第5話
火野上さんをお風呂に入れて綺麗にする。
これは彼女を紹介された時から常に考えていた事だ。
彼女はとにかく臭い、何日間お風呂に入っていなかったのか? というレベルを超えている。
同棲生活をする上で、臭いというものはとにかく重要なんだ。
今のままの彼女とでは、一緒にご飯を食べる事も躊躇してしまう。
「嫌だ」
「入らないとダメだよ」
「ノノン綺麗だよ」
「汚いでしょ、髪だってフケが凄いし、臭いだって凄いじゃないか」
「ノノン汚くない。みんな綺麗だって言ってくれる」
「みんなって誰だよ」
「セックスしてくれるみんな」
分かっていた事だけど、本当に一筋縄ではいかない。しかも決まって彼女は最後に自分を甘やかしてくれる最低な大人を、自分にとって最高の人として紹介してくる。女の子が自分の身体を許すという一番守らなくてはいけないはずの事を、彼女は真っ先にそれを差し出してしまうのだ。クズみたいな人間ならそれは最高の事であり、終わってしまえば彼女の女としての価値はゼロまで下がり、不要なものとして軽蔑の対象となってしまうのに。
「そのみんなは、火野上さんを守ってくれた?」
「……話を聞いてくれた。ノノンいい子だって優しくしてくれた」
「でも、今はいないじゃないか。会ってくれる人だっていないだろ?」
ムスッとした顔のまま、僕を視界から外す。
相も変わらず床は血まみれだし、色々な臭いが混ざって息をするのも我慢してるのに。
「火野上さん、君はあと一日したら僕と一緒に学校に行くんだよ?」
「……」
「綺麗な制服を着て、一緒に学業に勤しんで、世間が望む普通を一緒になって目指すんだ。その為にも、身体を清潔にするっていうのは最低限のマナーなんだよ。ハッキリ言う、今の火野上さんは臭い、今まで君の周りの大人は嘘ばかり言ってきたみたいだけど、僕はこの臭いに耐えられそうにない」
「……ひどい」
「ひどいって、お風呂に入らない君の方が酷いと思うけど」
「ノノン臭くない! お前が間違ってるんだ! 大体お前誰なんだよ!」
「黒崎桂馬、君専属の青少女保護観察官だ」
「そんな人知らない、出てけよ!」
「出て行かない」
「なんで!? ノノン出てけっていったのに!」
座ったまま、彼女は足で僕の事を蹴ってきた。
十五歳とはいえ男女の差がある、ましてや彼女は病的に痩せているんだ、いくら暴力を振るわれても痛くも痒くもない。ゲシゲシと数回蹴ってきては、近くにあるものを放り投げてきた。汚い下着によれたシャツ、何だか分からないぬいぐるみに割れたペンケース……ほとんどがゴミじゃないか、なんでこんな物を持ってきたんだ。
「これは全部処分するからね」
「なんで!? 返してよ! 返せよドロボウ! ドロボウーーーー!!!」
今度は立ち上がって両こぶし握って全力で叫ぶ。もはや悲鳴だ。
そのまま取っ組み合いになって、結局手にしていた物は全て奪われてしまった。
本日二度目、渡部さんに連絡を入れる。
『初日なんだ、あまり踏み込み過ぎても警戒されるだけだぞ』
「そうなんですけど……でも、明後日から学校生活が始まるんですよね?」
『そうだな、それまでには小奇麗にしたいという気持ちも分かるが』
「小奇麗と言うか、お風呂だけでも入ってくれたら、それでいいんですが」
とにかく火野上さんは僕の言うこと全てに反発する。上から目線での物言いにならないように気を付けてはいるんだけど、そういった気配りの全てが無意味なんじゃないかって思ってしまうぐらいに、耳を傾けてすらくれない。
『とりあえず、その家は防音になっているからね、いくら彼女が叫ぼうが警察に通報される心配はない。マンションの管理人も警備の人も、その部屋で国家プログラムが動いている事を把握している。焦ることはない、ゆっくりと接していけばいい』
「……そう、なんですけどね」
『どうしても……というのであれば、君の部屋の入って右側、足元の隠し引き戸、そこに暗証番号付きの金庫がある。その中の道具を使っても構わない』
隠し引き戸、その存在を勿論僕は知っている。彼女を逮捕、監禁する為に僕が使用を許されている道具。手錠や首輪、拘束したまま連行する為の鎖、紐。傍からすると虐待や暴行の道具に見えてしまうが、これらは法的に許可された僕の道具だ。
警察官が犯罪者を逮捕する時に使用するのと同じ、僕は火野上さんに限り、彼女を逮捕、連行、監禁する事が出来る。ただし、客観的に見て、その行為が彼女の為であると認識できる範囲に限るのだけど。
「基本的に、それらには頼らない方向で考えています」
『そうか……まぁ、無理のないようにな。第一に考えるは彼女の安否だ、彼女を死なせてしまうことの無いように、そこにだけは十分気を付けて欲しい』
