表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

5 すーちゃんの怖い

 5 すーちゃんの怖い


 谷さんと並んで歩いた。ゆっくりと。

 日が傾いて風が出てきた。海からの涼しい風が、熱気を洗い流すようで心地よい。

 水族館の一帯は広々とした公園となっている。今日はイベントが何も無いからか、土曜日なのに歩いている人はまばらだ。

 ところどころおしゃれな街灯も立てられており、道はレンガで舗装されていて、散歩コースになっていた。

 しばらく歩いて、すっかり誰も居ない外れまで来た。ベンチと、もう少し行った先に、飲み物の自動販売機がぽつんとある。


「ちょっと座ろうか」


 そう言った谷さんは、わたしをベンチに座らせ、自分はわたしの前に膝をついた。彼の視線がわたしより少し下からという滅多に無い状況で、真っ直ぐ見つめられる。

 わたしの心臓は痛いくらい強く打ち、逸らすことの出来ない谷さんの視線をただ受け止めていた。


 やがて谷さんが口を開いた。

 

「すーちゃん、僕の彼女になってほしい」


 一ミリも茶化す隙間も、ましてや逃げる余地の無い言葉で、谷さんはそう言った。


 聞いた瞬間思ったのは、嬉しい、だった。


 そして、すぐ、


 ――怖い。


 と思った。


 嬉しい。

 だけど、また、あんなふうに思われたら。

 わたしは何がそうさせたのか、わたしの何が悪かったのか、まだちゃんとわかっていない。

 そんなわたしは、性懲りも無く繰り返してしまうんじゃないか。

 そして、また――このやさしい人に、詰まらないと、もう要らないと思われたら、わたしは立ち直れない。

 そう気がついたらゾッとして……とても怖くなってしまった。


「僕のこと嫌い?」


 言葉を出せないわたしを、谷さんは下から覗き込んでいる。とても強い目をしていた。頭の中を全部見られてしまうみたいで、わたしは目をつぶって首を振った。

 

「違い、ます。嫌いなんかじゃないです。ただ……」

「うん」


 私の言葉を待つ声はやさしい。

 

「怖くて」

「怖い?」

「今はどうかわからないけど、そのうち……わたしと居るのが嫌になってくると思います」

「なんで?」

「なんでというか……わたし、どうやら面倒な女らしいし、詰まらないというか、きっと時間の無駄だなってがっかりすると思います」

「うーん……」


 そこで谷さんは唸ると、「隣に座っても?」と聞いてきた。わたしが頷くと、立ち上がって隣に座った気配がした。身体がくっつく程ではないけれど、今までに無いくらい近い。かすかに右に谷さんの体温が伝わってきた。正面からの視線から逃れたわたしは、ようやく目を開けた。


「あのさ、言いにくいことを聞くけど、前の彼氏にそういうこと言われた?」

「……はい」

「そうかー」


 谷さんが空を仰いだ。


「僕はすーちゃんとそいつがどんな付き合い方をして、どんなやり取りをしてたかは全然知らないから、なんとも言えないけどさ。あと、この間までのすーちゃんもね。――でも僕は、すーちゃんは今のところ面倒では無かったし、もし面倒でもそう思われたくないって自分でわかってるなら、ある程度対策が取れるコだと思ってるよ。それに僕も、すーちゃんがそこに引っかかってるんなら、なんかあれば言うようにするし」


 わたしは息を詰めて谷さんの声を聞いていた。彼の言葉はじわじわとわたしの中に沁みて、拡がっていく。


「『時間の無駄』て、いくらなんでも随分失礼な言い草だと思うけど、まあそうだね……、アイツにとってはそうだったかもしれないけど、僕にとっては違うよ」


 ねえ、すーちゃん、と谷さんは誰よりも軽やかにわたしを呼んだ。


「僕はきみに、時間を使ってでも会いたいんだよ」


 それは蹲っているわたしの手を取って、立ち上がらせてくれるような言葉だった。


 

「僕にとってはとても大事なことで、全然勿体無くなんてない」

 

