4 すーちゃんは怖い
すーちゃんは怖い
ソフトクリームを食べに行った後、谷さんとは、なんだかんだと毎日メッセージを送り合っている。
主に朝とお昼休みに送られて来て、それに返している。正直めちゃくちゃ和む。
内容といえば、朝の挨拶とか、お疲れ様とか、食べた美味しいものとか、つい買ってしまった懐かしい駄菓子とか、そんな他愛もないメッセージを送り合っている。ちょっとした交換日記みたいでくすぐったい。
ついつい新しいスタンプを買ってしまった。
「おはようございます」のバリエーションが増えた。
谷さんと二回目に会ったのは、金曜日の夕方。仕事帰り、ショッピングモールで落ち合った。その施設内のレストランへ始まったばかりの夏季限定メニューを食べに行ったのだ。
限定ハンバーグは大変美味しかった。オプションのミニパフェも素敵だった。
今回も大きな気づきがあった。
谷さんはわたしが食べる姿を褒めてくれたけれど、谷さんこそ褒められるべきでは? と思う。
谷さんはその背の高さに見合いよく食べるが、とてもきれいに食べる。何より箸使いがきれいだ。その長い指が箸をお手本どおりの形で持ち、食べ物を摘みどんどん口に運ぶ。あんな大きさでよく口に入るな、と思うこともしばしばだが、きれいにパクリと入れて咀嚼しきってしまう。
その一連の動作はどこかしら色っぽいまである。思いがけない破壊力だ。
そこまで気づいて、いやいや食事中に何を見ているの、と自制心の手綱を持ち直す。
なるほど、好ましい食べ方をする人間というのは、こんなに魅力的なものなのか、と感心し、わたしもそう見られていたのかもしれない、と思うと、体温が上がって変な汗が出た。良かった、夏季限定メニューの激辛ソースにしておいて。ありがとう夏。
いきなり赤くなったわたしに、谷さんが心配をしてくれたけど、不自然にならずに唐辛子のせいに出来た。オーダーする時、同じく夏季限定メニューのフレッシュトマトソースと悩んだけど、ちょっと攻めた本日の選択は総合的に大勝利だ。
ちなみに谷さんはフレッシュトマトソースで、こっそり一口ずつ交換した(美味しかった)。
その後、腹ごなしにぶらっとモールの中を歩いて、ウインドゥショッピングをした。女性のあてのない買い物を嫌がる人もいる(元カレがそうだった)が、谷さんは嫌そうな素振りは見せなかった。機嫌よく会話をして、一緒に歩いてくれた。
帰り際に閉店間近のパン屋で、明日の朝ごはんをそれぞれ買って駐車場で解散した。
ショッピングモールからの帰り道、自分の車を運転しながら、参ったなぁ、と呟いた。
しっかりと気づいてしまったからだ。
谷さんと居て、楽しい。
そして、楽だ。
あら不思議。同じ字が二つ。
でも、字は同じなのに、わたしの中では一つ一つ少し違う意味がある。
まず「楽しい」。
谷さんといると、嬉しい。うきうきする。浮かれてしまう。駄目だって思うけど、ふわふわした気持ちは、元の高さに戻ってこない。
そして「楽」。
谷さんが、学生時代の自分を多少なりとも知っているとわかっているからか、あまり気負わずにいられた。いや、何か装う前に谷さんが甘やかしてくれるからそれすら出来なかった。ただわたしはそこに居ればよかった。そのままわたしは息をしているのだ。
こんなこと、家族以外で今まであっただろうか。
