#09 在る/友よ、愛すべき他人よ
「…………厭な風」
ざあ、と木々の隙間を微かに血の臭いが混じった温い風が吹き抜ける。
十年間、飽きる程に同じ風を感じてきた。初めの頃は吹かれる度に気分が悪くなっていたそれも、今では慣れて何も感じなくなっている。
その筈なのだが、今日は血の臭いが妙に臭い。風の温さは肌に張り付き、蛞蝓が身体を這い回るような気持ち悪さすら覚える。
一言で言えば。
うざったい。
そう感じてしまうのは多分、集中できていないからだ。
今までは思考に多少雑念が混じったとしても、感覚だけは盲目的に目的を見据えることができていた。しかし今日はそれが酷く散漫で、普段なら気にも留めないようなことにまでいちいち反応してしまっている。
その原因は、当然――――
「…………柊君」
彼の顔が、思考にへばり付いている。
『三太が喰われた』。そう告げた彼の表情に、私は不思議と既視感を覚えた。いや、考えてみれば別に不思議ということもないのか。
ただ、見たことがあるだけだ。あんな風に、まるでなんてことのない日常の一場面を語るような気軽さで、死を口にする人の顔を。
あのどこまでも無関心で、そのくせ他人事程度には悲しんでいるかのような――そんな表情を浮かべる、よく分からない人の顔を。
「……貴女は――――」
どこへ行ったの、と言いかけて止める。
もう、あの人に縋るのは辞めた筈だ。彼女が姿を消したあの日、私が一度命を落とし、そして死に損なったあの日に。
――――もう、誰かの道具であるのは辞めると。
「………………ふぅ」
切り替えるように、溜息を一つ。
冷静になろう。落ち着いて、普段通りにしなければ。
そうしなくては、一瞬で終わる。ここは、戦場なのだから。
(……来た)
すぅ――と、吹き付ける風の温度が変わる。
冬らしい、凍て付くような冷たい風。普通なら季節的にも地理的にもごく平凡なその風は、雪霊にとってだけある事柄の合図となる。
……しんと一瞬、音が消える。
直後――静寂を呑み、周囲の木々を圧し折って、咆哮と共にそれは現れた。
「……Guooooooooooooooooooッ!!」
巨大な、熊。
三メートル、いや四メートルはあるだろうか。少なくとも、自分の知識にあるそれよりも遥かに大きいことは確かだ。
純白の体毛は北極熊を彷彿とさせるが、恐らく羆に近いのだろう。大きな頭や盛り上がった背中など、全体的な特徴は羆の方に酷似している。
……ふと、獣の白い体躯の中で口だけが赤いことに気付いた。
恐らくは血の色だろう――それがあの少年のものか、或いは他の「何か」のものか、そこまでは分からないけれど。
何であれ、この獣は生命を喰った――その事実だけは明白と言える。
別に、その行為を悪だなんて思わない。
思わない、が。
「……それとこれとは、別の話」
私は短剣を形成し、その切先を獣に向ける。
思い出はない。絆もない。
在るのは精々、顔と名前の記憶だけ。
でも。
「誰かが怒って、憎んであげなきゃ――可哀想、だものね」
彼の親友は、薄情だから。
「私が代わりに、やってあげる」
その悪ではない惨殺に、正義ではない復讐を。
何の意味もない彼の死に、何の価値もない餞を。
「――――ふっ!!」
雪を蹴り、疾走する。
獣までの距離は、大体二十メートルぐらいだろうか。羆は百メートル走を七秒程度で走ると言うから、普通はこれも死を覚悟する距離だろう――ましてアレは羆よりも更に異常な怪物だ、覚悟する頃にはもう死んでいる。
