束。そうして結婚してしまえば一か月音沙汰無し。こんな男をどうして信じられようか。


「……そ、そうか……そう…………ッい、今まで、ありがとう。君が何処にいようと、いつも笑顔でいられるよう、幸せな生活を迎えられるよう祈っているよ」

「ありがとうございます。心無い方も多い中、フィッシャー伯爵はとても優しく紳士的で素晴らしくありがたいお相手でございました。どうぞ奥様とお幸せに」


 ……少なくとも、客の中では好印象だったらしい。せめてもの慰めだ。






 どうやって帰ってきたのか覚えていない。居間の暖炉前で呆然と座っていると、気が付けばエルフリーデも少し離れた場所に座って本を読んでいた。もしかしたらエルフリーデが寛いでいるところに私がやってきたのかもしれない。


「愛とは何だろうか……」

「どうされましたか旦那様」


 独り言のように呟いたそれを、エルフリーデが拾う。


「ッ今日は飲むぞ! 貴女も飲もう!」

「はぁ……」


 私は飲めませんがお付き合いします、と言うエルフリーデは、すぐに酒とつまみを持ってこさせた。自分の発言の馬鹿さ加減とエルフリーデの寛容さを改めて思い知った。泣きたいもうやだ飲んでやる。






「私は性欲に負けたわけではなくてぇ」

「はいはい」

「でもあんなの知らなかったしぃ」

「そうですかそうですか」

「貴女は貴女であの素晴らしい何日にも及ぶ日々を無かったかのように振舞ってるしぃ」

「はいはい」

「子供が出来たのにアンネのもとへ行けと言うしぃ」

「そうですかそうですか」

「アンネを愛してたんだよ私はぁ」

「はいはい」

「ふ、振られたけどぉ……!」

「そうですかそうですか」

「アンネと同じくらい貴女が気になって仕方ないけどこれはきっとあのめくるめく日々が忘れられないからで決して貴女を愛したわけではなくてぇ」

「もう面倒くさくなったので寝ていいですか?」

「寝る?! 私と?!」

「そちらの寝るではありません」

「貴女はまたそうやって私の心を弄ぶ!!」

「そんな覚えはないですねぇ」


 盛大に酔っぱらって、盛大に妻に絡んで、それでも結局、私はエルフリーデと共寝をすることは無かった。

 夫婦の寝室ではなく自室で、一人きりのベッドで朝目覚めた時、私は何とも言えない寂寥感に襲われた。

 すべてにおいて中途半端だった結果がこの一人きりの目覚めだ。

 愛を貫きたいなら貴族の立場を捨てて彼女と同じ場所へ降りるか、権力でも何でも使って早々に彼女を救うべきだった。

 貴族としてありたいのなら彼女との関係を続けても妻を絶対に最優先するか、きっぱりと愛を終わらせ妻と向き合うべきだった。

 私は、どちらの女性も裏切っていたし、自身の血も裏切っていた。

 その事にようやっと気が付いた。


「……ちゃんと、しよう」


 鼻水が出た気がした。別に泣いてはいない。






「愛とは何だろう……」

「答えは出ましたか?」


 何日後かの居間で、私はまた同じ独り言を呟き、エルフリーデはそれを拾う。前と違うのは、私は暖炉ではなくきちんとエルフリーデに向き合っての発言である。

 そして、エルフリーデは本ではなく、アンネからの手紙を読んでいた。私宛の手紙を検分しているわけではない。しっかりとエルフリーデ宛の手紙である。もっとも、正確にはグラン商会からの結婚の挨拶状なのだが。

 何故なのか、と私はじっとりと妻を見る。視線に気が付いたエルフリーデは手紙を畳みながらふわりと微笑んだ。


「グラン商会は私の実家もよく利用しておりました。会長は下働きの頃からの顔馴染みでして、恋の悩みを聞いたこともあるのですよ。すこぅし、恋のお手伝いもしたり。諦めずに手を尽くした結果、初恋のアンネ様を迎え入れることが出来たようで何よりでございます」


 そもそも、この結婚はフィッシャー伯爵家と妻の実家、バール伯爵家の共同事業の為の結婚。そしてその共同事業の出資者の一つにグラン商会もいる。

 両親は私がアンネに入れ込んでいるのを良く思っていなかった。父には直接怒鳴られたこともあるし、母には泣かれたこともある。そんな両親と仲がいいエルフリーデは、きっと散々謝罪と愚痴を聞いてきたのだろう。その上、顔馴染みで出資者が語る恋の悩み。


 ……多分。多分、妻は何もかも承知の上で、何かしらの調整をして、今という結末を予測の上で、こんな私と結婚をしたのだろう。


「…………私は周りが見えていなさすぎでは?」

「恋は盲目だったのでしょう」


 そんな一言で片づけていい失態ではないが、エルフリーデが過ぎた事としているので、私はこれ以上は内々に反省と改善を誓う。

 そう、反省しているのだ。


「……エルフリーデ」

「はい」

「私は最初を間違えた。それは確かで、その点に関しては絶対に貴女に謝罪しなければならない」

「問題なく結ばれ子供も生せました。私の両親も貴方の御両親も満足されております。勿論私も。どうぞお気になさらず」


 そう言って、まだ膨らみのない腹を撫でた。

 そこにいるのは、私の子だ。私とエルフリーデの子だ。


「それでも、色々と本当にすまなかった。やり直すことは出来ないが、ここから改めて私達の関係を築き上げていきたい。まずは貴女と良き仲間、良き家族となりたい。私は、私達の子供が誇れる親となりたい……いいだろうか?」


