#02 在る/白い世界
「……良い?白斗。命というのはね、とても大切なものなのよ」
ある朝。泣きながら必死で「いかないで」と引き止める僕に、お母さんはすごく冷たい声で言った。
その怖い声にびっくりして、何も言えなくなってしまう。そんな僕を見下ろしながら、お母さんは同じ声のままで続けた。
「私達医者にはね、それを守る義務があるの。それも一人や二人じゃなく、もっと沢山の命をね。つまり貴方の我儘を聞いて私が仕事に行かないと、その沢山が助からなくなる。一人の貴方の我儘と、沢山の人の大切な命。どっちを優先すべきかぐらい、白斗なら分かる筈だよね?」
……正直、何を言っているのかはあんまり分かっていなかった。ギムとか、ユーセンとか、知らない言葉が出てきたから。
でも――そう言うお母さんの声が、目が、怖いぐらいに冷たく思えて、怒られている気がしたから、思わず「うん」と答えてしまった。
お母さんは僕のそんな適当な返事に「良い子ね」とだけ返して、さっさと仕事に出掛けてしまう。がちゃりと玄関が閉まって、しんと静かになった家で、独りぼっちになった僕は自分のしたことを反省した。
これは、言っちゃいけないことなんだ。したら怒られることなんだ。
だから、もう二度と我儘は言わない。そう決めてから玄関を離れ、リビングに戻り、ソファに座ってじっと家政婦さんを待つ。
誰も居ない家は凍り付いたみたいに静かで、電気は点いている筈なのにどこか薄暗いような気がして、お化けが出そうなぐらい不気味だ。
テレビを点けようかとも思ったが、前に怒られたことを思い出してリモコンに伸ばした手を引っ込め、ぎゅっと三角座りをする。
……家政婦さんが家に来るまで、長い針があと一周。それまでの間、お父さんもお母さんも居ない家で、一人っきりになってしまう。
「しょうがないよね――いのちは、たいせつなものなんだから」
それは、僕にもなんとなく分かる。
命は大切。こうして今が怖いのも、命を失くしたくないから。
怖いのは独りぼっちなことでも無いし、気持ち悪いぐらい家が静かだからでも無い。ただ自分が弱くって、死にそうだから怖いんだ。
そして、怖いのは僕だけじゃない。
お父さんとお母さんは、そんな僕以外の「怖がってる人達」を助ける為に頑張ってるんだ。だから、僕一人だけ見てられないんだ。
お母さんが言ってたのは、きっとそういうことだと思う。
だから、しょうがない。これは、しょうがない。きっと、しょうがない。
……だって、命は大切なものなんだから。
◇
その日は、夜から雪の予報だった。
厳冬地であるこの街では、特段珍しくもない天気。寧ろ吹雪かなそうなだけ、この時期にしては天気が良いと言えるかも知れない。
十二月三十日。新年を明後日に控えたこの日、僕は誕生日を迎えた。
とは言っても正直そんなに嬉しくないし、特別感も別にない。僕にとっての誕生日は、いつも通りに家で一人で過ごす日だ。
普段と違うところと言えば、リビングにプレゼントが置かれていることぐらいのものか。それも別に欲しくもない、新発売のゲームばかりが。
「子供にはこれを与えておけば良いのだろう」という、二人の投げやりな考えが透けて見えるプレゼントだ。そんなものでも一応贈られたものだから、喜ばない訳にも行かない。正直言って、最早迷惑ですらある。
どうせ今年もいつもと同じ、そんな迷惑を押し付けられる日なのだろう。
けれど、それは仕方の無いことだ。だって、命はとても大切なものなのだから――そんなことを考えながら、憂鬱な気分で部屋を出る。
「……………………え?」
その直後、視界に映った異常な光景に僕は思わず愕然とした。
「おはよう、白斗」
「……おはよう」
普段ならもう家を出ている筈の二人が、落ち着いた様子でのんびりと珈琲を飲んでいる。見慣れないその光景に、思考が一瞬フリーズした。
「……休みだからって気を抜き過ぎだ。遅くとも七時半には起きろ」
「あ……えと、ごめんなさい」
「まぁ、今日ぐらいは良いんじゃない?折角の誕生日なんだから」
そう言って穏やかに微笑んだ顔は、記憶の中のお母さんとは全く違うものだった。僕の知っているお母さんは、こんな笑顔を浮かべない。
「……少し、甘過ぎはしないか?まぁ、別に良いが……」
そう呟いたお父さんの表情も、全く見覚えのないものだ。と言うかそもそも表情が変化するところ自体、生まれて初めて見たような気がする。
随分久し振りだからか、声にも少し違和感があった。
こんなに高い声だったっけ、こんなに低い声だったっけ――比較対象が記憶に無いから、違和感の正否を問うことも出来ない。
顔に見覚えが無くて、声も思い出せないなら、それは単なる赤の他人ではないだろうか――思ったが、無意識は二人を自分の親だと認識している。そんなちぐはぐな感覚に若干の混乱を覚えながら、呆然と二人に問い掛けた。
「えと、二人とも……何で、まだ、居るの?」
「ん……ああ、驚かせてすまない。お父さんもお母さんも、今年は何とか今日に合わせて休みを取ることが出来たんだ」
「ずっと仕事ばっかりで、寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。お詫びと言っては何だけど、今年は白斗の誕生日を目一杯お祝いするからね」
そう言って笑う二人の顔は、やっぱり見たことのないものだった。