けれど私には、そんな距離ですらまだ遠い。何せ私はこんな短剣で、アレを殺さねばならないのだから。
「Guッ!?」
ぎろりと、獣の瞳が私を睨む。
気付かれたか。少し早いが、想定内だ。
「…………ッ!」
踏み込んだ足をぐいっと捻り、方向を変えて森の中へ。そのまま足を止めることなく、木々の隙間を縫うようにして獣の周囲を旋回した。
「……!……!?」
獣は私を目で追おうとして、戸惑うようにきょろきょろする。しかし捉えきれないようで、こちらに襲い掛かっては来ない。
そうして困惑する獣の背後に回り込み、その背に向かって直進し――――
「…………一つ!」
「Gaaaッ!?」
一太刀、斬り付けた。
そのまま追撃を狙ったり、無理に突っ込んだりはしない。私は身体を翻し、森の中へと跳び込んで再び旋回軌道に入る。
付けた傷は薄皮一枚。だが、今はこれで良い。
消耗戦――それが羆と戦うにあたり、私が出した結論だった。
現実的に考えて、短剣で羆には勝てない。
猟銃を使ったとしても、狙い所が悪ければ殺し損なうような獣だ。短剣で正面から行っても勝ち目なんて全くないし、それが怪物なら尚更だろう。
それなら、搦手を使う。まず初めに思い付くのは毒だが、この十年間こいつらに効く毒なんてものは一つも発見できていない。
となれば、分かり易いのは消耗戦だ。
小さな傷を無数に付け、失血を狙う。時間は掛かってしまうものの、勝利を求めて戦うならばこれが一番確率が高い。
あんな形でも生物だ、血を失えば命を落とす。更に言えばこの手段では、獣に対して雪霊が唯一勝る能力が活きる。
獣に対して、雪霊の方が勝る能力。それはずばり体力だ。
獣も生物である以上、疲労の概念が存在する。当然ただの人間や動物と比較すれば圧倒的に勝るものの、底は確実にあるのだ。
対して、私達にはそれがない。筋肉も肺も、心臓すらも持たない雪霊の身体が「疲労する」なんてことは、決して起こり得ないことだ。
ただでさえ血が失われ、体力を消耗していく状況で常に敵意を向けられ続ける精神的負荷は疲労を加速させていく。その上それをなんとかしようと我武者羅に暴れたりなどすれば、幾ら獣でも長くは保たない。
どれだけ強力な敵でも、時間を掛けさえすれば高確率で殺し切れる――それが私達にとっての「消耗戦」という手段だ。必勝法、と言っても良い。
……ただ、できることなら取りたくはない手段でもある――何故って、それは。
「Gyaaaaッ!?」
「っ…………」
斬り付ける度、獣が苦悶の声を上げる。
悲鳴じみたその声は、聞いて気持ちの良いものではない――否、はっきり言ってしまえば不快だ。
可能なら、一度だって聞きたくはない。だが、それでも私は繰り返す。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。その繰り返しが、まるで相手を嬲るみたいで――吐き気がする程、不愉快なのだ。
それでも、勝つ為には仕方が無い。そう自分に言い聞かせ、躊躇いを捨てて斬り続ける。斬って、斬って、斬り続けて――
――――その最中、ふと小さな違和感を覚えた。
(……おかしい)
旋回し、隙を突いて斬り付け、距離を取ってまた旋回。
そんなことを何十回、何百回と繰り返した。暗闇だった夜の空には紫色が滲んでいて、静謐だった森の中には鳥の声が響いている。
既に、それだけの時間が経過した――なのに。
(何で、平然としてるの……!?)
