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在りし日の残雪より  作者: 紅月 雨降
一/初冬之章
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#08 在る/命の価値

「…………ふぅ」


 読んでいた本を閉じた後、空白は小さく溜息を吐いた。


「いやぁ……駄作だったね」

「少しと言いつつ二時間待たせて、それですか」

「すまないね、私はそういう質なんだ。例えどんなにつまらなくても、途中で止めることができない。我ながら、面倒な性分だと思うよ」


 そう言って、空白は呆れたようにやれやれと首を横に振る。その他人事じみた雑な動作が無性に腹立たしく思えて、俺は空白を睨み付けた。


「へぇ……ふふ」


 しかし、空白はそれを見ても全く反省の色を見せない。それどころか懐かしむように目を細め、穏やかに微笑してみせた。


「…………何か?」

「いや、別に大したことじゃないよ。ただ――似ているな、と思っただけさ」


 似ている?

 何にだろう。考えてみるが、思い当たらない。

 まぁ、別に良いか。そう思うのとほぼ同時、テーブル席に居た空白が不意にふわりと立ち上がり、カウンター席に座る自分の左隣へと移動してくる。そうしてこちらに体を向け、上品な所作で頭を下げた。


「折角だから、名乗ろうか。私の名は氷吹孤織(ひぶきこおり)――そこそこ古参の雪霊だ。この体は、その結果……とでも言ったところかな」


 言われて、近くに来た空白――否、氷吹と名乗る相手を見る。成程、言われてみれば確かにこれは雪の白だ。遠目では分かり辛かったが、近くでよくよく見てみると各部に衣服や表情らしいパーツの起伏も存在している。


「雪霊になってから年々、体の色が薄れていってね。気づいた時には、すっかり色が無くなっていた。一体、どういう仕組みなのやら」


 まぁ、察しはついているんだけどね――そう言って、また氷吹は笑う。その表情は笑顔なのに無感情という酷く伽藍洞なもので、俺にはそれが胡乱のものと少し似ているように思えた。


「と、話が逸れた。そろそろ、本題を話そうか」


 わざとらしく手を合わせ、氷吹は言う。


「君の悩みに、私が()()答えを出そう」


 そう言えば、そんな話だったな。二時間以上待たされた所為で、正直忘れかけていた。思い返すとむかついてきたが、それは一旦置いておいて。


「……妙な言い方をしますね」


 こちらの言葉に、氷吹はにやりと笑って応える。


「敢えて、さ。意味は、君が考えてみると良い」


 試すようにそう言って、氷吹は一つ息を吐いた。


「さて――まず、結論から言おう。()()()()()()()()

「…………はぁ?」


 何を言い出すんだ、こいつは。

 俺が尋ねたのは命の価値とは何かであって、命の価値の有無ではない。要するにこの返答は、てんで的外れということだ。

 「答えを出す」などと思わせ振りなことを言って、二時間も待たせた挙句にこれか。呆れていると、氷吹が不意に不敵に笑った。


「呆れが顔に出ているよ、少年」

「…………出してますからね」

「まぁ、だろうね。だが少年、その表情になるのはまだ早い。あまり解答を急ぐなよ――私はまだ、結論を言ったに過ぎないんだからさ」

「……同じことでは?」

「違うよ、全然違う。どのぐらい違うかと言えば、トナカイとカモシカぐらい違う」

「同じ偶蹄目じゃないですか」

「似て非なるもの、ということさ。とにかくそんな表情をするのは、最後まで聞いてからにしたまえ」


 きっと、そうはならないけどね。そう言いたげに、氷吹は笑う。

 ……思えばこいつは、最初からずっと笑っているな。尤もその笑顔には、一度たりとも喜怒哀楽など感じ取れはしなかったけれど。

 不気味だ。そう思う俺に、氷吹は告げる。


「私が言いたいのは、()()に君を悩ませるものは存在しないということだよ――人間らしさなんていう、酷く曖昧な概念はね」

「……………………ぇ」

「違う、なんて言わないだろう?君は親友を眼前で喪い、しかし嘆き悲しまなかった。名前も知らない誰かのそれと、同程度にしか思えなかった。愛すべき()()の命にすら、全く価値を感じなかった。

 氷室月葉(ひむろつきは)――彼女の人間らしくなさを少し前に指摘したことも、多分切っ掛けの一つかな。命を大切に思う彼女と、命に価値を感じない自分。人間らしくないのは果たしてどちらの方かと考え、君は今少し悩んでいる。

 だから君は、知りたいと思った。命の価値とは果たして何か――それが分からないことは、人間として間違っているのか。ひいては自分に、人間として生きるか死ぬかを選ぶ権利があるのかどうかを」