谷さんと歩いている時は、わたしはゆっくり歩いている。谷さんは背が高いから足も長い。必然的に歩幅がずいぶん違うだろうに、彼はいつも隣りにいる。きっと、何か理由がない限り、わたしのペースを詰ることは無いだろう。そんな風に思うのはわたしの思い上がりだろうか。
谷さんはわたしが遅れても待ってくれるし、気にしていてくれてる。それがとてもとても嬉しい。
そうだ。
嬉しいんだ。
谷さんと一緒にいるのは、嬉しい。
再会して二度目でのこの状態に、自分が上手いこと転がされているという自覚は、流石にある。
谷さんが私に対して意図を持って接しているとわかるし、彼も隠そうとしていない。
だけど、不思議と性急だと思える彼の行動も、不快では無いのだ。
再会する前は男性とのやり取りを怖いと思っていたのに、今はそう思えなくなっている。
自分でもほんとうにチョロいと思う。
こんなに短期間で心を動かされてしまうなんて。
それなのに、未だにこの状況を明確に言語化したくなくて、抵抗している自分もいる。一度知った絶望感は、こびりついて剥がれてくれない。認めなければ絶望しなくて済む、と思いたいのだ。
カーステレオから聞こえるラブソングが生々しくて、居たたまれなくて、停止ボタンを押した。
こんなふうなのに、実際谷さんと会えば、あっさりと次の約束をしてしまっているから、自分でも笑うしか無いのだ。
ショッピングモールへ行った時も、簡単に次の週の土曜日にまた会う約束をしてしまった。
水族館へのお誘いは大変魅力的だった。
断る理由が無いというか、実際週末の予定がスッカスカだったりするし、イルカもクラゲも見たいし……と後から理由をつけるけれど、誘われた瞬間、ほんとうに自分でも呆れるくらい、ツルッと会う約束してしまう。
ええい、言い訳がましいな、わたし。
ただ、谷さんに会いたい、て言えればいいのに。
だって、毎日楽しくメッセージを交わしてるんだもん。本人に会いたくなるじゃん。
「違うよ」
思わず声が出た。
違うよ、会いたいのは、彼がわたしの中で特別になってきたからだよ。
ほんとうは知ってるのに。こういう気持ち。
自宅についてエンジンを切った後、しばらく動けなかった。
ぐちゃぐちゃだ、わたし。
わたしの内心がぐずぐずでも、メッセージのやり取りでは浮き上がって、すぐに我に返って、とアップダウンの激しい平日を送り――
そして土曜日。
わたしは谷さんを待っている。
今日は水族館に行く約束をしたのだ。
ちなみに昨夜、明日のために、と、ワンピースを出して、しまってを三回繰り返した。
着たい服を着るだけだし、でもなぁ……を繰り返し、結局、休みの日に着たい服を着て何が悪いのか、と開き直って、一番手前に掛けた。
水族館の館内は結構歩くから靴はスニーカー。このワンピースならスニーカーも大丈夫。
谷さんには、少しでも可愛いと思われたいという気持ちを見透かされてしまうのだろうか。
恥ずかしいと思うのと、気づいてくれたら良いな、が競り合っている。
なんというか、自分でも自分が鬱陶しい。
土曜日の朝は、ソフトクリームを食べに行った時と同じコンビニエンスストアで待ち合わせをした。
そわそわしてしまって少し早く到着したけど、ほぼ同時に谷さんの車が入ってきた。
車を見つけただけで、心が浮き立つのがわかった。
谷さんは車を駐めて、わたしの前まで歩いてくる。
「おはよう」
「おはようございます」
「ワンピース、可愛いね」
はい早速、可愛い頂きました〜!