分かりました、と答えたものの。
その時の僕には、この言葉の本当の意味を、理解していなかった。
「さてと、色々とあるかもしれないけど、お風呂にだけは強引に入れてしまうか」
もう一度気合を入れ直して、火野上さんの部屋へと向かう。
部屋の中は先ほどのまま全く片付けられた様子はなく、彼女は生理用品を取り付けたのか、再度ジャージを穿き直し、こちらに背を向けたまま床に寝そべっていた。もちろん、使用したであろう生理用品の包装紙なんかは、そこらに散らかったままだ。
床に落ちる赤くて長い髪、今は汚れているけど、ちゃんと手入れをしたらお尻くらいまでの長さはありそうだ。穿いている靴下には沢山の穴が空いているのが分かる、ジャージだって一体いつから着古しているのか、ほつれや穴、そういった類のみすぼらしさが、横になった彼女からヒシヒシと伝わってくる。
「無理矢理で、ごめんね」
言葉で説得しようと考えるのが、きっと間違っている。
身上書から把握した彼女の個性、彼女はきっと人の話を一切聞かない。
横になっていた彼女のお腹を両手で抱えて、一気に持ち上げる。
俵か何かを運ぶ時のような形、これなら彼女がどう抵抗しようが関係ない。
「え、や、やだ! なに⁉」
「お風呂に連れて行くだけだから」
「嫌だ! お風呂嫌なのに!」
「いいから、今日一回だけ、一回入れば明日は入らないで良いから」
「嫌なの! ノノン嫌だって言ってるんだよ!? なんで分かってくれないの!?」
そのセリフはコッチの台詞だよ、と言いかけてた言葉が、衝撃的な痛みで止まる。
「いっっっってぇッ!」
「うーーーーッ!」
火野上さんめ、身体を捩じらせて僕の腕を思いっきり噛んできたな?
だけど、そんなので負けない、今だって臭くて吐きそうなんだ。
密着してより一層臭い、女の子の臭いじゃないよこんなの。
最初、なんでだろうと思ったこの家のシステム。
この家は、部屋の内外どちらからでも鍵を掛けられる事が出来る。
もちろん僕のみ、彼女には一度閉められたら開ける事は出来ない。
そのシステムが浴室にもあるんだけど、こういう時の為かと心の底から理解した。
彼女を担いだまま脱衣所を抜け浴室に入り、ドアノブ下にある丸いポッチを押して施錠する。
『黒崎桂馬様を確認、施錠します』
このドアノブが優秀で、施錠した途端にドアノブが扉に収納されてしまうんだ。
この仕様により、彼女が室内にいたとしても、紐か何かで固定する事が出来ない。
扉は全て廊下側に開く開き戸、さすが国のプログラム、細かい所まで徹底してる。
暴れる彼女を浴室に下すと、脱兎のごとく取っ手の無くなった扉を開けようとする。
「……ってて、本気で噛むんだもんなぁ」
袖を捲ってみると綺麗に彼女の歯形が残っていて、中には食い込んで皮膚がえぐれている部分もあった。血が染み出てきてズキズキと痛む……まったく、初日からこれか。でも、ようやく彼女を浴室まで連れてくることが出来た、これで綺麗に洗う事が出来る。
「火野上さん、シャワーだけでいいから、ね?」
「嫌だ」
「なんで嫌なの?」
「ノノン綺麗だよ」
「綺麗なのが好きなの?」
「綺麗なの好き」
「洗った方が綺麗になるよ?」
「洗わなくても綺麗」
水掛け論だな。
「なんで洗わなくても綺麗だって思うの?」
「だって、みんなそう言うから」
「その皆よりも、僕の意見の方が正しいと思わない?」
「……みんなは優しい。ノノンの話し、ちゃんと聞く」
「僕だってちゃんと聞くよ? 火野上さんは何で体を洗うのが嫌なの?」
火野上さんは自分の腕をじっと見つめたまま、返答せず。
数分待ったけど動きがないから、僕は再度問うた。
「言ってくれなきゃ分からないよ、理由があるなら言って欲しい」
「…………痛い」
「……え?」
「お湯……痛い、痛いのは、ノノン嫌い」
膝を抱え込みながら震え始めた火野上さん。
そして僕は、彼女の言わんとする理由を、初めて知ることが出来た。
膝を抱えたことによりズレたジャージの長袖、露わになった彼女の腕には、酷い火傷の跡があって「ちょっと見せて」と言った彼女の腕の裏側には、何本ものリストカットの跡が、まだ傷口状態のそれらが存在していたのだから。
「これは……」
傷の跡がまだ新しい、リストカットはつい最近のものに見えるが、火傷はそれなりに日数が経過している……と、信じたい。一日に三度も連絡する事を一瞬悩んだが、状況確認の為だ、やむを得ない。ポケットの中のスマートフォンを取り出し、渡部さんへと連絡を入れた。
本日はここまでです。
誤字報告ありがとうございます!