白い体毛の殆どを赤い血の色に染めて尚、獣は全く怯まない。
「Guooooooooooooooッ!!」
どころか寧ろ、凶暴性を増しているようにすら思える――並の動物、いやあの白い獣達ですら生きられる訳がない傷なのに。
羆とは、心臓を撃ち抜いても止まらない程生命力の強い頑強な獣だと何処かで聞いた覚えはある。あるにはあるが、幾ら何でも――――
「これは流石に、反則過ぎでしょ……!」
無論幾らタフと言っても、無限という訳ではない筈だ。
このまま続ければ、いつかは終わる。確実に限界は訪れる。
分かっている――けれど。
「ぐ、ぅ――――!」
時間が、傷が、押し込めていた罪悪感を刺激する。
一刻も早く止めを――そんな思考が、無視できない程大きくなる。
分かってはいるのだ。これを続けるのが最適解であることも、一撃で止めを刺せる程の決定打など自分には与えられないことも。
分かっているのに、一瞬迷って――――
「……!しまっ……」
ほんの少し、足がもつれた。
転ぶ程のものではない。ただ僅かに、速度が落ちる程度のもの。
それは、この状況において致命的なミスだった。
「Guooooooooooooooッ!!」
「――ぁ――」
気付いた時には、獣は既に眼前に居た。
回避――間に合わない。防御――不可能。反撃――駄目。
雪霊の身体なら、一撃ぐらいは耐えられるか?いや、それも多分無理だろう。この獣が持つ破壊力は、恐らく雪霊の耐久力など軽く上回っている。
つまりこれはどうしようもない、完全に詰んだ状況だ。
普段ならそんな状況でも、少しは足掻いてみせるのだが――最早、それすらできそうにない。雄叫びすら、上げる猶予がない。
――――あぁ、くそ――――
引き延ばされた時間の中、心の中で歯噛みする。
今年の冬は、これで終わりか。今年はまだ、奴を見つけていないのに。
それから――彼のことも。
(ごめんなさい、白銀君。復讐、してあげられなかった)
思い出はない。けれどほんの少しだけ、思い出に浸らせてくれた人。
愛すべき他人、そんな程度でしかない相手。それでも――――
(嫌いじゃ、なかったから)
だから、ちょっとだけ。
(あなたが死んで、哀しかったよ)
考えながら目を閉じた、その直後のことだった。
――――ひ、ん――――
不意に、奇妙な音が響く。
目を閉じなければ聞き逃していただろう、そう思う程に小さな音。その不気味に甲高い、空を裂くかのような音は、私にある男の姿を追想させた。
(霜之宮、冬至――――?)
そう思った、次の瞬間。
「Guaaaッ!?」
獣の悲鳴が、森に響いた。
何事かと、咄嗟に瞼を持ち上げて――そして、そこにいる存在を見た。
「……………………え?」
その姿に愕然として、思わずそんな声を漏らす。
何しろ、そこに立っていたのは――
「…………何であなたが、ここに居るの……?」
――――白銀三太の、薄情な親友。
柊白斗、だったのだから。
◇
――――ただ、走る。
何の為に走っているのか、目的地はどこなのか。そんなことは考えてみても分からないし、というかそもそも考えてすらいない気もする。
そうして走り続ける間、思考はずっと同じ場所をぐるぐる回り続けていた。
『命を大切に思う彼女と、命に価値を感じない自分。人間らしくないのは果たしてどちらの方かと考え、君は今少し悩んでいる。
だから君は、知りたいと思った。命の価値とは果たして何か――それが分からないことは、人間として間違っているのか。ひいては自分に、人間として生きるか死ぬかを選ぶ権利があるのかどうかを』
『言われて納得できるものなら、それが一番理想的だった。それなら例え今までの自分が間違っていたのだとしても、そこからは普通の人間になれる。人間として、悩み選ぶ権利を得られる。
仮に納得できないものでも、君的にはそれはそれで問題なかった。それは選ぶことを放棄し、立ち止まる理由付けになるからね』
『君、例えどんな答えでも納得する気は無かったんだろう?そうすれば、選ばなくて済むから。選ばない理由ができるから。人間でさえないのなら、人間らしい迷いなど抱えなくて済むからね』
