#03 在る/まだ人間のままなくせに、もう人間ではないくせに
……校内に、本鈴の音が鳴り響いた。
その音を、廊下を歩きながら聞く。教室棟とは別棟の廊下で。
これによって遅刻が確定した訳だが、そんなことは今更と言うか正直どうでも良いことだ。なので特段気にすること無く、目的地へと歩いて行く。
そうして目指している場所は、特別な場所などではない。
目的地は保健室――望野木先生の仕事場だ。その目的は当然ながら、昨日はまともに話せなかった先生と改めて話をすることである。
あの後、月葉と別れて家に戻ったが先生の姿はそこには無かった。叔母さん曰く「仕事の都合で今日は帰れない」という連絡があったらしい。
まぁ、十中八九嘘だろう。今日先生が帰れない理由が仕事なんかでは無いことぐらい、アレの後なら馬鹿でも察せるというものだ。
そんなことがあって昨夜、先生と話すことは叶わなかった――尤も、仮に不在でなかったとしても家で話す気は無かったのだが。
なので今、元々決めていた通りに保健室へと向かっている――欠勤している可能性もほんの一瞬考えたが、即座に「無い」と断定した。
その理由は言ってしまえば「なんとなく」でしか無いのだが、そんな曖昧な感覚に対して今は何故か確信めいた自信がある。
そこに居ない筈が無い。そんな、信用以外特に根拠の無い確信は――
「……やっぱり来たんだな、白斗」
――――全く以て、正しかった。
予想通り、先生はそこで待っていた。普段通りの白衣姿で定位置の回転椅子に座り、いつものカップで飲み慣れた珈琲を飲みながら。
「入れよ。来ると思って、暖房は切っておいたから」
「……あ、本当だ。すみません、寒かったでしょう?」
「気にしなくていい。十年月葉を相手する内に、寒さには強くなったからな」
だからってあいつに感謝する気はないが、と苦笑いながら先生は言う。
その気怠げな表情も、呆れたような声色も、驚く程に普段通りだ。そんな姿を見ていると、昨日の取り乱した姿が嘘であったかのように思える。
思える、が――「真実味」に関して言えば、今の方が断然足りない。「確実な嘘」と「嘘のような出来事」ならば、真実は紛れも無く後者だ。
下手な演技をしている所為で、隠そうとしている筈の姿が寧ろ浮き彫りになっている――なんて、なんて皮肉な話だろうか。正直言って、分かり易く普段通りの自分を演じる今の先生の姿は、見ていてかなり痛々しかった。
「先生、あの――――」
あまり、無理をしないでください。そう言いかけて、口を噤む。
「……ん、どうした?」
「あー、えと……座っても、良いですか」
「は?いや、駄目な訳無いだろ……わざわざ聞くようなことか、それ?」
「はは……いや、なんとなく」
そう言って座る俺の姿を、先生は訝しむように見ていた。
そんな視線を向けられるのもある意味当然の帰結と言うか、我ながら相当不自然で、そして無理のある誤魔化し方だった自覚はある。が、咄嗟にはそれしか出て来なかったのだから仕方あるまい。
……危うく、昨日の二の轍を踏むところだった。相手の演技を暴くことがどのような結果を招くのか、それを間近で見たと言うのに。
反省した筈だ。嫌悪した筈だ。それなのに何故昨日の今日で、同じ過ちを繰り返しそうになるのかと心の底から呆れ果てる。呆れ過ぎて、今日までずっと動かせなかった生か死かの天秤を死に傾けたくなる程だ。
……などと考えておきながらも、獣と戦う覚悟を持つ程本気になり切れない辺り――所詮自分はどこまでも、中途半端なのだと思う。あれから一晩経った今でも、生死の結論を出せていないことも含めて。
「……前々から思ってたけど、お前って神妙な顔似合わないよな」
「……………………」
やっぱり言ってやろうかな。一瞬だけそんな考えがよぎったが、こういう軽口も普段の先生らしさなので口は閉じたままにした。
「……で?そんな似合わない顔の理由は?」
「話す内容に関して、少し悩んでいただけです。今の発言で気が抜けたので、そんな悩みはもうどうでもよくなりましたけどね」
などと適当に誤魔化して、元々決めていた質問を先生に向けて投げかける。
「単刀直入に聞きます――先生は、俺にどうして欲しいですか?」
「……?待て、質問の意図が分からん」
「あー……すみません、順を追って説明しますね。
最初は俺も、話す内容を色々考えていました。先生と月葉の関係性についてとか、先生はどこまで知ってるのかとか、俺が雪霊になった時の話とか。
でも、どれもあまり必要だとは思えなかった――と言うより俺と先生にとって「必要な話」は多分、昨日の時点で全部終わってると思うんです。「自分が死んだ事実を知られた」っていう、たったそれだけの内容で。
改めて話す理由についても、蟠りの解消だとか初めは考えてたんですけど……よくよく考えてみると、蟠りは別に無いような気がしたんですよね。せいぜい、自分の死をずっと隠してたことぐらいで……あ、それについては本当にすみません。慮ったつもりでしたが、余計なお世話でしたよね」
「ああ、いや……それは昨日も言った通り、別に気にしてないんだが……それで結局、さっきの話は一体どこから生えてきたんだ?」
「はい。……話し合うべきことが無くて、解消すべき蟠りも無いなら、俺は先生に一体何を話せば良いのか――あの質問は、それを考えた結果です。
自分勝手だとも、失礼だとも、不謹慎だとも思うんですが、俺には貴女に自分の死を知られることになった事実が悪いものだと思えなかった。それどころか寧ろ、好都合とすら思えました――貴女に知られてしまったことで、今まで頼れなかったことを頼れるようになりましたから」
そうだ。だからこそ、俺は貴女に尋ねたのだ。