照れながらも頭を下げる。
「ありがとうございます」
なおこの場合、わたしが可愛いのか、ワンピースが可愛いのか分からないけど、どっちでも嬉しい。とりあえず、わたしの変化に関心を持ってくれている、て事だろう。
「あ、ちょっと待っててくれる? ごめん、コーヒーが飲みたくて」
その店で、谷さんがホットコーヒーを買うという。今朝家を出る前に飲もうと思ったら、コーヒーが切れていて飲めなかったそうだ。だから早めに来てコーヒーを飲みながら待つつもりだったという。コンビニコーヒーだけどわたしも一緒にどうか、と誘われたけど、これから出掛けるのにトイレが近くなりそうだったので辞退した。
わたしはお茶のペットボトルと飴を買って、谷さんのコーヒーの注文を引き受ける。全く足りないけど、今日も運転してもらう微々たるお返し。
乗り込んで車のドアを閉めれば、コーヒーの香りが車内に広がる。
「ちょっと飲ませてね」
「いえ、ごゆっくり」
谷さんは、プラスチックの蓋を丁寧に外すと熱いコーヒーをふうふう冷ます。かなりしっかり吹いてるけど、猫舌なのかな……。ついつい見てしまったわたしの視線に、谷さんが一旦口元からコーヒーのカップを離した。
「ソフトクリームの時と反対だ」
「あ、ほんとですね」
谷さんは持っているコーヒーのカップをわずかに上げて見せた。
「実はちょっとこういうコーヒーを蓋付きで飲むの苦手で」
「そうなんですか?」
「一回、勢いがついてガバッと掛かって、唇火傷してさ。しばらく地味に痛いわ、溢した先のワイシャツもシミになるわ、で散々」
「あー。それは……」
とても気の毒な。
だから、持ち運びが無いときは最初から付けないし、付けたら飲むときは出来るだけ外して飲むのだそうだ。
思いがけないポンコツエピソードで、ほっこりしてしまった。
「だけど、なんか朝にコーヒーを飲まないと落ち着かなくて」
谷さんは朝のコーヒーが重要なアイテムらしい。なるほど。
て、なに心のメモをつけてるの、わたし。
わたしもペットボトルの蓋を開けてちょっと口に含んだ。はー、潤う。気づかなかったけど、少し緊張してたのかな。
ちょうどよく冷めたコーヒーを飲み終えた谷さんは、ちょっと待ってて捨ててくる、と店内に戻っていった。その間にわたしは座り直し、シートベルトを締めると、スカートの裾を整えた。
谷さんが戻って来る。その重みで車が少し揺れて、否が応でも隣に誰かが座っている事を認識させられる。
これから再び密室のドライブが始まるのだ。
わたしのドキドキに気づいているのかいないのか、谷さんはエンジンを掛けてから、ちょっと上の方を見た。フロントガラスの向こうを気にしている。
「雨が降らなくてよかったよね」
「ええ、なんとか持ちましたね」
ここ数日、一日に何度も天気予報をチェックしていた。せっかくの遠出に雨が降っていては悲しい。
薄っすらと曇った空を見てから右側を振り仰ぐと、今は谷さんがわたしを見ていた。
「夜まで持ちそうだし、昼間はそんなに暑くならないんじゃないかな」
「それは嬉しいです」
今日の谷さんは、さらりとしたリネンシャツにチノパンだ。袖口は肘まで折り畳まれていて、左腕の手首には以前見た腕時計が巻かれている。やっぱりこの手首から肘までのライン、好きだなー、て思う。
フットブレーキが外された。大きな手が掴んだシフトレバーが下がる。アクセルが踏まれて車が動き出した。
田舎道をしばらく走って、高速道路に入った。まだ早い時間だからか、思ったよりは道は空いている。
「今日は見たいのはまずイルカ?」
「あとクラゲと、時間が合えばシャチのトレーニングもみたいです」
「なら尚更暑くならなそうでよかった」
「はい」
久し振りの水族館は楽しかった。イルカのパフォーマンスも素晴らしかったし、ライティングされたクラゲも綺麗だった。あとペンギンエリアの前では時間を忘れて眺めてしまった。首を曲げてうつむき佇んでいるペンギンは、不思議な風情がある。
ゆっくりと一通り堪能して、ちょっとしたお土産まで買って、施設を出た。
初夏の太陽はだいぶん傾いたけれどまだ高い位置にあり、なんとなく、帰るにはまだ早い時間だ。
どうしようか、と言いながらとりあえず歩き出し、駐車場まで帰る途中にある小さな遊園地の前まで来た時、谷さんがゆったり回る観覧車を指差した。
「ジェットコースターとか観覧車に好き?」
「じつは高所恐怖症で、ご遠慮したく……」
「そっか。ちょっと歩いて、どこかカフェにでも入ろうか」
「そうですね」
「でも、少し遠回りしてもいい?」
わたしを道の駅に誘った時と同じ、ちょっと照れたような顔で谷さんが聞いた。
ああ可愛いなぁ、この人。いつもグイグイ距離を詰めて来るのに、時々こういう顔をする。
心にじわり、と得も言われぬ痛みが広がるようだ。
「良いですね、遠回り」
手を繋ぎたいな、て瞬間的に思ったけど口に出せなかった。
お読みくださりありがとうございました。