 なにか応えようとするのに、声が喉に貼り付いてしまって、何も言えない。鼻はツンとしてくるし、視界は揺れていく。ぐっと手を握りしめた。



「僕さ、白状すると、大学ん時から、すーちゃんのこと良いなぁ、て思ってたんだよね」

「へ?」


 思っても居なかったことを言われて、思わず谷さんの方を向いてしまう。その反動で溜まっていた涙が、溢れた。


 「あ、こっち見た」

 

 楽しそうな谷さんと目が合った。


「泣いてるじゃん」


 谷さんは手を伸ばすと、ゆっくりとやさしく手の甲でわたしの左右の頬に触れた。わたしは恥ずかしくなって慌ててハンカチを出すと、涙を押さえる。それを見届けてから、谷さんは再び喋りだした。


 

「えーと、大学の時の話の続きな。……その時にはすーちゃんには(くだん)の元カレがいたし、良いなーの認識で終わってた。可愛い子がいるなー、でも彼氏がいるし、で終了。まあ、正直にいえば、今まで僕も彼女が居た事もあったし、その期間はその子の事が好きだったしね」

「はい」

「でもお互いフリーの時に、すーちゃんの友達の橋田さんと仕事場で再会して、合コンのセッティングを持ち掛けられて、なんだろうな……、チャンスだな、て思ったんだよね」


 ん?

 あれ?

 あの合コンの時では無く?


「……待ってください。なんでわたしがフリーだって知っていたんですか?」


 今更なんだろうけど、そもそも、いきなりなぜわたしを思い出したの?


 涙が引っ込む勢いでびっくりしているわたしの様子に、谷さんは頭をかく。


「あー、気になるよな、そこ。そうだよな、普通に考えたら気持ち悪いよな。――すーちゃん、少し前にOB会の案内届いてなかった?」

「届いてました」


 確かにサークルのOB会のお知らせは届いていたけれど、元カレが居たら……と思うと、とても参加する気にはなれず、不参加でメッセージを返した。


「すーちゃんは来ていなかったけど、僕は行ったんだ。そしたらさ、居たんだよね、すーちゃんの元カレも」

「あー……」

「そこで、前の――後輩の彼女とは別れたって、仲のいい奴と話しているのが聞こえて来たから、それで」

「うわぁ……」


 あああああ……嘘でしょ……! どんなふうに言われたんだろう……。谷さんが聞こえてきたってことは、他の不特定多数の人々も聞こえてたんだろうなぁ。次に同じようなイベントがあっても、もう絶対行かない。無理。最低。

 

「で、ああ、あのコ、彼氏と別れたのか、て頭に残ってて、その後すぐ橋田さんにセッティングを頼まれた時に、確認したんだ。すーちゃんは今フリーか、って」

「なるほど」


 そこで恵里菜ちゃんとあの合コンが出てくるのか。


「一度思い出したら今あのコはどんなふうになってるんだろうて、どんどん興味が出て来て、実際会ってみたらさ、やっぱりこのコ良いなぁて思って」


 僕、あからさまだったでしょ? と谷さんはわたしを覗き込む。わたしは苦笑しながら頷いた。あからさまだったし、反論する暇を与えないという強引さがあった。


 うなずくわたしに、谷さんはいたずらが成功した子どものような顔をした。……いやでもなんでそこでドヤ顔なんだろうな。

 

「そんだけ必死だったってことなんだけど。――でさ、二人で出掛けたりしたらさ、側に居たいな、このコの側に居るのは僕が良いな、て思ったんだよ。挙げ句に他の男が隣に居たら強烈に嫌だな、て、想像しただけでムカついて、過去に無いくらい嫉妬してしまった。で、すげえ好きじゃん、て思ったの」