氷吹孤織。彼女の言葉を、ずっと心で反芻している。
彼女の指摘は正直どれも的外れで、意味不明なものばかりだった。俺は別にあんなことを考えて胡乱に疑問を投げた気はなく、あの質問の意図はただ「何となく気になったから」という、たったそれだけのことでしかない。
たった、それだけのこと――その筈、なのに。
『君は――とんだ、卑怯者だなぁ』
何故だろうか。彼女の言葉に、反論する気が起きなかったのは。
怒るでも、戸惑うでもなく――拒んで、逃げ出してしまったのは。
(……いや、違う)
何故、なんて問うまでもない。
正しかったのだ。彼女の指摘、その全てが。
理解できない程自覚が無く、認められない程証拠も無い。それでも彼女の発言は、確かに正鵠を射ていた――そんな風に、確信をさせられている。今も胸の奥底でぐねぐねと蠢いている、このどす黒く不定形な感情に。
この感情が何なのか、今でも言語化できていない。
ただ一つだけ言えるとすれば、これは決して意味の分からない、どうでもいい言葉に対して抱く感情ではないということだ。
自分にとって確かな意味を持った、重い言葉に抱く感情。そうであるという認識が、彼女の指摘は図星なのだと俺に確信させていた。
(…………三太)
ふと、親友の顔を思い出す。
十年以上、自分の隣にいた男。血の繋がった家族よりずっと、長い時間を共にした相手。故に、どうしようもなく分かってしまう。
――――あいつは、俺が死んだら泣いただろうな。
だからこそ、否定したかった。
同じ時間を過ごしたのに、同じように泣けない自分を。
(……………………)
そう思うと、虚しいぐらいにしっくりきた。
(……ああ、そうか)
あいつの命に、生に、死に、価値があったのかは分からない。俺には涙を流すことも、殺した獣を憎むことすらできないから。
……でも、これだけは分かる。例え、それが価値にはならないとしても。
あいつは――俺の、親友だった。
あいつの「人間」としての命に、価値があるかは分からないけれど。
白銀三太という「人」は、俺にとって大切なものだったんだ。
もしかすると、それらは同じなのかも知れない。
けれど今の俺にはまだ、それを認めることができない。
あの雪の日に失くしたものが、あまりに大きすぎるから。
この重みとあの軽さを、重ね合わせることができない。
だから、せめて意味だけは。
意味だけは、「分からない」で終わらせたくない。
あいつの死には、意味があったと信じる為に――――
「……俺はもう、選ぶことから目を背けない」
人だとか、人間だとか、もうそんなものは関係ない。
俺は、俺として――自分自身の、道を選ぶ。
そしてもう、選ぶ道は決まっていた。
『……生きろよ』
三太が遺した、あの言葉。
俺はもう、あの願いには沿えないから。
だから、俺は。
「俺は、あいつの願いを裏切る」
死人を、死人のままでいさせない為に。
……あいつの願いとは、違うだろうけど。
俺が死人であり続けることが、俺に生きることを望んだあいつに対する一番の冒涜だと思うから――だから、俺は死に向かう。
つまり、この殺意は。
自分自身に、向ける殺意だ。
「っ……?」
きぃん、と。右手の中に、何かが灯る。
それはぴしぴしと、音を立てながら形を成す。
雪から生まれる、殺意の形。その、名前は――――
「……俺の、雪形」
その形は、妙に非現実的で。
それなのに、妙な親近感がある。
俺は、真っ直ぐにそれを構えて――
――――ぐ、と。人差し指に、力を込めた。
瞬間、空を切り裂く音が響く。
そして、直後にその音は――鈍い、悲鳴へと変わった。
「Guaaaッ!?」
悲鳴を上げたのは、先刻にも見た羆だった。
気付けば森の中に居て、夕暮れの空は朝の白んだ空になっている。
いつの間に、こんなところまで来たのだろう。分からないが、自分のやったことは分かった。
俺は、撃ったのだ。この『拳銃』で、眼前の獣を。
「…………何であなたが、ここに居るの……?」
月葉の驚く声が聞こえて、彼女の存在に気付いた。
何で、って。そんなもの、俺自身だって全く知らない。
だが、返答はごく自然に出て来た。
「ああ――死にに来た」