「要するに――あの質問は、俺が一番貴女に頼りたかったことです。
言ってしまうと俺はまだ、月葉のように進む道を選べていません。本音を言えばここで伝えられるのが、最善の道だったんですけど……俺にはどうしても、自分が迎えるべき末路を選ぶことが出来ませんでした」
……ずっと、決断出来なかった。
自分は冬だけでも生きたいのか、それとも死んで冬を終わらせたいのか。改めて考え直してみたが、答えは全く見つからなかった。きっと子供でも答えを出せる問いなのに、見つけることが出来なかった。
まだ人間のままなくせに。
もう人間ではないくせに。
「……俺には自分が生きる理由も、死ぬ理由も分からなかった。だから、先生に聞きたいと思ったんです。俺にどうして欲しいのか――俺に生きていて欲しいのか、それとも俺は死ぬべきなのか。
この結論を委ねることがどれほどまでに身勝手で、残酷な行為かは重々承知しています。だけどそれでも、俺は貴女に選んで欲しい。
貴女の願いなら、俺は従う。死ねと言われれば戦いに身を投じるし、生きろと言われれば誰の生命でも踏み躙る。だから、教えてください――貴女は俺に、これからどう在って欲しいですか?」
我ながら、本当に自分勝手だと思う。
相手の気持ちを考えていない。まるで、出来たばかりの傷口に塩を塗り込むかのような――否、この質問はそれより遥かに残酷だ。
それを理解した上で、俺は先生に答えを求めた。
配慮出来たのにそれをせず、自分の利益を優先した。
(……やってることは、霜之宮冬至と変わらないな)
自身の存在を守る為に、他者の生を犠牲にすることを選んだ男。自分がやっていることは、彼と何一つ変わらない。
己の為に、他者を平気で踏み躙る――全く同じ、外道の所業だ。
それが出来てしまう程度には自分自身が大切なのに、生に執着は出来ないなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。人間らしくないのはどっちだ、と昨日の自分に文句を言ってやりたいぐらいだ。
……そんなことを考えていると、不意に先生が大きな溜息を吐きながら、小さな声でぽつりと溢した。
「はぁ……なんか、自分が馬鹿らしく思えてきた」
「え?」
「ん……いや、何でもない」
そう言って、先生はずっと持ったままだったカップを置く。その動作は酷く気怠げで、しかし先刻までのような痛々しさは微塵も無い。
……本当に。ただ、いつも通りの彼女だった。
「それよりさっきの質問だが、私の答えは「自分で考えろ」だ。分からないことを言い訳にして、苦しむ時間を他人に押し付けようとするな。その行為が許されるのは、せいぜい小学生までだ」
「っ……でも――――」
「話がそれだけならもう行け。幾らお前が雪霊で、一年のうち四分の三を確実に欠席する留年確定野郎だとしても、体調の悪くない生徒をここに置いておくことは、私の立場上出来ないんだよ」
「……分かりました、失礼します。それから……ごめんなさい」
「……ああ。早よ行け」
そう言って、先生はひらひらと手首を揺らす。俺は渋々それに従い、保健室を後にした。
丁度、一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。先生の言う通り留年は確定しているので、今更出る意味は正直言って無いのだけれども、今日はなんとなく二時間目から授業に参加することにした。
ゆっくりと、人の居ない廊下を歩く。その最中、俺は無意味で無意義なものとなったこの一時間の出来事を、思考の中でぼんやり反芻し続けていた。
…
「……行ったか」
扉が閉まって数分後。すっかり冷えた珈琲を漫然と口に運びながら、小さく一つ溜息を吐く。
あいつは多分、私の下手糞な演技にちゃんと気付いていただろう。その上で私に気を遣い、敢えて指摘を避けていた。そのぐらい、あれだけ露骨に誤魔化されれば嫌でも気付くというものだ。
……多分、月葉の傷に触れたのだろう。あの姿を一度でも見れば、誰しも二の轍を踏まないように自然と気を遣うようになる。
だから私は、敢えて指摘しなかった。二の轍を踏んでしまわない為に。
私よりも、白斗の方が――余程、おかしくなっていることを。
「あの馬鹿、まさかあんな台詞を吐くとは……いや、そもそもあいつの口から素直に「頼りたかった」なんて言葉が出てくるとはな」
その言動は、柊白斗らしくなかった。
行方不明になった日もそうだったが、あいつは普段自分が弱っている所を他人に見せようとはしない。特に、自分と近しい相手には。
その白斗が、自分が弱っている姿を最も近しい相手に晒し、挙句助けを求めるなんて、どう考えてもらしくない。その事実に気付いた瞬間、頑張って平静を装おうとしていた自分が急に馬鹿らしく思えてしまった。
(自分より動揺している人間を見ると、逆に冷静になってくる――なんて話をよく聞くが、今回初めてそれを実感した気がするな)
考えながら珈琲を口に運ぼうとして、中身が空だったことに気付く。淹れ直そうかとも思ったが、面倒だったので止めた。
そうして仕方なく立ち上がり、緩慢な動作でカップを流し台に置いた後、先刻の会話を思い出してふぅ、と小さな溜息を吐く。
「……残酷、だったかねぇ」
呟いて、鞄の底から小箱を取り出す。蓋を開けて中から煙草を一本抜き取り、窓を開けてからそれに火を点け、空に灰煙を昇らせた。
「マズっ……やっぱり、私には合わないな」
そう文句を垂れながら、呆然と空を仰ぎ見る。
「全く……助けを求めたいのは、私の方だっての」
思わず、弱音が口から漏れた。誰に語りかけるでもない――否、今この場所に居ないだけの明確な一人に向けた弱音が。
「孤織先生――貴女は今、何処で何をしているんですか?」