 恥ずかしくなって下げた視線の先で、谷さんが靴底でレンガをざりっ、と一度擦った。


「好きな理由は挙げようと思えばいくつも用意出来るけど、たぶん理屈じゃないんだよな」


 うまく言えないけど、と谷さんは前置きして、


「でも、すーちゃんとのことを考えて、すーちゃんと居て幸せな気持ちになるのは、確かなんだ」


 信じられない思いで、一度瞬きして、目を見開いた。

 わたしと居て幸せな気持ちになると言ってくれる人がいる。

 それは、なんて勇気付けられるのだろう。


 谷さんのやさしい言葉で、わたしの投げ捨てられて萎びていた気持ちに、どんどん水分が入っていく。


「だから、もし僕が嫌いじゃなかったら、僕との関係を始めてみない?」


 ずっと考えてた。谷さんの気持ちを感じるたびに、どうしよう、て。

 怖いのに、好きなの、どうしよう、て考えていた。


 でも、もうどうしようで、引き伸ばすことは出来ない。

 これだけ言葉を重ねてくれた人に、わたしだけ蹲って黙り込むことはもう出来ない。


 わたしは少しずつ湧き出て来た勇気を掻き集めて言った。


「好きです。谷さんが好きです」


 認めることが中々出来なかったけれど、わたしの中で、ほんとうはとっくに答えは出ていた。


 だけど、


「でも、怖いです。どうしても……!」


 わけがわからないまま、唐突に関係を切られた恐怖。理由がわからない自分への絶望。ずっとそれがわたしを蝕んでいる。

 谷さんはわたしの頭に手を置いた。そっとそっと撫でてくれる。


「そうだね……なら、怖いが少しでも軽くなるように、話そうよ。僕もすーちゃんも、しんどい時は、どうしようもなくなる前に話そう」


 谷さんはわたしの頭の上に置いた手を滑らせ肩に置くと右にわたしの身体を倒すように引き寄せて、自分の左肩へもたれさせた。


「すーちゃんはさ、相手から要らないて思われることばかり考えているけど、反対にすーちゃんがそう思う時が来るって思わないの? ぶっちゃけ、僕だって怖いよ。すーちゃんに要らないって言われたら。だったら、怖がって一人でいるより、怖がりながら二人でいようよ」

「二人で?」

「うん、そう」

「怖いのに?」

「そうだよ、だって好きだもん」

「わけわかんないです」

「そうかなぁ……。それとも、怖いから離れて、僕が別の人の手をとっても仕方ないって思えるの?」

「それは……」

「僕は思えない。さっきも言った気がするけど、絶対に嫌だ。怖いままのすーちゃんのままで良いから側にいてよ」

「谷さん……」

「すーちゃん、君に嫌われたくないと、怖がってる僕は嫌だ?」

「そんな……嫌じゃない……嫌じゃないっ」

「僕も嫌じゃない」


 ふー、と谷さんが長く息を吐いた。


「それにね、気づいてるかな? この短期間で、怖いがすーちゃんの中で変わっできてるの。元カレと別れてから思い始めた『人を好きになるのが怖い』と、『いつか僕に必要とされなくなるのが怖い』では違うでしょ?」

「あ」

「怖いの意味も形も、なにかのきっかけで変わっていくんだよ」

「……はい」

「それにね、怖いことは決して悪いことばかりじゃないよ。怖いから気づくこともたくさんあるし、出来る事もあるだろうしね。どっちかというと、僕は何も怖がらない人の方が怖いけど」


 何も怖がらない人の方が怖い、か……そう言われればそうかもしれない、と思う。


「それはさておき……まぁ、とにかく実際問題、全く怖がらずに生きていくのは無理だと思う。なら、好きな人と形を変えながら一緒に居たほうがいいじゃん」


 確かに……。

 正直、また丸め込まれてる感が無きにしもあらずだけど、そう気づいていても拒む気持ちは生まれなかった。


 谷さんは引き寄せていた左腕を解いてわたしを放すと立ち上がり、わたしの正面に立った。そして両の掌を上に向け、わたしの前に出す。

 わたしはまず出された彼の両手を見て、視線を上げていく。そして、少し赤くなった顔で見下ろす、真っ直ぐな谷さんの視線とぶつかった。目が合うと少し視線を緩めて、やわらかな声でこう言った。

 

