1 あ行の人
1 あ行の人
たーさんは、フルネームは谷原崇明さんという。
なので、たーさんは出会った当時は谷原さんであって、お付き合いをしている現在は崇明さんのたーさんである。
たーさんは、大学の時のサークルの二つ上の先輩だった。サークルの在籍時は、たーさんは先輩と同学年からは概ね「谷」と呼ばれていて、後輩からは谷先輩と呼ばれていた。わたしも周りに合わせて谷先輩と呼んでいた。
谷先輩とは顔を合わせれば挨拶程度で、個人的な話をするような間柄では無かった。
それが変わったのは、就職してから二年目のゴールデンウィーク明け、大学時代の友人に誘われた飲み会で、再会してからだ。実に四年ぶりの再会だった。
その飲み会は、パートナーの居ない知り合いを集めたいわゆる合コンで、わたしもそこに引っ張り出された。ただ、勢いで参加したもののちょっと腰が引けていた。
「社会人のお付き合い」ていうのがわからなかったからだ。
学生時代から付き合ってた人とは、わたしが三年四年の就活中ですれ違いが多くなり、別れてしまった。
その時に、わたしの予定に振り回されるのはもう嫌だ、と言われてしまった。
振り回している自覚は無かった。一歳年上のその彼は先に社会人になって慣れないスケジュールで忙しくしていたし、わたしだって卒論も就活もあって忙しかった。お互い待たせたり、待たされたりしたと思う。でもお互い様だと思っていた。わたしだっていっぱい待った。
ただ元々たくさんの事を一度に捌けないわたしは、とにかくいっぱいいっぱいで、彼に対して気遣いが足りなかったのかもしれない、とは思った。
お互い様、て思う時点で傲慢だったのかな。
何度も冷たいため息をつかれた。
「忙しいから後にしてくれ」
「今は大事なところだから」
こんなふうに言われて、 そして、とうとう、
「もうきみに時間を割きたくないんだ」
そう言われた。
咄嗟に何も言い返せなかった。
出張から帰ったばかりの彼は見たことが無いくらいにイライラしていた。電話口でもそれは感じていたけれど、それでも会う時間を作ってくれた、とわたしも急いで予定を変更して、会いに行った。
そこで、言われた。
「きみにはわからないだろうけど、正直今この時間が勿体無い。俺にはなんにもならない時間が耐えられない」
苛立ちを込めて放たれた言葉は、わたしを抉った。
「もう別れよう」
更に反論を許さない口調で彼は言った。そして彼とはそこで終わった。
ただ一方的に関係を切られたけれど、あの時のわたしには何かを変える言葉を探すことも、作ることも出来なかった。
わたしに使う時間が勿体無い。一方的に終わらせても構わない。つまり、わたしにはそれほどの価値しか無いんだろう。
そんなわたしと居たくない。
わたしには分かり得ない理屈でそう言われたら、どうしようもないではないか。
彼の判断基準では、わたしは要らない人間なのだ。
その後、わたしも大学を卒業してなんとか社会人にもなったけれど、その判断基準はわからないままだ。
そんなこんなで、わたしは社会人のお付き合いがわからないし、ちょっと怖い。誰かに少なからず忙しい時間を使わせるかもしれないと思うと、踏み出そうとは思えなかった。いや別に学生の方が好きなわけでは無いんだけども。
今回の合コンも初めは断ろうとしたんだけど、誘ってくれた友人曰く、「いい加減、外に目を向けなくちゃ」だそうで、半ば強引に参加が決定されていた。
というわけで、ビビりつつも参加した飲み会に、学生時代の顔見知りが居たことでちょっと心が安らいだ。それがたーさん、谷さんである。
谷さんは他の人よりも背が高くて、いつだって遠くからでもよくわかった。あ、今日は部室にいるな、今日の集まりにはいるな、て。
だから男性陣の中に谷さんが居たのはすぐわかった。でも、記憶とは違うワイシャツとスラックスのビジネスマン(夏版)なお姿。おお、社会人。
谷さんはわたしを見つけると、わずかに目を見開きゆるく微笑んだ。
「久しぶりだね、宮内さん」