 真剣な目でエルフリーデを見れば、エルフリーデもまたこちらを真剣な目で見る。信じていない、というよりは、本当かどうかを見極めているような、そういった厳しい目。

 嘲笑われても罵られても受け入れよう。信じられないと言われたら信じてもらえるよう努力し続けよう。


 私は、貴族として、一人の男として、それをなさねばならない。


 私の思いが伝わったのか、エルフリーデが静かに深く頷いた。


「謝罪を受け入れます。ええ、私も誇れる親となりたいですね。ですから、よい関係を築き上げましょう」


 私は細く長く息を吐きだす。大分気を張っていたようだ。


「ありがとう、エルフリーデ。見ていてくれ、良き夫、良き父となるから」

「では私も良き妻、良き母となるよう頑張りましょう。遠回りをしてしまいましたが、ここからですね」


 エルフリーデが柔らかく微笑む。

 快楽を伴うわけでもないそのただの笑顔に胸が熱くなる理由は、まだ考えてはいけないだろう。


 貴族にとって政略結婚は当たり前。恋愛は後継を作ってから。それがよく見られる形だ。

 愛などなくとも、体を結ぶ事も子を生すことも出来る。エルフリーデの主導によってだが、私達は確かに貴族としての義務は果たした。

 義務を果たしたならば、ここから自由に恋や愛を囁くもので……実のところ、その相手を家族に求めるというのも、よく見られる形。

 だが、私にはまだ早い。

 まずは第一歩。この家を支え子供を導く仲間となる事が一つ目の目標なのだから。

 いずれは家族へ。


 そしていつの日か、愛を――。






 ※ ※ ※





 

 私の夫のクラフト様は、正義感が強く人が好過ぎる上にちょっとお馬鹿だ。


 いわゆる、勉強のできる馬鹿。仕事をやらせればサクサク進むのだが、貴族特有、いや、人間関係特有の腹の探り合いが下手糞なのだ。

 人を信じすぎる。誠実であり過ぎる。

 いっそ聖職者になった方がよほど尊敬されたのだろうが、どうせどの組織も上は多少清濁併せ呑むのだ。どうあっても頂点には立てないだろう。

 そういう彼の性質を家族も親族も把握していて、だからこそバール伯爵家の三姉妹の中で一番冷静に物事を判断できる私が結婚相手へと抜擢された。


「エルフリーデ! 見たか? ジークが一人で歩いたぞ!」

「あら、お父様にいいところを見せたいのね」

「いいぞジーク、その調子だ!」


 すっかり子煩悩となったクラフト様は、今日も仕事を早々に終わらせ、私達の息子、ジークに張り付いている。ジークが歩くようになったのはめでたいが、いつも抱き寄せ頬ずりするクラフト様から逃げるために歩いている様に見えるのは気のせいだと思いたい。


「あの馬鹿息子をよくぞここまで真人間に……!」

「エルフリーデ、本当にありがとう。貴女のような嫁を迎え入れられた事がフィッシャー伯爵家の最大の幸運よ」


 たまに顔を出しに来る義両親は、私を女神か何かのように感謝の祈りを捧げてくる。クラフト様の人の好さは間違いなくこの二人の善性からきているのだろう。


「……私達はお前が何をやったのかは聞かないでおくよ」

「あらあら、貴方ってば。私は大体予想がつきますよ。よく(やり)ましたね、エルフリーデ」


 年に数回顔を合わせる両親は、どこか遠い目をしながらも認めたり、笑顔で褒めてくれたり。私のやった事は大した事ではないが、まぁ、貴族の義務の一つを果たせた事には安堵している。

 そう、大した事はしていないのだ。

 収まるべきものを収まるべきところへ誘導しただけ。作るべきものを作る努力をしただけ。理想の形に少しでも近づけるように工夫しただけ。

 それらは愛がなくとも出来る事で、過程で誰かや誰かが幸せになれたのなら、この今はきっと大団円と言えるのだろう。


「エルフリーデ……君に伝えたいことがある」

「はい、何でしょう、旦那様」


 遊び疲れて眠ったジークをベッドに移してから、クラフト様が私に向き合った。


「あ、あの……ああ、あ……ッ愛している……ッ!」


 意気込んでの発言に、私は一度目を見開いてから微笑む。


 なんて馬鹿で真っ直ぐで――なんて、可愛らしい人。


 そう思えるようになったのは、ひとえに彼が宣言通りに良き仲間、良き家族となる努力を重ねてきたからだ。

 人と人との繋がりは、別に愛などなくとも始められ、そして気が付けば愛が生まれるという事は、実によくある話である。


2024/10/20 誤字修正

2024/11/23 誤字修正

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― 新着の感想 ―
男のダメな所濃縮された様な旦那さんだな、、
収まるべきものを収まるべきところへ…あーっ! ……… 失礼しました。 めちゃくちゃ面白かったです! 旦那さんも真性クズじゃないただのおバカさんで良かったw
エルフリーデさんを尊敬します。 面白いお話をありがとうございました!
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