「な、にを――――」


 ぐら、と視界が揺れる。世界が水の中みたいにぐにゃりと定形を失って、三半規管も胃も無いのに気持ち悪さで吐きそうだ。


「言われて納得できるものなら、それが一番理想的だった。それなら例え今までの自分が間違っていたのだとしても、そこからは普通の人間になれる。人間として、悩み選ぶ権利を得られる。

 仮に納得できないものでも、君的にはそれはそれで問題なかった。それは選ぶことを放棄し、立ち止まる理由付けになるからね」


 頭が、痛い。脳も無いのにぎりぎりと、締め付けるように強く痛む。


「だが君は、一つ勘違いをしている。

 君が求めた「人間らしさ」なんて基準は、そんなものの中にはない。何せ命の価値なんてものに、他の何かを封入できてしまう程の明確さなんて端から存在しないんだから」

「――――は、ぁ?」

「命の価値とは、元来曖昧なものだよ。それこそこの世で最も不安定な概念、と言ってしまっても過言ではないぐらいにね」


 何だ。何なんだ、こいつは。


「例えば、結島晶」

「…………え?」


 何故、その名前を知っている?聞くより早く、氷吹が言葉の続きを話す。


「彼は替えの効く恋人一人死んだだけで、自らの命を絶とうとした。つまり彼にとって自分の命は、恋人の命以下の価値だったと言える。

 対して、霜之宮冬至。彼は自分一人を生かす為、多くの他者を犠牲にした。つまり彼にとって、自分の命は他人複数名の命より重かった。

 どちらが間違っている、なんてことはない。所詮命の価値などは個人の判定でしかなく、明確に定義されてはいない。つまり誰にとっても価値ある命など、この世には存在しないということだ。

 仮に霜之宮冬至の前に結島晶の恋人が現れたとしても、霜之宮は何の躊躇もなく彼女を犠牲にするだろう。そんなものだ。命の価値など、所詮そんな程度の酷く曖昧なものでしかない。

 要するに、自分の命にも他人の命にも価値を感じないというのも個人の感じ方の一つだということさ。そんな個々の感じ方で、人間性など測れない。

 ……ああ、今分かった。君、例えどんな答えでも納得する気は無かったんだろう?そうすれば、選ばなくて済むから。選ばない理由ができるから。人間でさえないのなら、人間らしい迷いなど抱えなくて済むからね」


 そう言って、氷吹は妖しい笑みを浮かべる。


「君は――とんだ、卑怯者だなぁ」


 その笑顔に、心の底から恐怖した――否、違う。

 いや、違うとも言い切れないのか?自分でも自分の中にある感情が、どういうものだか分からない。何なのだろう、この捻れた酷く歪な感情は。


 ぐねぐねとした半液状の、スライムかアメーバみたいなどす黒い何かが、自分の内側を這いずり回っているような感覚。それは狂おしくて、気持ち悪くて、悍ましくて、恐ろしくて――敢えて言葉で例えるならば、ポジティブな感情が何一つとして混じっていない恋愛感情みたいなもの。


 曖昧だ。ただ一つ、確実に言えることは。

 ――――これ以上、関わりたくない。


「ッ…………」


 俺は咄嗟に席を立ち、鞄を担いで歩き出す。

 その背中に、氷吹が声を掛けてきた。


「……待ちたまえ、とは、言わない。だが、伝えておきたいことがある」


 その時、氷吹がどんな表情を浮かべていたのかは知らない。ただ、声だけは今までとは違う真剣なもののように思えた。


「死を恐れるなら生きたまえ。生が辛いなら死にたまえ。そのどちらもを抱えるなら、正しい方を選びたまえ。そして、どちらもを持たないのなら――」


 一拍を置いて、氷吹は告げる。


「――――間違った方を選びたまえ、だ。参考までに、覚えておくといい」

「……………………」


 俺は振り返らず、店を出た。

 外はもう暗い。だが、家の方には向かわない。

 寧ろ、そちらに背を向けて――俺は、雪道を走り出した。


       …


「……珍しいこともあるものですね」

「ん、何がかな?」

「貴女が人の選択に、口を出すことがで御座います。貴女は基本そういうことには口を出さないスタンスの方だと、そう思っていましたが」

「ああ、それで間違ってないよ。ただ――――」

「ただ?」

「迷える若者には、道を示してやりたいじゃないか」

「……老婆心、というものですかな?」

「まぁ、合ってはいるんだけど――君に言われると複雑だな」

「おや、それは何故」

「何故も何も、君に言わせれば私など老婆どころか受精卵にも満たないだろう――推定でも、百三十八億歳は余裕で超えている君からすればね」

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