「ご無沙汰してます、谷先輩」
ぺこりと頭を下げる。ちなみにわたしの名前は宮内すみれという。
「え、なに、宮内さん?と谷て知り合い?」
参加者の男性が谷さんを振り仰ぐ。谷さんの知り合いかな。
「うん。大学の時の後輩」
「え、橋田さんだけじゃないんだ」
橋田さんというのは、わたしを誘ってくれた女の子で、橋田恵里菜という。本日の幹事だ。ということは、谷さんがもう一人の幹事なのかな。
恵里菜ちゃんと、谷さんと繋がりが有ったとは知らなかったな。
なんだかんだと緊張がほぐれて、合コンは進んだ。
男性陣は谷さんの勤め先の方々で、同期らしい。割と穏やかな感じの方が多い。
気がついたら谷さんが隣りにいて、サークル仲間の近況を教え合ったりしてた。サークル時代は学年も違うし、あまり一対一で喋ったことなんてほとんど無かったはずだけど、谷さんが気を使ってくれるのか、自然と話せている自分がいた。
そしてその長い腕で遠くの料理を取ってくれたり、飲み物の追加を聞いてくれた。気遣いも出来て更にマメな人だと知った。
何が切っ掛けかわからないけど、子どもの頃なんと呼ばれてたか、という話題になった。
「え、これって結構恥ずかしくない?」とか言いながら、お酒の入っているわたしたちは照れながらも白状していく。
「僕はたーくんだった」
自分の番が回ってきて谷さんが言った。
「名前がたかあきだから」
なるほど。
「谷はあ行が多過ぎるんだよな」
「ほぼアカサタナで構成されているもんな」
谷さんの同僚さんが言う。
確かに。タニハラタカアキはあ行が多い。
「宮内さんは?」
谷さんがわたしにバトンを回す。
「わたしは、すー、でした。すみれのす」
「なるほど」
谷さんがごくりとグラスのビールを飲み干す。ドリンクを追加するのか、タッチパネルへ手を伸ばした。すっきりとしたデザインの腕時計を嵌めた腕が、わたしの視界を横切った。その浮き出た血管とか筋?とかが良いなぁ、なんてぼんやり思う。
「呼びやすくて良いね」
「そうですか?」
「うん、あと可愛いよ、すーちゃんて」
「……ありがとうございます」
ちょっと湿度のある声で「可愛い」と言われるとドキっ、とした。
「なんか僕のと似てるし」
たーくんとすーちゃん……そう言われてみれば?
まぁ、小さい頃の呼び名だしな……総じてわかりやすくて呼びやすい愛称になるのだろう。というか、家では未だに「すー」とか「すーちゃん」と呼ばれる。
「すーは、まだ自宅では現役です」
「へぇ」
「バリバリです」
「バリバリて」
くす、と笑って谷さんはタッチパネルをこちらに向ける。
「じゃあ、現役バリバリのすーちゃん、次何飲む?」
すーちゃん?
びっくりして谷さんを見上げると、谷さんの目はいたずらっ子のように光っていた。
ふふふ。
なんだかちょっとわくわくした。いきなりすーちゃんと呼ばれてしまったけど、嫌悪感はまったく無かった。むしろちょっと嬉しいまである。
こういう雰囲気、乗っかるべきでは?
うーん……でも先輩に「くん」はちょっとハードルが高いかもしれない。
でも、今まで同じ「さん」なら良い気がする。だって、たかあきくんがたーくんなら、たにはらさんはたーさんで良い気がする。
うん、そうに違いない。
「じゃあたーさん、ジンジャーエールをお願いします」
更に谷さん――たーさんは目を細めた。
正解だったようだ。
「もうお酒は良いの?」
「はい」
思考がふわりとしてきたから、これくらいで今夜はやめておこう。
わたしの答えに頷いて、周りのみんなにも聞いて注文を流す。わたしは、タッチパネルを次々操作する谷さんをぽやぽやする頭で見ていた。
ふと、その視線に気がついたのか谷さんが顔を上げた。目が合う。
「食いもん、なんか追加する?」
「あー、そうですね……この山芋と豆腐のグラタン食べたいです」
「いいね、届いたら僕にも一口ちょうだい」
これが、たーさんの誕生である。
なお、どんなサークルに入っていたかは謎です。
お読みくださりありがとうございました。