「だから今はそのままで、僕の手を取りなさい」


 谷さんの両手は大きい。それに比べて、わたしの手は頼りなくて小さい。当たり前の事だが、長さも形も違う。掴めるものも、掴もうとするものも違うだろう。

 彼の手を取っても、もしかしたら、またさよならをすることになるかもしれない。絶望がまた襲うかもしれない。

 でも、それは前回とはきっと違う。お互いに怖がる谷さんとわたしはたくさん話をして、その結果そうなるのだ。

 二人のことは二人で考えて、話し合って決めていく。たぶんそうだ。そう信じられるだけの言葉をわたしは貰った。

 もし終わるのなら、今度はわたしも一緒に終わりを決める。そうなりたいし、そう出来るように努力したい。

 

 今、この手を取って立ち上がりたい、と強く思った。有耶無耶に流されるのではなく、一方的に告げられるのではなく、わたしが自分で始めることを決めて、この手と立ち上がりたい。

 

 わたしは谷さんのその両手に、自分の両手を重ね、頭を下げた。


「お願いします」


 するとすぐギュッと握られ、強い力で上に引かれた。その勢いのまま立ち上がり、もう一度手をしっかりと繋ぎ合わせる。


 谷さんはゆっくりゆっくり上体を倒し、額をわたしの頭にコツンと乗せた。


 「ありがとう……」


 と谷さんが呟いた。直接響く、吐息混じりのその声に乗る感情に、わたしはどうしようもなく泣きたくなる。

 

「すげえ嬉しい」

「わたしもです」


 ふたりとも声が上ずっていたと思う。


 


 程なくして、谷さんは身体を起こす。繋いだ手は片手だけ残し、隣に並んだ。


「そろそろ移動しようか。……お茶を、と思ったけど、どっちかというともう夕飯の方がいい時間になったな。――帰る時間、大丈夫?」

 

 腕時計で時間を確認した谷さんに頷きを返す。


「大丈夫です」


 にやりと谷さんが笑う、

 

「なんなら泊まりでも良いよ」

「いや、いきなりはちょっと……」

「だめかー」


 谷さんはあまり残念そうには思えない声で言うと、わたしの片手を握ったまま歩き出した。


「でもめっちゃ喉乾いたなぁ。あー……一ヶ月分くらい喋った感じ」


 自惚れじゃなければ、喉を枯らした一ヶ月分はわたしと手を繋ぐためだ。ああだめだ、めちゃくちゃ嬉しい。


「ちょっとそこで飲み物買おう。すーちゃん、どうする?」

「わたしも飲みたいです」


 わたしも泣いたり緊張したりで、喉がカラカラだ。


 二人で自販機まで歩き、お茶を買って再びベンチまで戻って飲んだ。先ほどと違って、とてもリラックスして座っているし、なんならわたしたちの距離はゼロだ。直接感じる片側の温かさがむずがゆく、嬉しくてたまらない。


 ある程度飲んでクールダウンすると、ペットボトルのキャップを締める。谷さんも飲み終えたようだ。



「さて帰りますか」


 谷さんが立ち上がる。


「はい」

「すーちゃん」


 いつの間にか正面に立っていた谷さんが、深くて湿った声がわたしを呼び、その右手が肩に置かれた。顔を上げたわたしとぴたりと目があった。そのまま谷さんが長身をかがめ、顔が近づいて来る。

 あ、と気づいて目を閉じた。


 わたしたちは触れるだけのキスをした。


 一瞬目を開けたら、笑顔の谷さんと目がすぐに合う。嬉しくてふふふと目を細めると、もう一度キスが降ってきた。

 

 二度目に唇を離した時、今更ながらぶわりと恥ずかしさと高揚で、顔に熱が集まっていく。

 

「好きだよ、すーちゃん」

「わたしも、好き、です」


 たーさんはわたしの手を取って立ち上がらせ、歩き出す。

 

「そういえば、また、たーさんて呼んでよ」

「……たーさん」


 二度目のたーさんも、谷原さんのたーさんだった。だけど、すぐにそれは見破られてしまったようだ。握った手にキュッと力を入れられて、軽く前後に振られた。

 

「ちゃんと、たかあきさんのたーさんで呼んでよ、すーちゃん」

「りょ、了解であります、たーさん」




 こうして、たかあきさんのたーさんが誕生したのである。









 ★


 帰りの車ですーちゃんは、運転中のたーさんに今朝買った飴を食べさせようとしたら、指ごとパクリと食べられます。





お読みくださりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