どこか申し訳無さそうな、けれど優しげで愛おしい笑顔。その笑顔を見ていると、今まで諦めていたものが全部溢れ出しそうになる。
一緒に過ごしたい、独りぼっちはもう嫌だ、たまにはこうして話がしたい――そんな強烈な願望は、けれど言葉に出来なかった。
言えなかった。そんな、身勝手な我儘は。
「…………………………」
その代わりとでも言うように、一筋の涙が頬を伝う。
「どっ、どうした、急に……!?」
「ご、ごめんね、白斗……!やっぱり、寂しかったんだよね……!?」
前触れも無く突然泣き出してしまった僕を、二人が必死に慰めてくれる。そんな「普通の親」らしい態度が――これ以上無く、嬉しかった。
◇
「……ねぇ白斗、本当にこれだけで良かったの?」
白い小さな箱を胸の高さに持ち上げて、お母さんが不安げな顔で聞いてくる。僕は小さく微笑んで、「それが良いんだ」と返答した。
「家で一緒にケーキが食べたい」――何かして欲しいことや欲しいものは無いか、と二人に尋ねられた際、僕はそんなお願いをした。
二人には「それだけで良いのか」「もっと我儘を言って良いんだよ」と何度も言われたが、結局それ以外のことは何もお願いしていない。
していない――と言うよりも、それぐらいしか「言えなかった」。
だって、我儘を言うのは悪いことだ。「言って良い」と言われていて、別に怒られないとしても、悪いことなんて出来る限りはしたくない。
だから我儘にならない程度の、出来るだけ些細なお願いをした。それを心配されるなんて、意味が分からないとしか言えない。
ともかくそんなことがあり、郊外にあるケーキ屋さんまで車でケーキを買いに来た。お父さん曰く、ネットで評判のお店らしい。
ケーキは食べたことが無いので、二人と同じものを選んだ。
それはごくごく一般的な、苺の乗ったショートケーキ。味は全く知らないが、見た目だけはどこかで見たような気がする。
赤くて、白くて、綺麗。食べてしまうのが勿体無いような、けれど早く食べたいような、不思議な感情が頭の中を支配している。
頭の中は、そうだった。けれど、胸の内を占めていたのは――
(……なんか、家族っぽい)
――――そんな、愛おしさだった。
家族と誕生日を過ごせること。一人虚無感に襲われながらやりたくもないゲームをしなくていいことの、なんと幸せなことだろうか。
更には家で誕生日ケーキを一緒に食べられるなんて、夢のような出来事だ。いや、実は本当にただの夢なのかも知れない。
……ああ、願わくば。夢ならば、永遠に覚めないで欲しい。
この時間が、ずっと続いてくれたなら――――
「……白斗?どうかしたのか、ずっと黙って」
「え?……い、いや、何でもないよ」
「……そうか。何かあるならいつでも言えよ」
そう言って煙草に火を点けてから、お父さんがアクセルを踏む。
家に向かって、車が走り出した。家に戻れば一緒にケーキが食べられる。楽しみなことこの上無い――筈なのに、何故だろう。
このまま行っては、いけないような――――
「待っ……」
「……ん?何だ、あの黒い――――」
……しんしんと、雪が降り始めた。まるで、惨劇を覆い隠すかのように。
◇
……まさに、地獄絵図だった。
化け物のような黒い獣が、幸福を全て蹂躙していく。
破壊され、ガソリンの漏れた車はお父さんの吸っていた煙草が引火し、中に積んでいたケーキ諸共燃え上がっている。咄嗟に車を飛び出したお父さんは爪で顔の肉を剥がされ、頭蓋骨が剥き出しの状態で死んでいる。
一緒に逃げようとしたお母さんは僕の代わりに捕まって、胸から順に喰い千切られた。幸福の絶頂から刹那の内に絶望の底へと叩き落とされ、僕は逃げることすらも忘れてただ呆然と立ち尽くす。
気付けば、目の前に黒い獣が迫っていた。
死を直感し、恐怖に震える。けれど、足は動かない。
瞬間――銃声が響いた。
一発、二発、三発――何度か繰り返し響いて、多分十発行かないぐらいで黒い獣はぐしゃりとその身を雪の中に倒れ込ませた。
「坊主、大丈夫かぁ!?」
「こりゃひでぇ……警察、警察呼べ!」
「もう大丈夫だからな、おっちゃん達が悪い熊を懲らしめてやったから」
そんな声が聞こえたような気がするけれど、正直あまり定かではない。と言うよりも、そんなことには全く興味を持てなかった。
目の前に広がっている光景――お父さんが、お母さんが、それを蹂躙した羆が、死んで斃れ伏す姿。今の思考には、それ以外入る余地が無い。
……その光景に、ぼんやり思った。
(……あぁ、◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️)
◇
「ッ……」
目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。
夢ならば、とは思っていたが、まさか本当に夢だったとは。道理で途中、先の展開を知っているように感じる瞬間があった訳だ。
……それにしても――最後。
あの時、俺は何を思ったのだろう。何度もあの日は夢に見るが、最後だけは毎度靄がかかったように思い出すことが出来ない。
まぁ、多分悲しみか絶望だろう。そう適当に思考を投げて、学校に行く支度をする(着替えが特に必要無いので、鞄を肩に掛かるだけだが)。
「……さて――行くか」
決意を胸に家を出て、学校を目指し歩き出す。
……恐らくそこに居るであろう、先生と話をする為に。